第7話 平穏への帰還 その2
おやっさんの聞き慣れた声を背に、扉を開けて木製の通路を進む。
つきあたりの扉を開けて、鍵を内側から掛ける。
中は――借りている部屋の半分ほどの広さの殺風景な空間。
床には砂利が敷かれ、その上に木製の足場が組まれている。壁も同様に木製。
所々に見受けられる穴は、外から覗かれないよう粘土で塞がれている。
磨かれた銅の大鏡、荷物を置く木製の棚と籠。
そして、井戸。
「ほうほう、宿で身体が洗えるようになってるなんて、随分と贅沢にゃ」
「だろ?」
物珍しげにあたりを見回すクロに同意するよう頷く。
この界隈の宿で、身体を洗うための水場が用意されているのは珍しい。
アールスの街自体の水量が豊富であることは当然だが、勿論それだけではない。
よその街では、飲み水だけで銅貨を持っていかれることもあるのだから。
これもひとえにこの宿の心意気の顕れの一つ。
「おやっさんも女将さんもきれい好きなんだよ」
お前も身ぎれいにしておかないと皮を剥がれるぞ、などと脅してみると
「ちょッ、何と恐ろしい宿にゃ、にゃにゃ~!」
冗談に震えあがるクロを抱え上げて部屋の端に移動し、備え付けのはたきで泥を落とす。
全身毛だらけのケットシーだけに、念入りに。
ある程度払い終えたら、クロは下に置いて今度は自分の服の番だ。
手の届かない箇所については、服を脱いで丁寧にはたく。
「そろそろ洗濯せにゃならんな、これは」
何日も着続けていた服は、たとえ表面の汚れを払っても、
汗やら何やらで鼻が曲がりそうなほどの異臭を放っている。
身体を洗った後に改めて着直したいとは思わないほどに。
――こういう時、男は楽でいいよな、適当で。
、
下着まで全部脱いで裸になり、荷物を籠にまとめ、
井戸から桶に水を汲んで、クロの頭にぶっかける。
「ニャ――――――!!」
突然の水攻めに全身を硬直させるケットシー。
その隙に使いおきの石鹸を泡立てて、背後から回り込みその豊かな黒毛に覆われた身体をかきまわす。
「はーい、どこか痒いところはありませんか?」
わしわし、ごしごし。
軽く爪を立てて上から下まで。
石鹸もなかなか質の良いものを使っているせいか、とてもよく泡立つ。
「にゃ、にゃ、もうちょっと下、あ、そこ……そこニャ」
しばしの間気持ちよさげに目を細めていたクロの言うがままに身体を洗ってやり、
「前は自分で洗えよ」
「はいニャ」
残りを任せて、再び汲み直した水を今度は自分の頭にぶっかける。
「つっっ……ッ!!」
冬は過ぎたとはいえ、まだ夏は遠く、水は冷たい。
全身に鳥肌が立ち、悲鳴をこらえるのにいささかの労苦を伴う。
お湯があれば、さらに湯船があれば言うことなしだが、
さすがに個人経営の宿屋にそこまで望むのは贅沢と言わざるを得ない。
王侯貴族や大商人御用達の大店じゃあるまいし。
「我慢、我慢……ひぅ」
呪文のように唱えながら何度も水をかぶり、
備え付けの布に石鹸をこすりつけ、身体をぬぐう。
前だけでなく、背中も。
頭のてっぺんからつま先まで、余すところなく。
汚れも垢もきれいに落としつつ、
しかし肌を傷つけない程度の力加減。
女の身体はどこもかしこもデリケートだ。
柔らかい部分は素手で丁寧に洗わなければならない。
「髪も洗わねーとな」
腰まで届くピンクブロンド。
見栄えはいいが、維持する手間もバカにならない。
でも、面倒だからと放置するのは問題外。
武術や魔術と同じく、容姿だって持って生まれた才能の一つ。
せっかくの才なら磨かなければもったいない。
棚に戻り、手持ちのポーチから専用の薬液を取り出し、
水を混ぜ両手で泡立てて、少しずつ揉むように髪を洗う。
幼少の頃に実家のメイドがやってくれていた記憶を思い出しながら、とにかくゆっくりと、壊れものを扱う様に。
鼻歌を歌いながら、たっぷりと時間をかけてボリュームある髪に満遍なく液体をまぶし終わる。
「クロ、そっちは……って」
足元にいた黒い毛玉の塊は、まだら模様の泡の塊に変貌していた。
「こっちはいつでも大丈夫ニャ」
「お、おう。了解」
汲み直した水をクロの泡玉のにゆっくりと掛ける。
小さな手がせわしなく動き回るのに合わせて何回も繰り返す。
しばらくして、クロのつやつやした体毛から泡が流れ落ちきったあたりで、
「ニャ―――――――!!」
「うわ、お前やめろ!」
飛沫が飛んでくるだろ!
全身をブルブルと震わせたケットシーから四方八方に飛び交う水しぶきを躱すように慌てて距離を取る。
いきなりやるんじゃねぇ、まったく……
「ほら、オレも泡流すから、先にあっち行って身体拭いとけ」
「にゃーい!」
クロが尻尾を振り振り棚の方に向かうのを確認し、
まずゆっくりと髪の薬液を水で洗い落とし、最後に複数回に分けて全身の泡を流す。
設備がないなら、手間暇かけてじっくりと。
金を掛けられないなら、その分たっぷり時間をかける。
部屋に入って一刻ほど。
数日に及ぶダンジョン暮らしの汚れを落とし、
磨き上げられた鏡の前に立つ。
そこに映るは、一糸まとわぬ生まれたままの少女の裸体。
緩くウェーブのかかった薄紅色のロングヘアは腰のあたりまで。
短くない旅暮らしを経ても、シミも汚れもない白い肌。
少し吊り上がった眼差しと、紫紺の瞳が印象的な顔立ちは、
我ながら生意気そうにも思えるが……まあ美少女と呼んで差支えなかろう。
「……まあ、あいつらが襲いたくなる気持ちも、分からなくはないな」
思わずフフンと笑みがこぼれ、
ダンジョンで出くわした人狩りどものことが思い出される。
ロクに儲からなかった記憶とともに。
「チッ」
気を取り直してポーズを変えるたびに、髪から滴る水滴が柔肌にそって流れ落ちる。
美少女のあられもない姿というのは、実に眼福である。
たとえそれが、自分自身の身体であれ。
「しっかし、もうちょっと、こう、何とかならんもんかねぇ」
この身体、背丈は人並みで余計な肉がついてないのはいいのだが、
片手ですっぽり包み込める慎ましやかな胸のふくらみや、
小振りの尻あたりは、いささか発育状況が気にならなくもない。
十五歳ともなれば、公衆浴場なんかで同年代の肢体を見て、
しばしば敗北感に打ちひしがれることもある。
「いや、まだ慌てるような年齢じゃない」
気を取り直して前から横から後ろから。
様々な角度から鏡映しに泡や汚れが残っていないか確認する。
「そんなに鏡に見とれるなんて、ひょっとしてご主人は自分大好きっ子かニャ?」
声の方を向くと呆れたような視線を向けるクロがいる。
適当に布で拭ったのか、黒い毛が蜘蛛の巣のように四方八方に広がって別の生き物のようだ。
「バーカ、せっかくいい素材を持って生まれたんだから、それを生かすためには日々の努力がだなぁ」
「はいはい、年頃の娘さんはみんなそう言うニャ」
「なんだと、このう!」
「早く着替えないと風邪ひくにゃ」
ぷしっ。
隙間風が肌を撫でて寒気が背筋を走り、くしゃみを一つ。
「……だな」
――壁のどっかに穴開いてんな。おかみさんに言っとかんと。
クロの言い分は最もだ。せっかく返ってきたのに風邪をひくなんてバカらしい。
棚に戻って渇いた布で身体を拭いて、鞄の中から替えの服を取り出す。
さっきまで着ていた探索用のものではなく、
無地の下着に白の上下。寝間着を兼ねたあっさり衣装。
「ほら、ブラシかけてやるからこっちこい」
「にゃ」
自分の髪にブラシをかけてから、メチャクチャになったクロの毛を丁寧に直してやる。
このまま外に出したら別の魔物と勘違いされて討伐されかねん。
そのうち、コイツ用のブラシも買わなきゃならんなぁ。
「あとは飯食って寝るだけだから、これでいいだろ」
「にゃ!」
水場に入る前より艶やかに輝くクロが、元気よく同意する。
さあ、あとは部屋に荷物を片付ければ、暖かい飯の時間だ。