第8話 そうだ、買い物に行こう(南海編) その1
「ん……」
南海諸島初の目覚めはさわやか……とは言えなかった。
夜の暑さをあらわす湿り気を帯びた下着の感触、その不快感たるや。
チラリと除く胸元に鎮座する竜の咢にそっと指で触れる。
「夢じゃない……いや、夢か」
紛らわしい。
魂の領域。
そこは夢ではあるが、ある種の現実ともいえる。
いまだ自ら立ち入ることのできない、オレ自身の精神世界。
昨夜あの花園でエオルディアと交わした約束、
「故郷に連れて行け、か」
多少ニュアンスが違った気もするが、それほどの差異はなかろう。
何はともあれ、今すぐどうにかなる話でもない。
あとでクロと相談し、今後の行動方針に組み込むとしよう。
「そういやクロは……いつものか」
全身を伸ばして身体の凝りをほぐし、
汗に濡れた下着を脱いで身体を渇いた布で拭う。
端にまとめた鞄から新しい下着と衣装一式を出して身にまとう最中、
「このまんまじゃ、やってらんねーな」
ついつい愚痴が零れる。
南海諸島についてまだ二日目の朝だが、
大陸とは全く異なる気候に苦しめられる未来がありありと見えてしまう。
ここでしばらく身をひそめるのであれば、
忠告のとおり早いうちに衣服については考えておいた方がよさそうだ。
――とはいえ、ここの服っつーとアレだよな。
昨日からさんざん見てきた露出度の高い――というか、もうあれは水着だろ――服を思い出す。
そしてそれを身につける自分自身の姿を想像し――
「露出狂……いやいや、ここではあれが普通だから……う~ん」
我ながら朝っぱらから何を悩んでいるのやら。
深刻と言えば深刻な問題ではあるのだが。
「テニアにでも聞いてみるか」
どうせ聞くなら近しい年齢の同性が望ましい。
返ってくる答えは容易に想像できるけど。
ひととおり用意を終えて部屋の鍵を閉め、食堂に向かう。
☆
「いや~、良いねネコ君!」
受付でやたらニコニコしているテニアと遭遇。
『緑の小鹿亭』のおやっさんも口にしていたが、ケットシーの家事能力はなかなか半端ない。
現在進行形で客がうろつく食堂を器用に駆け回り、
手に持った雑巾で床をピカピカにしているクロの姿にすっかり感心している。
「んで、おはようポラリス」
意外と早いねなどと付け加えられたが、
いったいコイツはオレのことをどういう風に見ているのだろう。
……返答が怖いので尋ねるのはやめておく。
「あ、ご主人。おはようさんにゃ」
ひととおり掃除を終えたクロがこちらに気付いて戻ってくる。
汚れた布を桶に放り込んで、テニアにふさふさの頭を撫でられる。
「頑張ったネコ君には、お駄賃の代わりにこれをあげましょう」
そう言うとテニアは手に持っていた小さな袋をクロに渡す。
「なんだ、それ?」
「これはねぇ、ダシ用の小魚なのだ」
クロが小さな手でいそいそと袋を開くと、そこには干からびた茶色の魚のミイラが何匹か。
あまり食欲をそそる見た目じゃないなと内心がっかりしていたのだが、
「食べてごらん。美味しいから」
そうテニアに促され、魚の欠片を口に放り込むクロ。
ぽりぽりぽり
口の中でいい音を立てて咀嚼される小魚。
そして――
「にゃあぁぁぁぁぁ」
蕩けるような声、そして笑顔でふにゃふにゃになる黒猫。
「だ、大丈夫か、クロ?」
「お、おいしいにゃ~~」
こちらが伸ばした手に縋りつくクロ。
美味しさのあまり、すっかり腰砕けになってしまっている!?
おかしな薬でも使われてるわけじゃないだろうなとつい疑ってしまう。
疑心が表情にもろに出たか、
「い、いや大丈夫、ただの魚の乾物だって」
ネコ君は大げさだな~と、
若干引き気味に笑っている。
「か、乾物でこれだけ美味しいのなら、生のお魚は一体どれほどなのニャ?」
「そりゃ当然もっと美味しいに決まってるじゃん」
まあ、生食はあんまりお勧めできないけど。
テニアが笑いながらそう付け足すと、
「ご主人、お魚さんニャ」
「え?」
「今すぐ買いに行くにゃ!」
さあ、さあさあ。
今すぐにでも駆けだしそうな勢いで急かしてくるクロの頭を押さえ、
「いや、まず朝飯だろ」
魚は後な。
そう返すと、クロは絶望したように突っ伏す。
「ほ、ほら。今日は飯食ったら買い物に行くつもりだったから元気出せって!」
「魚を買ってくるのなら、うちでお酒と一緒に出してあげるよ」
オレの言葉よりテニアの言葉に反応してぴょこんと跳ね上がる黒い毛玉。
「お魚! お酒!」
にゃんにゃんにゃん!
いきなり踊り出すクロをなるべく見ないように横を向く。
周囲からの好奇の視線が凄く痛い。
「ポラリスも買い物行くんだ?」
「ん~、まあ服とか買おうかなって」
どこでどんな服を買えばいいのか相談に乗ってくんない?
せっかくなので切り出したところ、
テニアはいいことを思いついたとばかりに手を打って、
「じゃあ、詳しい子を連れてくるよ」
そう言いおいて、ロングなポニーテールを振り振り奥に引っ込んでいった。
☆
「はいこの子。フローラっていうんだけど」
案内役の見習い、と紹介されて前に出てきた女性。
年のころはテニアと同年代、つまりオレより少し上。
ふわふわの青い髪は右サイドでひとまとめに。
造作の整った顔には薄く化粧が施され、ぷんと柑橘系の香りが鼻をつく。
テニア同様露出度の高い衣装を身にまとい、その上に薄いショールのようなものをかけている。
日に焼けた肌が透けて映るさまは、実にエキゾチック。
大人しそうな雰囲気と、全く大人しくない肢体のアンバランスさが魅力的な女性だった。
「ご紹介にあずかりましたフローラと申します」
ポラリス様、クロ様、よろしくお願いします。
礼儀正しく、折り目正しく頭を深々と下げる。
見た目といい言葉遣いといい、
労働とは縁のないお嬢様のような風体だが――
「アタシほどじゃーないけれど、街の案内なら大丈夫」
見習いの子だから案内料は取らないけど、
戻ってきたらどうだったか感想を聞かせてくんないかな。
そう言われれば、断るという選択肢はないわけで。
オレとクロの二人で知らない街を歩き回るなんて非効率、
余計な手間は回避したいところ。
「オレはポラリス、こっちはクロ」
よろしくな。
差し出した手を優しく握るフローラの手は、しかし――
「あれ、アンタなんか武術をかじってるのか?」
想像していたよりもずいぶん硬かった。
手のひらにタコらしき部分がある。
――これは、棒術……いや槍か?
「ああ、まあ、あれだよ、あれ」
オレの疑問に答えたのはテニア。
フローラは、この容姿のおかげで散々苦労してきたそうで、
荒っぽい男を追い払うための護身術に長けているという。
「ネコ君がいるから大丈夫だとは思うけど」
護衛としてもじゅうぶん役に立つよ。
満面の笑みでそう言われれば、それ以上の追及は難しい。
「えっと、それではお二人は本日どのようなものをお探しで」
「魚!」
「服!」
オレとクロの声が重なる。
「魚が先にゃ!」
クロが今まで見たことないほど本気だった。
……こいつはヤべぇな。
「まあまあクロ様、少々お待ちを」
はやる黒猫の頭を優しく撫でるフローラ。
「お魚を先に買ってしまうと、ここに持ち帰るまでに鮮度が落ちてしまいますわ」
だから、後にした方がよいと道理を説く。
「そう言われれば、そうにゃ……」
すまなかったにゃ、ご主人。
しょんぼりと頭を下げるクロ。
「いや、いいってことよ」
それと、あともう一個回りたいところがあるんだけど。
付け加えるとクロが両手を頬にあてて悲鳴を上げそうな顔をする。
「えっと、どちらになりますでしょうか?」
「薬が欲しい」
「薬にゃんて後で……」
「お前の酔い止めな」
「あ、はいにゃ」
魚の誘惑に我を忘れようとも、先日までの船上の醜態と苦しみを忘れてはいなかったらしく即答であった。
どれほどの滞在になるかは今のところ不明瞭だけど、
これからここで仕事を受けるにあたって、船に慣れておく必要もあるかもしれない。
世界最強を追い求めるケットシーとして、
そうそう何度も船酔いを理由に後れを取るわけにもいかないとの思いはあるのだろう。
「大丈夫ですよクロ様。よいお店がありますから」
意気消沈してしまったクロを、
フローラが丁寧に取り成してくれる。
「それじゃ、朝ご飯にするから」
みんなちゃっちゃと食べて、さっさと出発しな!
話がまとまったところで、テニアから食堂に行くよう促される。
「「おう!」にゃ!」
南海諸島二日目、行動開始!




