第4話 おいでませ南海諸島 その3
「では、あなたはどうかしら?」
そう艶めかしく微笑みながら指を伸ばしたファナ姫は、
目をそらして口笛を吹いていたクロを撫でまわす。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃわしゃ……
「わ、吾輩ッ!?」
「そう、黒い毛並みが素敵なあなた」
わしゃわしゃわしゃ。
褐色肌の蒼髪姫の顔に笑みが広がり、
長い指が黒い頭に埋もれて蠢きまわる。
「えっと、ご主人?」
「あら、私はあなたに聞いているのよ」
お名前を伺ってもよろしいかしら。
柔らかく丁寧な口調。
随分と機嫌もよさそうだ。
「吾輩、クロフォードと申します、る?」
クロとお呼びください。
いつもの自己紹介だが舌を噛むわ、声は上擦っているわ。
完全に挙動不審だ。
「ねぇ、クロ様?」
わしゃわしゃわしゃ……
いつまでたっても止まらない指。
頭から頬、そして喉の下に滑り込んだ指が怪しくクロを翻弄する。
「わっ、あう、ちょ……にゃにゃ」
おかしな声を上げて両目を虹のように湾曲させるクロ。
その様にいら立ちが募り、そして――
「おい、いい加減にしろ!」
いつまでも止まらないファナ姫の手にこちらの手を絡ませ、
クロの喉から引き離し、そのまま睨み合う。
クロはぐったりと項垂れ、ギルマン男は驚いて目を白黒させている。
「……あなた、今、自分が何をしているのかわかっているの?」
隠しきれない苛立ちを含む声。
声も手も、かすかに震えて力が籠る。
どうやら化けの皮が剥がれてきたらしい。
「ああ、初対面からやたら身体を撫でまわしてくるような変態女から相棒を護ってる」
「な、何ですって!」
互いの目と目の間に不可視の火花が散る。
ここは退けないところだ。
放っておくと色々な意味で何が起きるか分かったもんじゃない。
気おされないようにファナの瞳を凝視したのだが――
「キャ―――ッ、引ったくりよ! 誰か!」
助けて、と叫ぶ女性の声は店外から。
その声を聴くなり、オレの手にかかっていた重圧がふわりと溶けた。
☆
引ったくりという声を聞くなり店外に飛び出したファナ姫。
彼女の後を追って走る護衛、そしてオレ達。
雨上がりの大通りを見れば、割れた人だかりのど真ん中、
港の方からこちらに向けて一直線に走ってくる男。
その左手に盗品と思われる鞄を掴み、
右手には――反射した陽光が眩しい小振りのナイフ!
「おい!」
さすがに無手で刃物と争うのはヤバいだろう。
気に食わない奴でも一応はここのお姫様、
揉め事は護衛に任せて後ろに下がった方がいい。
そう忠告しようとした、その時――
「万象の繰り手たる我ファナ=サザンオースが命ずる」
左手の『万象の書』から『証』を一枚抜き出して颯爽と詠唱を始める蒼い姫。
「はぁ!?」
――この状況で魔物を呼ぶのか!?
一般市民が大勢いる街中だぞ、何考えてやがる!
人のことを言えた筋でもないけれど、いくらなんでも無茶苦茶だ。
――止められるか……
しかしこちらから手を出すより早く召喚の詠唱が完成。
「出でよ『グリーンフロッグ』! あの者を取り押さえなさい!」
光の中から現れたのは人間の子供ほどの大きさの緑のカエル。
あまり戦闘向きとは思われないそのヌメヌメした身体が、
召喚者の鋭い命令により引ったくりに飛びかかる。
だが――
「邪魔だ、どけ!」
男の右手のナイフが真横にひらめき、柔らかいカエルの腹が大きく切り裂かれる。
「グ、グエェェェ!」
「隙あり!」
悲痛な叫びをあげて落下するカエル、
その後ろを走っていたファナが男のナイフを長い脚で蹴り上げ、
そのまま体を回転させて蹴りを叩き込む。
「ぐ、くそっ」
ファナを追いかけていた護衛が追いつき、瞬く間に男を取り押さえ後ろ手に拘束する。
そして、道に落とされた鞄を拾い上げたファナは、後を追いかけてきた被害者を探す。
あとに残されたのは――
「おい、ちょっと待てよ」
「……何かしら?」
気づかれないようにこの場を離れようかとも思ったが、
あまりの態度に腹が立ち、肩を掴んで振り向かせる。
「そんなもんよりも、お前のカエル!」
よく見ろ、アイツ死にかけてるだろうが!
そう叫んだオレを、おかしなものでも見るかのような眼差しで一瞥し、無視。
肩を掴んだこちらの手を軽く払い、
引ったくりに押し倒された住民に声を掛けつつ、奪われた鞄を婦人に返還。
「おいっ……クソッ」
召喚者に見放されたまま、
腹を切り裂かれて道端に転がされ泡を吹くカエルの傍に、
急いで屈み込んで手をかざし、詠唱開始。
「我が手に集いし輝きよ、包んで癒せ、この者を!」
『治癒』の魔術を発動させると、暖かい光がカエルを包む。
しかし、いかんせん傷口が大きい。
致命傷か、あるいはそれに近い。
――間に合え、間に合え!
一度の『治癒』では足りなくて、何度も何度も詠唱を繰り返す。
連続の魔術行使でドンドン吸い取られていく魔力。
そして熱気で体中から汗とともに失われていく体力と精神力。
「ご、ご主人……」
近くにいるはずのクロの声がずいぶん遠くに聞こえる。
長いような短いような、いったいどれほどの時間が過ぎたのか。
それでも『治癒』の光が緑の体を覆うたびに、酷かった傷は徐々にふさがって、
「け、ケロ……」
死の淵に足を踏み入れかけていたカエルは息を吹き返し、
ペタペタとオレの膝に何度も自分の手を当ててくる。
見れば、その眼は潤み大粒の涙を湛えているようで。
「……もう大丈夫だ。頑張ったな」
「ケロッ、ケロロッ!」
緑色の頭をなでてやると、嬉しそうに立ち上がってその場で踊り出した。
「おい、まだそんなに動き回ると」
傷口が開くぞ、と言いかけたそのとき、
「あら、ご苦労様」
背後から掛けられた声。
聞かなくても分かる、このカエルの主。
踊っていたカエルが、凍り付いたように硬直する。
「ケロ?」
オレの目の前で光に包まれた蛙は、そのまま背後に吸い込まれて行った。
「……お前」
全身が強張る。
恐怖ではなく、怒りに。
振り向いて、叫ぶ。
「お前……何しやがる」
「お前だなんて、随分な言い草ね」
お父さまにも呼ばれたことないわ、
そう笑いながらファナは返す。
「何と言われても、住民の救助だけれど」
「そうじゃねぇ」
人助け結構。好きなだけ助ければいい。
そんなにいい格好がしたければ、どうぞご自由に。
でもな――
「呼び出した魔物を盾代わりにしたうえに、治癒もしてやらねえとはどういう了見だ!」
「……何を怒っているの?」
怒りを正面からぶちまけてやったというのに、ファナは怪訝な表情を浮かべたまま。
本当に何を言っているのかわからないといった風体で。
「私はこの南海諸島の統治者として、臣民を守る義務があるの」
召喚術士として魔物をどう扱うか、あなたのような他人に説教される筋合いはないし、
それに、
「人間よりも魔物を優先しろというの?」
あなた、異常よ。
何ということもなく自然に。
何も含むところはないという風に。
ただありのままを語る。
ファナの口調は、まさにそういう類のもので。
「てめぇ!」
「ご主人!」
思わず振り上げようとした右腕に、
飛び上がったクロがしがみ付く。
その重みで、何とか激発を耐える。
「まあ、私のカエルを治してくれたことは感謝しておくわ」
それじゃ、縁があったらまた会いましょう。
最後にそう言いおいて、捕えられた引ったくりを連行する護衛達とともに姿を消す蒼髪女。
「クソッ」
ムカツク。
ごのやり場のない怒りをどうしてくれようか。
「ご主人、ごめんにゃ」
腕から降りて足に移動していたクロが頭を下げてくる。
その黒い両手が握りしめる脚に、振動と爪の感触を憶える。
「いや、いいよ。クロがいてくれてよかった」
いくらなんでも到着初日にお姫様をぶん殴っていては、
せっかく南海諸島に逃げてきた意味がなくなる。
ここで更なる懸賞金がかけられたら目も当てられない。
どれだけ腹が立とうとも、自嘲しなければならない時はある。
怒りに限らず、感情の赴くままに行動するのは、子どもだ。
――それでも、アレを見過ごせってのか……
同じ召喚術士として風上にも置けないあの所業を。
しばしの間、沈思黙考。
そして――
「ふぅ」
大きく息を吐き、全身の力を抜く。
落ち着いてから、ふと周りに目をやると、
街の住民たちが化け物でも見るかのように、
距離を開いてこちらの様子を覗っている。
日焼けしたそれぞれの顔に浮かぶのは、
先ほどのファナの言葉にあった理解できないナニカに対する警戒心。
『あなた、異常よ』
ファナの声が耳に蘇る。
「チッ」
苛立ちを堪えきれずに舌打ち。
こちらにビビったように慌てて散開する街の連中を睨み付けていると、
「えーっと、お嬢さん。ちょっといいかい」
背後から聞き覚えのある声。
「……あんだよ?」
不機嫌を隠しきれていない返答を返してしまう。
「いや、そろそろ宿に行こうと思うんだが……大丈夫?」
振り向けば、赤い鱗のギルマン男。
そう言えば宿に向かう途中だったんだ。
……完全に忘れてたわ。
「ああ……そう言えば、そういう話だったな」
よろしく頼むわ。
いつの間にか強張っていた拳を開き、何度も首を横に振って、
今この場で起きた一件をとりあえず頭の隅に追いやる。
まだこの島に来たばかりだというのに、あの店に入ってからこっち、
いきなり色々ありすぎて感情の整理が追いつかない。
しばらく案内されるがままに歩いていると、
「アンタは、魔物相手にも優しいんだな」
「吾輩、ご主人がご主人でよかったにゃ」
男たちの声は、どこか暖かかった。




