第46話 世界最大の獣 その4
大地を流れる黒い大河が、灼熱の炎によって浄化されてゆく。
空中から眺めたその様は、さながら火のついた導火線。
もっとも、この導火線の彼方に何があるのかまではわからないし
果てまで燃え尽きた後どうなるかも定かでないが。
白い霧を含んだ意思ある風は炎を煽り、
じりじりと『奈落』による浸食を押し返している。
ブスブスと真っ黒な太い煙がそこかしこで立ち昇り、
人間による反攻の狼煙となって空に線を描く。
「よし、いいぞ!」
これまで防戦一方だった『奈落』との戦いが、
今この瞬間から反撃に転じることができた。
そう確信するだけの絶景が眼下で繰り広げられている。
『契約者、あちらが……』
浮かれていたところにエオルディアから指摘された方角を見ると、
『奈落』が必死に抵抗しているのか、炎の勢いが弱いところがある。
「こういう時は……と」
グリフォンをそちらに飛ばし、抱えていた旗を掲げて振り回す。
事前に取り決めていたとおり、こちらが場所を指定すると、
下にいる帝国軍が狙いをつけて火矢を集中させる。
さらに『守護者』の風が訪れ、炎の勢いが増してゆく。
『今度は向こうだ』
「あいよ!」
上空から戦場を眺め、火が弱いところを地上の部隊に知らせてゆく。
その都度、地上ではルドルフ式のもと配置されていた部隊が移動し、
先ほどと同じように炎の付け足しを行う。
「アイツら、上手くやってるかな?」
地上に残してきたクロとテニア。
帝国に不穏な影を落とすダークエルフに備えるために、
軍の糧秣庫で待機してもらっている。
『何もなければ、それに越したことはないが……』
まったくもって翠竜の言うとおりだし、
ダークエルフが今回の案件に絡んでいるのかどうかは不明のままだ。
しかし、歴史の闇に隠れていたような連中が現れて、
帝国に危害を及ぼそうとしている。
しかも同じような時期に似たような場所で、
正体不明の化け物が暴れまわっているのだ。
『奈落』側の都合はともかく、勝手にダークエルフが首を突っ込んでくる可能性は低くないと見た。
『汝は仲間を信頼して任せたのだろう?』
「そりゃまあ……そうなんだが……」
『なれば、汝はただ己のなすべきことをなせばよい』
オレがクロとテニアに地上を任せているように、
あの二人もまたオレに『奈落』を任せて己の戦場に立っているのだから。
「わかっちゃいるんだが……オレってホント器がちっさいなぁ……」
『自覚があるのはよいことだ。成長の余地があるということだからな』
「機嫌いいね、お前」
『うむ』
エオルディアはオレの胸の中で大きく頷き、そして――
『今度はあちらだ』
「了解!」
グリフォンの首筋を撫でて指示すると、
鷲獅子は首をそちらに巡らせて大きく羽ばたく。
オレ達の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。
空は青く天候の崩れる様子はなく、
地上を食い荒らす『奈落』は炎の壁に押し返されて、
帝国を蝕んでいた災厄をようやく討ち払うことが叶う。
誰もがそう信じて疑わない光景であった。
☆
一方的に焼き滅ぼされるだけだった『奈落』に異変が生じたのは、
反攻作戦が開始されてしばらく経ってのこと。
日は中天を過ぎ、オレも何度か陣に戻って補給を済ませたあたり。
流れる川のようだった『奈落』が、
炎の壁に衝突するより手前の場所に池のように溜まり、
その中心から外に向けて波紋が広がっていった。
池ごと焼き払おうとする炎はその淵で食い止められ、
互いに一進一退の状況を見せていた、その直後。
「うぉっ、なんだなんだ!?」
黒い池がにわかに盛り上がり、どんどんと高くなってゆく。
その先端はグリフォンに跨っていたオレが仰ぎ見るくらいに伸びてゆき、
根元からせりあがった球状の黒い塊がその先端に到達するなり――
「『奈落』の花?」
つい、そんな言葉が口を付いた。
粘液上の黒く太った先端が割れ、中から球体らしきものが現れる。
その様はまるで蕾が割れて花開くようで。
そのおぞましい花の中心である球体は、次第にオレンジ色に染まってゆき、
『奈落』の茎から完全に分離し宙に浮き始める。
オレはそれを『奈落』の実のようだと勘違いしていた。
球体は脈動し、次第に赤い筋が走り出し、そして――
「アレは……『瞳』なのか?」
球体の表面にぎょろりと現れた赤と黒の瞳孔らしきもの。
それが……こちらを睨み付けている。
「こっちを……見ている?」
『避けろ、契約者!』
呆けていたオレの中からエオルディアが叫ぶ。
その声が聞こえたわけではなかろうがグリフォンが大きく羽ばたき、
全身に重力を受けながらもその場を離れたオレが見たものは――
『瞳』のように見えていた球体が真横に割れ、中から黒い粘液を吐き出した。
それは今しがた眼下で帝国軍が焼き尽くそうとしている『奈落』そのもので――
「あ、あぶね~」
グリフォンの咄嗟の機転によりなんとかオレたちは回避できたが、
下を見やると、放物線を描いて吐き出された『奈落』が帝国軍の陣地に落下し騒然としている。
ここからは声などは聞こえないが、少なくない被害が出ているはずだ。
「『奈落』が成長……いや進化した?」
『瞳』であり『口』でもある新しい形態の『奈落』
そのあまりに禍々しい化け物が、こちらをずっと睨み付けている。
「野郎……地上がダメなら空中からってか!」
灼熱の壁はいまだ勢いを失うことなく地上の汚泥を焼き払っているが、
空中から新たに吐き出された『奈落』が壁を越えて帝国軍に襲いかかっては、
ここまでの善戦が台無しになってしまう。
『進化……とは言えないのではないか?』
胸中のエオルディアが疑問を呈する。
「というと?」
緊急事態にあっては、藁にもすがりたいところ。
はるか古代より数多の戦場を駆け回った翠竜先生のアドヴァイスなら、
藁なんぞよりもよっぽど頼りになるってもんだ。
「なんだ? 言いたいことがあるならどんどん言ってくれ。いや、ください」
『以前より考えてはいたのだが……』
確証はないと言いながらもエオルディアは口を開く。
『奈落』と通常のスライムには似通った点と大きく異なる点がある。
似ているのは獲物を身体で包み込んで溶かし喰らう点。
異なるのは魔術の類が効果がない点。そして――
『疑問ではあったのだ。なぜ奴は膨張し続けるのか、と』
スライムは捕食の際に多少姿形を変え膨張することはあるが、
ことが済めば元どおりの大きさに戻る。
これは人間をはじめとするほかの生き物とほぼ同じ。
自身の限界を超えて巨大化することはない。
では『奈落』はどうか?
その最初期の姿をオレ達がじかに見たわけではないが、
おそらく今ほど巨大な姿ではなかったと推察される。
こうして空中からその姿を見ると、
帝国軍陣地に襲いかかっている今の姿のほうが、
南方諸侯軍と戦っていた頃よりも面積が大きい。
ということは、逆に考えて時間を巻き戻してゆくと、
『奈落』の身体はどんどんと縮んでゆくことが推測できる。
「……で、何が言いたいんだ、結局?」
トントンと胸を叩いて先を促すと、
『我々の前に姿を現したあの姿こそが、『奈落』と呼ばれる化け物の正体ではないかということだ』
本体はあの瞳と口を合わせたような球体で、
そこから吐き出される黒い汚泥は体液であり、触手であり、捕食機構。
あるいは武器であり軍隊であるのかもしれない。
「根拠とか、あるか?」
『あの黒い流れの幅が広がっていないことを汝は気にかけていたではないか』
それは、確かにオレも気になってはいたが……
スライムに似ているから、そういう生き物だと思っていたが、
エオルディアの言葉を借りれば、アレはたまたま生物としての機能を持った道具に過ぎないということになる。
――ありうるのか、そんな話?
『『奈落』は膨張しているわけではない。奴は汚泥を吐き出して道を作っているのだろう』
その結果が『奈落』の川。
池でも海でもなく、あくまで川であるのは、
『奈落』の進む道筋を決める核が一方向にしか進めないからである、と。
「じゃあ、アイツを倒せば」
『『奈落』とやらの浸食を止めることができるやもしれん』
アレを『奈落』の核と呼ぶのは都合のいい話かもしれないが、
『たとえ弱点でなくとも、あのように黒い泥を吐き出すものを空に浮かせておくわけにはいかぬ』
「そりゃそうだ」
アイツが好き勝手にそこら中に泥を吐き出すようなことになれば、
ここまで優勢に進めていた戦いがあっという間にひっくり返ってしまう。
地上に目をやれば、吐き出された泥は焼き払われ、
引き続き柵の向こうに流れてくる黒い汚泥の焼却作戦が進行している。
――『守護者』の力は借りられないな。
あの白フクロウは、地上の『奈落』を焼き払うために風を操りつづけている。
風が止まれば、黒い濁流は再び勢いを取り戻して帝国軍に襲いかかるだろう。
「言いたいことはわかったが……」
『何か気になることでもあるのか?』
「いや……奴が道を作る理由がわからん」
『ふむ……ごく単純に考えれば身の安全のため、か?』
エオルディアもそこまで自信があるわけでもない様子。
あの黒い泥が身の安全……ってことは、
「奴には魔術が効く?」
『かもしれぬ』
いまだ推論の段階であるが、可能性は低くない。
まあ、魔術を一発叩き込んでみれば、結果はすぐにわかる。
だったら――
「オレ達で止めるぞ」
『うむ。空の支配者は我でなくてはならぬ』
さすが伝承の魔物は言うことが違う。
自分の領域にあんな気持ち悪い化け物をのさばらせることは誇りが許さないらしい。
帝国軍の軍旗が括りつけられた杖を握り、
こちらを見つめ続ける巨大な瞳を睨み返す。
――帝国の未来は、この空で決まる。
次回より『再び日は登る』となります。