第42話 決戦前夜 その3
「『万象の書』を私に貸しなさい」
帝国南部を蝕む正体不明の化け物『奈落』を討伐するべく、
霊峰ホルネスにて協力を仰ぐことに成功した『守護者』と共に、
南部で展開される大反撃作戦に参加すべく南下。
途中で寄ったサスカス伯爵の城で一晩の宿を借りたところで、
夜も遅くに突然押しかけてきたグリューネルトが口にした用件が、コレ。
「断る。何言ってんだ、お前は?」
『万象の書』の貸し借りだなんて話は聞いたことも無い。
理屈の上では両者の合意が得られれば譲渡可能な『万象の書』は、
同じように両者の合意の下で貸し借り可能なはずなのだが、
『本を貸したとして、返してもらえなかったらどうすんだよ!』
という身も蓋もない理由から、実行された事例は恐らく皆無に近い。
どれだけ相手が信用に足る人物だからといって、できることとできないことはある。
「ほんの少しだけでいいの。必ず返すから……」
食い下がるグリューネルト。
「なあお前、自分が何言ってるか本当に分かってんのか?」
「おかしなことを口にしているという自覚はあるわ。でも――」
「でも?」
「戦うすべを持たないわたくしは戦場に立つことができない」
『万象の書』を持たないわたくしでは、万が一の時にレオンハルト様を護ることも止めることもできない。
グリューネルトは声を震わせて、そう続けた。
「レオを止められないって……止めてたじゃねぇか」
『守護者』と対面したあの霊峰ホルネスの広間で、
ヴァイスハイトとマリエルの処刑を止めたのはグリューネルトだ。
あれほど緊迫した状況でレオンハルトに物申せるのなら、
戦力としてはともかく、十分な発言力は確保されているのではなかろうか。
「あなたは……本当に何も分かってないのね」
「分かってないって?」
いったいオレが何を分かっていないというのだろう?
少し興味が引かれたので聞いてみることにする。
「レオンハルトさまは最初から二人を処刑するつもりなんてなかったわ」
あれはあくまでヴァイスハイトを自発的に皇位継承権争いから降ろすためのブラフに過ぎない。
もしあの場で二人を処刑していれば、皇后とスィールハーツが黙っていない。
たとえ『奈落』の討伐に成功しても、あとに待っているのは帝国を砕く内戦。
その引き金を引くつもりはなかっただろうとグリューネルトは言う。
「レオンハルト様が戦うとおっしゃったとき、あなたは共に戦うと宣言してあのお方を煽ったわね」
「ああ……そりゃまあ、話の流れで――」
「どうしてそんなことをするの! 帝国を……レオンハルト様を破滅させるつもりだったの!?」
こちらの両肩に掴みかかってグリューネルトは腹の底から声を絞り出す。
「わたくしたち臣下の身であれば、両皇子の仲を取り持つのが常道でしょう」
それをあなたはよりにもよって。
レオンハルト様の御心を推し量ることもせず、
破滅への道案内を自ら買って出る始末。
「どうして……どうしてわたくしではないの?」
レオンハルトに選ばれるのが。
『万象の書』を持って生まれるのが。
人間にとどまらず魔物たちの耳目を集めるのが。
「何も考えずに勝手なことばっかりしておいて、どうしてあなたは常に勝者であり続けるの?」
慟哭だった。
グリューネルトの中に長年渦巻いていた心の叫びが、
荒れ狂う感情のままに解放されてゆく。
「それは……」
「レオンハルトさまの身が危なくなったのも、元はと言えばあなたのせいなのに!」
「どういうことだ?」
ハッとしたグリューネルトが口をつぐむ。
しかし、ここまで言っておいてダンマリなんて認めない。
両肩を掴んでいたグリューネルトの細くて優美な指に、
こちらの指を絡ませて引きはがす。
その間も、じっとグリューネルトの瞳を見つめたままで。
「前皇后――レオンハルトさまの御母上――さまは若くして亡くなられたけれど」
後ろ盾がなくとも陛下はレオンハルト様を後継者として考えておられた。
ぽつりぽつりとグリューネルトは語り、オレは頷く。
オレの記憶が確かなら帝都を去った五年前の段階では、
皇帝陛下はレオンハルトとヴァイスハイトの兄弟の順を乱してはいなかった。
「でも、あなたがレオンハルトさまのもとを去ったから、人の上に立つ器量なしと言われて……それで……」
後は言葉が続かなかった。
オレも話を促すことができなかった。
――なんだよ、それ!?
今も昔も、オレは自分がやりたいように生きてきた。
たとえ何不自由ない暮らしができようとも、
他人に定められた道を歩かされるのではなく、
たとえその日の食事に事欠くようなことになろうとも、自分で決めた道を歩みたい。
その想いは確かで、誰に後ろ指をさされようとも変えるつもりはない。
しかし、そんなオレの身勝手のせいで人生を狂わされた人間が大勢いる。
レオも、グリューネルトも、親父殿も、名も顔も知れぬどこかの誰かも。
他人の顔色を窺って生きるようなことはしたくないと思っていても、
現実を突きつけられると、心に重く鈍い痛みが走る。
「これだけ多くの人間を苦しめておいて、戻ってくるなりまたレオンハルトさまの御心を独り占めにして――」
何のために自分たちは存在しているのか。
傍で懸命に仕えてきた時間は無駄だったのか。
たとえどれほど人として貴族として己を高めても、
「『万象の書』を持たないというただそれだけで、わたくしたちは敗者なんだわ……」
惨めだわ。
左右の瞳から滂沱の涙を流しながら、
グリューネルトはいつまでも言葉をこぼし続ける。
ひとしきり感情を吐き出しきったのか、
「必ず勝って……帝国を護って」
最後に一言残してグリューネルトは部屋を去る。
そこにどれほどの思いが込められているのか、オレには想像もつかなかった。
☆
「あれ、今日はこっちなの?」
サスカス伯爵のもとを出発してさらに南下したある日の夕暮れ、
もはや慣れたといわんばかりに野宿の用意をしていたテニアのもとを訪れる。
軍の中央から程離れた一角にぽっかり空いた空白地帯。
打倒『奈落』の御旗のもとに集った魔物たちが思い思いの格好で夜を迎えるその場所に、
相棒であるクロとともに足を運んだ次第。
「ああ、ちょっとな」
「ん~、何かあった?」
いつものからかう風情ではなく、年長者としての眼力か。
栗色のポニーテールを弄りながら訪ねてくる。
「とりあえず一杯いっとく?」
テニアの手には、どこからちょろまかしてきたのか酒瓶があった。
秋風吹きすさぶ夕暮れ時、身体も熱を欲している。
「ああ、ちょうどいい」
★
「お前、どう思った?」
自分の中で処理しきれない想いをこの胸中に抱え続けることは苦しく、
誰かとこの心境を共有したかったのかもしれない。
酒の力を借りて滑らかになった口が、サスカスの城であった出来事を零してゆく。
「どうって言われてもなぁ」
オレと同じく酒で唇を湿らせつつテニアは語る。
人間は生まれを選ぶことはできない。
グリューネルトは『万象の書』を持って生まれることができなかったと嘆くが、
世の中には貴族に生まれることができなかったと嘆く娘など星の数ほど存在する。
グリューネルトはそんな娘たちにどう言い訳するつもりなのか。
そんなこと、無理に決まっているのだ。
生まれを理由に誰かを責めるのは、そもそも間違っている。
「あと、皇子様が切れたのがブラフだったってのも違うと思う」
テニアの見立てでは、あの時確かにレオは切れていた。
ブラフではなく、本気でヴァイスハイトたちを殺すつもりでいたという。
グリューネルトが止めに入ったからこそ、
ギリギリで冷静さを取り戻すことができたのだろう、と。
「アイツが、そんなにマジで切れるか?」
空になった椀に酒を注ぎ足しながら問い返す。
「あ~、ステラにゃわかんないか~」
「なんだよ、その言い方?」
「何でもな~い」
同じく空になった椀を……なぜこっちに突き出すのか、テニア。
まあ、話を聞いてもらう手前、酌ぐらいはしてやるが。
それにしても今のテニアの口ぶりは気に食わないな。
「う~ん、わかる者にはわかってしまうのだよ、若人」
あっはっは。
酒をグイっと呷ってテニアは笑う。
……こいつはこういう奴だったな。
甘えるべきではないのだろうが、
今はこの距離感が心地よい。
「だいたい『万象の書』を貸してくれってさ、胸のお人はどうすんの?」
テニアの指が差すは季節外れの夏服に包まれた豊かな胸。
「え?」
「自分の胸に聞いてみなよ」
そう言われて視線を落とすと、
そこにあるのはいつもの服にいつもの胸。
そして――いつもの竜の咢。
「あっ」
『今頃気付くとは、嘆かわしい』
胸の奥からエオルディアの声が響く。
『汝は我と契約しているのだ。勝手に貸し借りされては困る』
「竜の人は何て言ってるの?」
「勝手に貸し借りすんなって」
オレが答えると、テニアはそりゃそうだと膝を打ち、
「ドラゴンだけじゃないよ。ステラが今まで契約してきた魔物たちみんながそう思ってる」
ここに集まってる魔物たちだって同じだよ。
アタシは召喚術士じゃないけれど、それくらいはわかる。
テニアは椀を地面に置き、髪を弄りながら話を続ける。
「ステラが自分勝手に生きていることの是非は問わない。アタシも人のことは言えないしね」
でも――
「ステラが自分の意思で契約してきた魔物たちに対しては、せめて責任を持たないとね」
それが召喚術士ってもんじゃないの?
「あ……ああ……そうだ、そうだな」
「それがわかってりゃいいんじゃない?」
椀に残った酒をを飲み干して、
テニアはそう結論した。
「テニアしゃんの言うとおりだと思うニャ」
たき火で干し肉を焙っていたクロも同調してくる。
アツアツの肉を口に放り込み、酒を流し込んで。
「お前もそう思うのか?」
「にゃ」
口をもぐもぐさせながら、頭を上下させる。
「吾輩は、ご主人がご主人だからいいニャ」
勝手にグリューネルトと交代してもらっては困ると続ける。
「なんじゃそら」
「吾輩もご主人やテニアしゃんと同じで好き勝手に生きてる身にゃからして」
故郷に残してきた家族をはじめ、多くの人に迷惑をかけている。
しかし反省はするが、後悔はしていない。
「吾輩が自分で決めた自分の生き方にゃ」
それを貫けなくなる方が辛い。
他人を斟酌するのは自分の欲望の後。
クロは愛嬌のある見た目とは裏腹に、随分とドライなものの考え方をするようだ。
「ご主人ひとりで何もかも考える必要はないニャ」
世界は広く、人間の手が届く範囲は狭い。
見聞きすることのできる範囲もだ。
「どこぞの誰それが何を言おうと、いちいち気にしてたら生きてられんニャ」
「そうか……そうだな」
自分の身勝手が原因で多くのものを取りこぼしてきた人生だった。
しかし、それでもオレは自分を後悔したりはしない。
頼もしい仲間と、契約を交わした魔物たちにかけて。
クロの言葉に安心したか酒に酔ったか、眠気が襲いかかってくる。
「なんか眠くなって来たな」
「ステラ、最近眠れてなかったの?」
「ああ、ちっとな~」
頭がふらつき呂律が回らなくなってきた。
寝不足に酒はよくなかったかもしれない。
「意外と気にするタイプなんだね」
『意外と』は余計だ。ほっとけ。
「寝るんだったらちゃんと暖かくしなよ」
ここまで来て風邪ひいたとか笑えないから。
テニアは魔物の見張りのために焚き火の番をする。
たとえ酒に酔おうとも、交代要員が来るまでは眠れない。
「おう」
そんなテニアに一声かけて、
なぜかゴリラと酒盛りを始めていたクロを抱きかかえる。
「にゃ?」
「寒い。もう寝る」
「おやすみにゃ」
ゴリラに会釈して、クロを抱きしめたままテントに入ってマントに包まる。
グリューネルトの涙を見たあの日から寝不足気味だったけれど、
今日はすぐにでも眠れそうだ。
「ご主人」
「ん?」
「絶対勝つニャ!」
「ああ」
クロの腹に顔をうずめて、夢の世界への扉を開けた。
次回より『世界最大の獣』となります。