第35話 帝国の聖域 その4
「クロ!」
目の前にクロがいる。
オレと別れた時と寸分変わらぬ姿で。
雄々しく、力強く、そして――
「ご主人、話は後ニャ!」
飛ばされたケルベルスをキッと睨み付けながら、
クロはこちらを振り向かずに闘志を高めていく。
「お、おう」
若干気圧されながらも『障壁』の魔術でクロを覆い、
三つ首の魔犬の反対側に後ずさる。
「クロ、三方向から集中攻撃を――」
「手出しは無用ニャ!」
ご主人はそこで吾輩の戦いを見ていてほしいにゃ。
そう続けて組んでいた腕を解き、
ケルベロスに向かってファイティングポーズ。
「いや、しかしだな……」
四対一で歯が立たなかった魔物相手にお前ひとりというのは……
「ご主人の相棒がどれほどのものなのか、その目で確かめてほしいにゃ」
『契約者、ここは猫に任せてみよう』
――いや、しかしだな……
『雄の誇りを全うさせてやろうではないか』
気持ちはわかるとエオルディアが続ける。
コイツの言うこともわからないではないが、
クロがもう一度オレの目の前で倒れるようなことがあったら――
『契約者よ!』
「……わかった」
でも、危なくなったら集団戦闘に切り替えるからな。
ヘルハウンドに待機を命じながらクロに応える。
「了解にゃ!」
のそりと立ち上がって追撃がないことに不審な様子を見せるケルベロスを前に、
クロがただ一人で立ちはだかる。
「お前の相手は、この吾輩ニャ!」
黒猫は咆哮し、姿を消した。
☆
クロが姿を消した、といっても逃げ出したりしたわけではない。
あまりの速さに目が追いつかないだけだ。
オレ達がケルベロスの視界の外から奇襲を仕掛けるべく、
連携して三つの頭の背後をとろうとしていたのに対し、
クロは最短距離にして最速の正面決戦を選択。
ケルベロスが炎を吐く前に、一瞬で足元に間合いを詰め――
「キャッ闘流『飛燕脚』!」
低姿勢からのジャンプ蹴りで真ん中の犬頭を下から蹴り上げ、
仰け反り返ったところに、追加で左右の頭に回し蹴りを叩き込む。
「GWYA!」
三方向に弾けた三つの頭。
慌てて振り回される前足をクロは小さな身体で器用に躱し、
今度はケルベロスの首の付け根、露出した胸元に両手を当て、
己の両足を地面に強く固定し、一撃。
「キャッ闘流奥義『通天衝』ニャ!」
ドゥンという鈍い音が響いてクロの足元が大きく円形に凹み、
同時にケルベロスの巨体が宙に舞う。
『おお』
――な、何しやがったんだ、今!?
「新技……か?」
いったいどんな魔法を使ったのかは窺い知れないが、
あの小さな身体からは想像もつかない凄まじいパワーが、
胸元に置かれた手から胴体に叩き込まれた様子。
クロとは結構一緒に戦ってきたはずだが、
今ケルベロスをブッ飛ばした技は見た覚えがない。
――クロの奴……強くなってやがる!
「GA……GYAGRRRROOOOOO!」
地獄の番犬は這いつくばって涎を垂らしながらも、
今までで最高の殺気を放つ眼光の色は煌々と輝き、
口からは火炎の種である燐光が漏れる。
「クロ、炎が来るぞ!」
間合いを詰めるか、あるいは離れるか。
とにかくケルベロスの炎の射程圏から逃れなければ、
あの小さな身体はひとたまりもなく消し炭にされてしまうだろう。
「炎を吐いたときが、お前の最期にゃ」
荒れ狂うケルベロスを前に、あくまで冷静沈着な黒猫。
その言葉を理解できたとは思えないが、
魔犬もまた次の一手が最後となると予期しているのか、
口に溜まった炎を迂闊に吐き出そうとはしない。
あくまで仁王立ちのクロを前に、
タイミングを計りつつ体勢を整えるケルベロス。
極度のプレッシャーが圧し掛かり、
自分が戦っているわけでもないのに、息が苦しくなる。
魔術用の杖を地面に突き立てて事の推移を見守っていると――
「GRRUUUAAAAA!」
ケルベロスの三つの口が同時に開き、
限界まで溜め込まれた炎が一気に放出される。
唸る咆哮。吹き荒れる熱波と風圧!
その火力はかつてアールスで見たエオルディアのものには及ばずとも、
ヘルハウンドあたりの火炎とは比較にならない。
「クロ!」
「お前の……負けニャ!」
しかしその炎は幻のように一瞬で掻き消え、
オレ達の前には横倒しに斃れたケルベロスの姿。
その目の前で静かにたたずむ一匹の黒猫。
「……勝った、のか?」
――全く見えなかった……
「ご主人、アレにゃ!」
「アレ……?」
『召喚術』
「あ、あ~、ハイハイ。了解了解」
手に構えていた『万象の書』から『証』を抜き出して、
意識を失っているケルベロスにかざす。
「万象の繰り手たる我、ステラ=アルハザートが声を聴け! 汝の全てを我に捧げよ!」
詠唱と共に『証』から放出された赤い雷が地獄の番犬の全身を覆い、
さしたる抵抗もなく光は一度大きく膨らんで、そして集束する。
かざしていた無地の『証』を見れば、無事にケルベロスの名と絵が刻まれていた。
「おお」
「おめでとうニャ、ご主人!」
大きく息を吐いてこちらに駆け寄ってくるクロ。
その小さな身体をギュッと力いっぱい抱きしめる。
「お前なぁ……お前なぁ……」
「にゃはははは」
「もう大丈夫なのか? どっか痛いところないか?」
「ご主人に抱き着かれて息ができんにゃ」
「うるせぇ!」
大人しくにゃ~にゃ~言ってろ!
☆
意識を失っていたケルベロスに『治癒』をかけて傷を癒していると(今はもうオレの手札だからな)、
ふもとの方から見知った人影が現れる。
おなじみ栗色ポニーテールのテニアと、
金髪を頭の後ろの高いところでまとめた旅装のグリューネルト。
そして彼女を背負う見覚えのある護衛騎士。
……何だこの面子?
「あ、魔術使ってる? アタシも癒してほしいかな?」
近づいてきたテニアが両手を開くと、
その掌は真っ赤に擦り切れて血がにじんでいる。
もう、見るからに痛そう。
「何やったんだ、それ」
「何って……先輩を投げてあげたじゃん」
聞けばクロの腹に括り付けられているロープを握り、
ハンマー投げの要領でぶん回してケルベロスに向けて放り投げたらしい。
普段ならオレが『風衣』をかけて蹴り飛ばしているところだが、
魔術の使えないテニアが同じことをするために行った工夫といったところか。
「あいよ。手ぇ出しな」
「助かる~もうめっちゃくちゃ痛いの、コレ!」
「見せんでいいから」
「そんなこと言われると余計に見せたくなっちゃう」
「大人しくしてろっての!」
「は~い」
かざした手に『治癒』をかけてやると、
そのズタボロの手がみるみる間に綺麗になっていく。
「んで、お前らは何なんだ?」
残された二人――グリューネルトと護衛騎士――に向けて言葉を放つと、
「レオンハルトさまの危機と聞いては黙っているわけには参りません!」
背負われたまま胸を張るな。
年配の護衛騎士がため息をついているぞ。
「レオンハルトさまの向かうところならば、このわたくし例え火の中水の中であっても必ずはせ参じましてよ」
ましてや山の中程度ならばわたくしの歩みを阻むものはございません。
堂々と言い切るのは結構だが、護衛騎士がため息をついていることに気付いてやれ。
「あ、ああ。ありがとうグリューネルト嬢」
う~ん、レオが若干引き気味だ。
あれはマイナスポイントじゃないかな?
「あと……マリエルが気になりますので」
ようやく騎士から降りたグリューネルトがぽつりと呟く。
「え、なんだって?」
「な、なんでもございませんのことよ!?」
気が動転しているのか、口調が怪しい。
「なんだよ~」
「まぁ、その話は脇に置いといて」
グリューネルトへの追及を阻むかのように割って入ってくるテニア。
そう、クロとテニアはともかく、この二人がなぜグリューネルトと共にここにいるのか、
それはかなりの疑問というか違和感がある。
「アタシらが帝都に着いたところでグッちゃんとばったり会っちゃってさ」
レオの騎士がエルフの里に向かう頃には、もう帝都に向かって出発していたらしい。
たまたま行違うことはなく、騎士に先導される形で帝都に入ったところで、
ホルネスに向けて出発しようとしていたグリューネルトと遭遇したという流れ。
――誰だよ、グッちゃんて……
「んで話を聞いてみたら、ステラが皇子様と山登りってんで追いかけてきたわけ」
「……大人しく帝都で待つという選択肢はなかったのか?」
「ステラがどっか行くってことは、トラブルに巻き込まれるってことでしょ?」
そんなの待ってられないじゃん。
前提からして間違っていると言いたいところだが、
現実にふらりと現れたケルベロスに襲われているところを助けられた身としては、
テニアの言い分に反論しがたい。ちょっとイラつく。
☆
「ね、言ったでしょ。心配ないって」
クロの頭を撫で撫で、テニアが微笑む。
「な、なんだよ!?」
「先輩と再会したらステラは絶対泣くって」
「な、泣いてねーし」
抱きしめたままのクロのぷにぷに肉球が、オレの目じりをそっと拭う。
「先輩ったら、ステラに合わせる顔がないってずっとクヨクヨしててさ」
もう見てらんないってゆーか。
呆れた風に笑うテニアに、短い手をバタバタ振るわせて阻もうとするクロ。
「お前なぁ……もう二度とあんなことするんじゃねーぞ」
思い出すたびに胸が苦しくなるあの光景。
自分を助けるためにクロの胸に毒刃が刺さる瞬間。
オレの腕の中でどんどん失われて行ったクロの命。
あの絶え絶えの声が、オレが助かったと知って喜んだ顔が。
ひとつひとつがオレの心を強く握りしめてきた。
だが――
「お断りにゃ!」
想定外の返答。
「……あんだと?」
「あの日と同じことがあれば、吾輩は何度でも同じことをするニャ!」
あの時と同じようにオレの腕の中で、しかし力強く断言するクロ。
「クロ、てめぇ!」
「ご主人を助けたことは間違ってないにゃ」
胸を張って堂々と、
「吾輩の失敗は、自分の身を護れなかったことにゃからして」
己の非を鳴らし、
「今度は自分もご主人も守ってみせるにゃ!」
次こそはと熱く語る。
「お前……お前なぁ……」
その姿に胸が苦しくなり、もう一度強く強く抱きしめる。
眦から熱い水が流れ、クロの顔にぽつりぽつりと落下。
「ご主人、髪切ったのかニャ?」
ふいにクロの声が耳元に零れる。
オレの髪は――エルフの里の一件で短くしてしまったのだが、
その理由をコイツに言うのは憚られる。
「ま、まあな。気分転換って奴」
オレの言葉を信じたのか否かはともかくとして、
せっかく綺麗だったのに勿体ないニャなどともごもごと呟くクロ。
切りそろえられた髪の淵を指でなぞり、
「だったら、また伸ばすよ」
「にゃんにゃん」
機嫌が直ったようで何より。
「……ましいなぁ」
少し離れたところでこちらの様子をうかがっていたレオの声は、
ホルネスに吹く風に溶けてオレの耳には届かなかった。
次回より『帝国の守護者』となります。