第34話 帝国の聖域 その3
霊峰ホルネスの佇まいはさすが帝国の聖地と呼ばれるだけのことはある。
それは守護者が座しているという理由だけではなく、
どこかしら神秘的で、下界とは異なる雰囲気に包まれているからかもしれない。
清涼な空気、見たことも無い高山植物。
露出した岩肌から所々漏れ出す水は透明で、
そのままでも喉を潤す用に足るほどに澄み渡っている。
人影もほとんどなく喧騒もなく、ただただ静謐な世界。
帝国存亡の危機なんて厄介事に巻き込まれていなければ、
じっくりと見分しながら登るのもよさそうな所だと思う。
「……慣れれば慣れるものだね」
登山開始から数日、全身を襲う筋肉痛に苦しみつつも、
杖を突きながらとはいえ自分の足で歩くことに慣れたレオが独白する。
「帝都に戻ってからも、仕事ばっかじゃなくて運動しろよ」
朝から晩まで書類の山に埋もれているというのは、
言っては何だが健全な人間の生活とは程遠い。
よく食べよく休み、そしてよく運動する。
若いうちから健康には気を遣っておかないと、
年を取ってからどうこうしようとしても間に合わないこともあろう。
「そうだね。気を付ける」
病に倒れた皇帝陛下のことを思えば、
今からでも生活態度を改めるべきだと考えたのかもしれない。
レオは素直に頷いてくれ、周囲の護衛達も賛同の意思を表する。
「ちゃんとしろよ。でないと――」
「でないと?」
「太るぞ」
「……それは困るな」
己の未来を幻視して絶句するレオ。
実際にそうなるかはともかくとして、
想像の上とは言え恐怖を植え付けておけば、
今後の生活が改善される可能性は高まるかもしれない。
「ま、まあそれはそれとして。このまま何事もなければいいんだけれどね……」
話の流れを変えようとしたか、不吉極まりないことをレオが口にする。
「おいおい、そういうことは――」
「GAOOOOOOON!」
後にしてくれと言おうとしたちょうどその時、
平穏なはずの山道に、突如激しい咆哮が響き渡る。
「魔物!?」
霊峰に似つかわしくない存在を示唆するその声に驚くオレ達。
「殿下!」
魔術師がレオのもとに寄り、騎士が周囲を固める。
クロム卿はオレの傍に控えて腰の剣に手をかける。
そしてオレは『万象の書』を呼び出しつつ杖を構える。
――どこから来る?
咆哮はかなり大きかった。
個人的な所見だが、声が大きい魔物は大抵身体も大きい。
大気を震わせるほどの咆哮なら、小型の魔物ではないと思われる。
周囲に首を巡らせてみても、背の低い植物が多少生えているだけで、
姿を隠していられるような場所は見当たらない。
となると――
『契約者、上だ!』
エオルディアの声と、クロム卿がオレを抱きかかえて飛び退るのがほぼ同時。
一瞬の後に、先ほどまでオレがいた道端にかなりの重量が着地した振動。
「助かった!」
「いえ、任務ですから」
相変わらず堅物の黒い騎士はいかにもなセリフを吐き、
オレは襲来した魔物の方に視線をやる。
四つ足の魔物だ。
図体がデカい。この場にいる誰よりも。
オレの手持ちで言えばヘルハウンドと比較しても一回りは大きい。
魔物の正体は一目で知れた。
獰猛な目つきをした犬の頭が三つ。
頭部は燃えるようなたてがみに覆われ、
それぞれの口には鋭い牙が輝き、
口腔からは低い唸り声が漏れている。
ケルベロス。
地獄の番犬とも呼ばれる、三つ首の魔犬。
冥界の猟犬ヘルハウンドと同じく強力な犬型の魔物だ。
どちらも『地獄』だの『冥界』だのと枕がついているが、
生まれも育ちも魔界――神代に分かたれた悪魔たちの世界――である。
「な……ケルベロスだとッ!?」
近衛騎士たちは慌てて武器を構え、
魔術師は詠唱の準備に入る。
――これは、おかしいだろ……
帝国によって厳重に管理され、
定期的に魔物の間引きも行われ、
さらには『守護者』と呼ばれる存在までおわすこの霊峰に、
なんでこんな魔物がいるのかってんだ!
「まさか、ホルネスのどこかにダンジョンが?」
異界の魔物の出現、その可能性が一番高いのが、
条理では測れない領域であるダンジョン。
「そんなことがあったら、必ず報告が入るよ」
オレの疑問にレオが答える。
「だよな……」
しかし、それ以外に魔界の魔物が人間界に姿を現す理由といえば――
『何者かに召喚された、か?』
――いや……どうだろう?
エオルディアの問いは最もなのだが、
すぐさま肯定することはできない。
何故なら――
「鎖が見えねぇ」
かつてアールスの街でエオルディアを蝕んでいた赤い鎖。
召喚術によって使役されている魔物であれば、
召喚術士にはその禍々しい赤光を目にすることができる。
しかし、どれだけ目を凝らしても、
眼前のケルベロスにはそれらしい光は見て取れない。
『では野生の魔物だと?』
こちらに向き直り戦闘態勢に移行する魔犬を前に翠竜が疑問を呈する。
――それは……考えにくいんだが……
過剰なほどの魔力溜まりであるダンジョンなら、
魔界の魔物が人間界に現れるという非常識も、
『まあそんなものか』と受け入れることができるのだが、
あいにくここはダンジョンではないし、そんなものが近くにあるという話もない。
「ステラ殿、どうにかなりませんか?」
震える声はレオの隣の魔術士から。
魔物の相手は召喚術士ってのは間違ってないが、
丸投げされるのはちょっと困る。
それに――
「……向こうはやる気みたいだぜ」
身体を低くして、今にも飛びかかろうとしている地獄の魔犬。
――撤退……はありえねぇな。
ふもとまではかなり距離があるし、こちらには残念体力のレオがいる。
オレだってもう一人に魔術士だって、到底逃げ切れるとは思えない。
つまり――
「戦うしかないってわけだ!」
騎士たちが剣を抜き、レオの前に出る。
魔術士はみなに『障壁』を展開し、次の一手を待つ。
そしてオレは、
「『ヘルハウンド』よ、来い!」
『万象の証』をかざし、燻る炎の毛皮を持つ冥界の猟犬を召喚。
事ここに至り、守護者の足元だから魔物を呼ばないなどと、
眠たいことは言っていられない。
端的に生命の危機だから、この状況。
☆
「GRRRRROOOOO!」
「ガウウウッ!」
二頭の魔犬が互いに間合いを取りながら睨み合う。
ヘルハウンドの後ろから、『障壁』の魔術を詠唱、
味方である猟犬の守りを固める。
「ガウッ!」
先手を取ったのは魔術の守りを得たヘルハウンド。
石ころが転がる山道を駆けてケルベロスに接近し、
牙を突き立てようと飛びかかる。
しかし一回り大きいケルベロスは低い姿勢のまま急に突進。
ヘルハウンドの下をくぐりつつ頭突きをかまし、
『障壁』に阻まれながらも衝撃を内側に通す。
軽く浮かされつつも着地したヘルハウンドにケルベロスの爪が襲い掛かる。
これは『障壁』を貫通することは叶わず、耳障りな音を周囲にまき散らす。
そして猟犬は至近距離から再度突撃。
『障壁』ごとの体当たりをケルベロスに叩き込み、
身体差を凌駕してたじろがせることに成功。
お互いに一時間合いを離して様子を見るようにぐるりぐるりと歩き回る。
隙あらば攻撃に遷ろうとしているヘルハウンドだが、
ケルベロスの三つの首は、そのどれか一つが常に猟犬を正面に捕え
先ほどのような突進を許さない構え。
「『雷撃』!」
拮抗した両者の意識の外から『雷撃』の魔術を四つ。
いずれも拡散しながら一直線にケルベロスに向かい、うちふたつの紫電が命中。
「……むぅ」
直撃した割にはケルベロスの動きが変わらない。
見た目からしてヘルハウンドよりも大きいだけあって、
魔術に対する抵抗能力も高いのだろうか。
――言っちゃなんだが、ほぼ上位互換って感じだな。
体格といい首の数といい、
同じ犬型の魔物とはいえ両者の戦力には隔たりがある模様。
――つっても熊はなぁ……
腕力においてヘルハウンドを凌駕する魔物は手札にあるが、
「GOOOO」
ケルベロスの三つの口から炎が溢れ、放射される。
「おっとと」
魔物同士の戦いにのめり込んでいた体勢を下げ炎を躱す。
ヘルハウンドはというと、この程度の炎は効いていない様子。
――これがあるからヘルハウンドの方がいいと思ったんだよな。
エオルディアのようなドラゴンが吐く炎ならともかく、
ケルベロスぐらいの火炎なら、毛皮に燐光を纏わせるヘルハウンドなら耐えられる。
これが熊だと毛皮に引火して大惨事になるところ。
「はあああっ!」
ケルベロスの意識がヘルハウンドに向いている隙に、
レオの前を固めていた騎士の一人が剣を抜き、
ケルベロスの巨体の横から回り込みつつ接近。
隙をついて上段から番犬の腹に刃を振り下ろす。
しかしケルベロスは気づいていたようで一時後退。
騎士の白刃は魔犬の鼻先をかすめ、
次の瞬間にケルベロスの前足を食らって、
切りかかった騎士の方が大きく吹き飛ばされた。
「おい!」
さらなる追撃を掛けようとする地獄の番犬に向けて再度『雷撃』を放つ。
今度は鼻先にふたつ。当たらなくても怯ませるだけでいい。
レオの傍に控えていた魔術士は再び『障壁』を唱え、騎士の守りを固める。
もう一人の騎士はレオを、クロム卿はオレの傍を離れることができない。
――くそ、これじゃどうにもならんな……
幾度となく爪と牙を交わす二頭の魔犬。
さらに剣で追いすがる騎士。
互いに攻めあぐねている展開といえなくもないが、
どんどん魔力を消費しているこちらに対して、
ケルベロスにはあまりダメージが入っていない。
ヘルハウンドと騎士を、オレともう一人の魔術士がそれぞれ援護しているため、
実質的に四対一で戦っているのにこの有様である。
状況を打開するためにデカい一撃が欲しいところ。
オレの手持ち魔術で一番威力があるのは『紫電槌』だが、
もちろんこの状態では使えない。
ケルベロスを捉えきれないだけでなく、味方に当たる可能性が高い。
威力だけ突出した魔術ってのは使いどころが難しい。
――チッ、どうするよ?
自問――したのがよくなかった。
戦場にあって、意識を敵から切るのは命取り。
こちらの意識の間断をついたケルベロスが猛突進。
横から飛びこんできたヘルハウンドを跳ね飛ばし、
オレに向かってさらに跳躍。
「お嬢様、後ろに下がって!」
立ちはだかったクロム卿が『障壁』がかかった盾でケルベロスを受け止め、拮抗。
「ハァッ!」
そのまま右手の剣を顔面に振り下ろす。
剣はケルベロスの頭の一つを浅く傷つけ、
痛みに怒りを覚えた魔犬は前足一閃。
大柄なクロム卿を一撃で横に張り飛ばし、
そのままオレに向かって大きな口を開ける。
チリチリと口腔の奥を照らす赤く燃える炎――それは大きく膨らんで――
「クッ!」
『契約者!』
眼前に迫る灼熱の死が、オレの時間感覚を引き延ばす。
わずか一瞬の間が、永遠に感じられるように。
しかしそれは錯覚でしかなく――
「GRRROOOOOOOOOO!」
「ぁ―――――アアあぁアあっ!」
魔犬の咆哮に混じり、耳に覚えのある声が聞こえた気がした。
しかし訪れる必滅を前にして、その正体を気にする余裕はない。
目の前では鋭い牙の並んだ口の奥に燃える炎が次第に大きくなり、
そして――次の瞬間、ケルベロスの身体が大きく横に弾けた。
頬に懐かしい風を感じた気がした。
☆
ケルベロスを弾き飛ばしたのは、
そのどでっ腹に激突した漆黒の砲弾。
横殴りに重い一撃を食らったケルベロスは、
涎をまき散らしながら岩壁に吹き飛ばされ、
黒い球体は回転しながらその場で垂直に飛び上がり、そして着地。
「ニャッ!」
クルリクルリとその場で回りつつ態勢を整えるその姿は、
この場にいる誰よりも小さくて、誰よりも勇ましくて、
そしてとても、とても――
ピンと伸びた耳。
全身を覆う黒い毛。
腰にはなぜか太いロープが巻かれ、
その一方が尻尾のように伸びている。
「クロ?」
『おお!』
自分の声が自分のものではないみたい。
心に響くエオルディアの歓声も、どこか現実味が無く、
しかし五感が捕えるその全ては現実で。
「待たせたニャ、ご主人!」
「クロ!」
真っ赤なマフラー靡かせて腕を組んで仁王立ち。
オレを庇って毒に斃れ、エルフの里で眠っているはずの相棒、
黒いケットシ―のクロフォードことクロが、
こちらに背を向けて立っていた。