第29話 帝都再び その2
ルドルフ将軍に促されて部屋に入ってきたのは、
見覚えのあるような顔をしたひとりの貴族。
『ような』などと言うあいまいな表現になったのは、
その顔の大半が包帯によって隠されており、
右手を布で釣っている痛々しい姿だったから。
――さっきの声は……
以前にどこかで聞いた気がする。
帝国に戻ってきてから貴族とかかわった回数は少なく、
そのほとんどは南方諸侯軍の――
「あ……ベントハウゼン男爵だったか?」
「憶えていただいて光栄ですな」
むっすりした表情のままそんなことを言う。
ベントハウゼン男爵。
南方諸侯軍の陣地に赴いたときに最初に案内してくれた貴族だ。
あの時はゴツイ鎧姿だったから、今の平服やぐるぐる巻きの包帯のせいで
印象が変わって見えてしまっていたのだ。
「無事だったのか、男爵」
「……おかげさまで」
「男爵?」
再会を喜ぶという雰囲気ではない。
男爵が纏う何かに耐えるような重苦しい空気に部屋が支配される。
「男爵がここにいるということは……レンダ南方伯は?」
諸侯軍の盟主であった苦労人の名前を出してみると、
「南方伯は、見事な戦死を遂げられました」
「えっ!?」
黒スライムに敗北したとはサスカス伯爵から聞いていたが、
まさか総大将自身が戦死とは……
南方諸侯軍の損害は想像以上のものらしい。
「まあ、そのあたりも含めて、当事者同士で顔を合わせて事情を聴こうと思っての」
男爵に腰掛けるよう勧めながら、ルドルフは重々しく告げた。
☆
「儂が最後に南方伯から連絡を受けたのは、嬢ちゃんをエルフの里にやったという報告じゃった」
ルドルフが口火を切り、頷いたベントハウゼン男爵がその後を引き継ぐ。
「彼奴等が再び侵攻を始めた理由については、今さら述べることもありますまい」
少なくとも、オレ達がルドルフの指示によって陣地で色々調査していた頃までは、
あの黒スライムは陣地で絶え間なく燃やされていた篝火によって北上を遮られていた。
だが、オレ達がエルフの里に向かったあの日はそうはならなかった。
あの日、南部諸侯軍が布陣していた一帯に大雨が降ったから。
雨脚は強く篝火の炎は弱まり、
おそらくその結果として黒スライムが活性化された。
諸侯軍も、上は将軍から下は一兵卒まで松明を握りしめて、
襲いかかる化け物を食い止めるべく奮闘したものの、
その甲斐なく押し切られてしまったというのがあの日の顛末。
途中で撤退したオレはその一部始終を見たわけではないが、
エルフの里から帝都に帰還する際に立ち寄ったサスカス領で、
ある程度までは伯爵から聞かされていた。
「南方伯は決死隊を募り、我々を逃した後、自らとともに陣地に火を放ちました」
本来ならば数か月は保つかという物資を一気に燃やして炎の壁を作った。
その後に雨は止んだものの、一度燃え出した油、糧食その他あらゆるものは鎮火することなく、
果てには周囲の森にも延焼し、十日近くも昼夜を問わず燃え続ける赤い壁となって、
黒い悪魔の北上を阻んだという。壮絶な話だ。
「南方伯……そこまでやったか」
「はい」
非常識なまでに強烈な伯の最期は、しかし無駄になることはなかった。
これまで静観を決め込んでいたスィールハーツ公爵ほか南部諸侯はこの顛末に激しく動揺し、
撤退した南方の貴族を取り込んで、少し北上した平地に慌てて陣地を再編、
南方伯が懸念していたエルフの森の前で、今なお化け物を食い止めているという。
「ルドルフ将軍は、中央に増援を求めた我々の話を聞いてくださるのですが……」
「他の連中を説得するには至らないと?」
中央軍はルドルフの一存では動かせない。
ただでさえ今は陛下の件で戦力の分散が難しいところなのだ。
「いや、そういうわけでもないぞい」
南方諸侯軍から挙げられた報告をもとに対策を練っているという。
聞けばスィールハーツ公爵と連携し、派遣する兵を選出している最中とのこと。
とは言うものの……
「生半可な作戦じゃ、あの化け物はどうにもならんぞ」
「嬢ちゃんにそこまで言わせるとは、それほどのものかいのう?」
情報は受け取っていたものの、直にその眼で見たことのないルドルフは、
たとえ経験豊かな老練の将軍とはいえ、感覚的な部分が理解できていないように見える。
「アレはもう……黒い津波が襲いかかってくるようなもんだ」
黒いスライム状の化け物っつーから勘違いする。
あいつは人間の力ではどうにもならない自然災害の類と考えた方が、
まだ対応を誤ることはないだろう。
ベントハウゼン男爵も『黒い津波』という表現に深く頷いている。
「ふむ……話を聞いておる限りではやはり火攻めが有効に思えとったが」
迫りくる波に矢を放つ様子を想像し、苦い顔を浮かべる。
「そりゃ試した中で一番効果があった――というか唯一効果があったのは炎だけどよ」
とにかく相手の規模が尋常じゃない。
南方伯の最期は確かにやり過ぎのように聞こえるかもしれないが、
たとえ短い間とはいえ、実際にあれと相対した身としては、
それくらいやらないと食い止められないという伯の判断は、
後で聞かされても正しかったと言わざるを得ない。
「もう視界が届く限り丸ごと真っ黒な海が広がってるようなもんだぜ」
人間が扱う炎なんぞでは到底焼ききれない――ように見えたけど、
現場から離れ、帝国の地図を思い浮かべると不審に感じる部分がある。
「そういえば、アイツらってなんで陣地の前で止まってんだ?」
「何を今さら」
奴らが炎に弱いというのは明白ではないかと男爵が呆れるが、
オレが言いたいのはそういうことではない。
「や、陣地から見たときは一面に広がってたけどよ」
実際に奴が限りなく膨張することができるのなら、
南方諸侯軍の陣地を放っておいて横に広がればよかったのではないか。
「む……それは確かに」
男爵もこちらの疑問に気づいたか、首をかしげている。
陣地から近くに見れば海と見まごう大規模な化け物だが、
帝国全体から見れば、むしろ南端から川のように北上してきているように思える。
すっかり冷めてしまった湯を喉に流し込み、そのあたりはどうかと尋ねてみても、
「しかし、あのような存在に理屈を求めても仕方がないのではなかろうか?」
男爵の言も一理ある。
アレをまともな感性で受け止めるというのは、
現地で直接相まみえた人間には難しい。
オレも、自分で言っていることが正しいのか自信がない。
「奴らと相対しているスィールハーツ公爵に、その辺の状況を逐次調べさせた方がいいじゃろうな」
「だな、これ以上想定外に出てこられたらどうにもならん」
「……ですな。公爵に是非ともお願いしましょう」
却下する理由もないので、この件は公爵に任せることと相成った。
「で、爺さんはどうやってあれを焼き尽くすつもりなんだ?」
帝国中の油を集めても到底足りるとは思えないのだが。
「超常の化け物には、超常の力をもってあたろうと考えておる」
「「超常の力?」」
うむ、とルドルフは頷き、唐突に、
「お二方とも、帝国の成り立ちについてはご存知かな?」
「成り立ち……ですか」
ルドルフの問いに黙り込む男爵。
「確か……とある召喚術士が強大な魔物と契約して『守護者』として崇め奉ったのが始まりじゃなかったっけか?」
歴史の講義と召喚術の知識が入り混じった、ホントかどうかもわからない建国の物語。
『守護者』と契約した召喚術士こそが皇家の祖とされている。
そうじゃ、とルドルフは相づちを打ってくる。
「え、でも……『守護者』って本当に存在しているのか?」
帝国建国は数百年前だったか千年前だったか。
長命のエルフたちですら覚えていないであろう過去の出来事。
あまりに現実味が無いから、箔漬けのための作り話だと思っていたのだが……
「『守護者』は実在する」
ルドルフは断言する。
「……何でそんなことを爺さんが知ってるんだ?」
「むろん、陛下から直接伺ったからだのう」
酒の席の話だが、と続けるのが何となく胡散臭い。
その一言は聞きたくなかった。
「皇家直轄領である霊峰ホルネス、その山頂にて風を支配する大いなる存在」
その力を借りることができれば、
極大規模の火計が成立するのではないか、というのがルドルフの目算。
う~ん、さすが将軍。生半の人間に思いつくアイデアではないな、って――
「それ、陛下が目を覚まさないとダメじゃないのか?」
「何でじゃ?」
守護者はそこに居るのだから、直接出向いて頼んでくればいいではないかと。
……気軽に言ってくれるなぁ。
「……誰が頭下げに行くんだよ?」
「そこが問題じゃ」
ルドルフは冷めた湯を喉に流し込み、話を続ける。
「皇帝陛下がお目ざめになれば問題はないのじゃが」
錬金術士たちの研究成果は芳しくなく、
エルフの薬師たちは今日帝都に着いたばかり。
薬効奏して陛下が目覚めると仮定しても、
いつまで待てばよいのかは判断しがたい。
……そもそも楽観的に過ぎるという話は置いといて。
「状況が状況なうえに、相手は帝国建国からのお付き合いなわけで」
使者を立てるにも相応の格が求められる。
「単純に考えれば、どちらかの皇子殿下にお頼みすることになりますか」
「まあそうなるんじゃが……それがのう」
ルドルフが言いよどむ理由を察することは容易い。
皇帝陛下不予の今、帝国にもたらされた危機を解決するために『守護者』の力を得た皇子は、
そのまま次代の皇帝として祭り上げられる可能性が高い。
つまり、ここでも皇位継承権問題が絡んでくる。
『守護者』の存在自体が帝国の成り立ちともかかわっているお蔭で、
より一層印象が強まるのも問題だ。
「またそれか」
「国家の危難に何を言っとるのかという話は重々分かるんじゃが」
王侯貴族という生き物は、どんな窮地にあってもこの手の話を忘れない。
「軍か、あるいは行政府から頼むにしてものう……」
その行為自体、軍がいずれかの皇子を支持することを意味してしまう。
ルドルフは渋面を作りながらそう続けた。
貴族たちはともかく、軍と行政府は基本的に中立を保っている。
ヴァイスハイトが軍の受けがいいとはいえ、それはあくまで一部の話。
帝国元帥を始め大半の将軍はあくまで帝国に仕えているのであって、
極端な話、誰が皇帝になろうとも同じように仕える。
裏を返せば特定の誰かを支持することはない。
これは行政府も同じ。そういうことになっている。
そうでないと、皇位継承問題が持ち上がるたびに貴重な人材が下野流出しかねない。
帝国が数百年の時を経ることができたのは、この辺りの中枢の中立性による部分が大きい。
トップが変わるごとに中枢を丸ごと入れ替えていては国家の政が成り立たない。
「じゃあどうするんだよ?」
「どうしようかのう……」
どれだけ机上で策を練ってもどうにもならないことがある。
この問題については行政府と共に少し考えさせてほしい。
ルドルフはそう最後に告げて、この場はお開きになった。
「お二方ともここまで大変でしたでしょう。まずはゆっくりとお休みくだされ」
事態は解決しておらず、全くもって気の休まらない有様だが、
ほかに言葉がなかったのだろうな、と思わざるを得ない。