pierrot
白い白い風船を貰った。
駅前に、ピエロが立っていた。ピエロはたった一つ真っ白な風船をふわふわふわふわ揺らしながら立っていた。
何をしているのだろう。駅前のデパートの客引きなのかなと思ってしばらく眺めていたけれど、ピエロは何をするわけでもなくてずうっと佇んでいた。ピエロのくせに芸もしない。おどけた仕草すらもしない。顔のペインティングと服装はあんなに滑稽なのに。変だ。変なピエロだ。
首を傾げながら見ていたけれど、しばらくして気づく。あのピエロを見ているのはあたしだけだった。あたし以外の学生やサラリーマンなんかはみんな早足で駅前の道を歩いていっていて、ピエロに気づいてすらいないかのようだった。ますます、変だ、と思う。あんなに目立つのに。あんなに目立つ格好をしたピエロなのに。
と、ピエロはあたしに気づいたらしく、表情をぱっと変えた。驚いたような顔をして、それからこちら向けたのは、あたし一人だけに対する満面の笑顔。でも作り物の笑顔。
ピエロはスキップであたしの元に近づいてきて、一メートルくらい前で立ち止まると、腰を折って大げさな礼をした。だからあたしはピエロに、こんにちはと挨拶を返す。ピエロは嬉しそうに両腕を広げて、それから、たったひとつ、その手に残っていた風船を差し出した。まるでそれは、愛する人に薔薇の花束を差し出す青年のようだった。あたしはそれを受け取る。あたしのために差し出されたそれはゆっくりと風に揺れた。白いはずのそれは夕方の太陽の緋の色を浴びて橙色に染まっていた。
血の色よりは格段に薄い緋色があたしの頭上に浮いている。あたしがそれを綺麗だなと思ったそのとき、ぱん、と音がした。そして同時にあたしの視界の中にあった風船が消えた。
風船が割れたのだ。
ピエロを見る。
ピエロは両手を肩の辺りで広げていた。
困ったね、とか、やれやれ、とか言いたそうに。
でもそれも、やはり滑稽な仕草だった。
その仕草の理由は、あたしにもすぐにわかった。
風船のあった場所から、黒い何かが広がってきたのだ。
あたしは、あ、と呟いた。それは何の意味も成さなかったけれど、でも、自然と漏れたのだから仕方ない。黒い何かがあたしの周りをさらさらと、まるで水のように蝕んでいく。さらさらさらさら流れ出したそれは止まらない。最初は水溜りのようにほんの少しだったそれはどんどんどんどん大きくなっていく。抵抗しようとしたけれどそんな暇も与えずそれはあたしの周りをさらさらさらさら侵食していき、そしてあたしは、とぷんと飲まれる。
さらさらさらさら。どんどん増えていく真っ黒な真っ黒な真っ黒な闇。白い中から溢れてきたその黒はあっという間に駅をピエロを街並みを自転車を街路樹を、そして空までもを飲み込んで広がっていく。あたしだけじゃない。全てが真っ黒に染まっていく。全てが飲み込まれていく。
そして気づく。
これは死だ。
黒い死だ。
たった一人のピエロが齎した滑稽な破滅だ。
白い風船から流れ出した黒い死が世界を塗り替えていく。
カラスも夕陽も雲も赤い空も全て全て黒に包まれ死んでいく。
あたしの握った細い細い糸の先で生まれた死はどんどんどんどん大きくなって塗り替えて包んで蝕んで壊して殺して終わらせていく。
終わっていく世界は意外と綺麗だと思った。
ああ。
世界が終わる。
あたしも終わる。
あたしと世界が一緒に終わる。
あたしと世界が一緒に終われる。
ああ。
ああ。
さらさらと。
あたしの耳元で流れる音が。
さらさらと。
死が流れていく音が。
さらさらと。
さらさらと。
さらさらさらさらさらさらさらと―――――――
*
そして再び目を開けると、そこはいつもの駅前だった。
日は暮れていた。
ピエロはいなかった。
白い風船もなかった。
世界も滅びてなんかいなかった。
みんな早足で過ぎていった。
何故か無性に悲しくなって、
あたしはほんの少しだけ泣いた。
ときどき、どことなく安定感のない小説を書きたくなります。
「あたし」の不安定な感情や、言葉にしにくい悲しさなどといったものが、ご覧下さった方々に伝わったら嬉しいです。