1.プロローグ【表紙イラスト】
以前98話まで連載していた異世界八険伝のリメイク版です。
タイトルは、「犬」でも「剣」でもなく、「険」が正しいです。単純に、冒険という意味ですね。
精一杯書いていきますので、どうかお付き合い&レビュー・感想、お願いします!!
準備は全て終わった――。
急ごしらえの台座に置かれたのは、黒い装丁の古びた本――それを丁寧に紐解く。
すると、同心円状に並べられた4444本の蝋燭に炎が灯り、腐臭漂う狭い地下室を照らし出した。
目の前に積まれたのは、大小様々な動物の死体。
足元を埋め尽くすのは、臓物から湧き出る液体。
いずれも、この儀式のために私が用意した物――。
頬を伝う涙と共に額の汗を拭う。
左右どちらの裾も血塗れなので、拭う意味があったのかと苦笑いが漏れる。
ポキっという緊張感のない音をどこかの関節が放つ。
暗く、音のない世界に木霊するそれは、長時間の緊張を強いられ続けてきたことへの小さな抗議に思えた。
死んだ者は生き返らない――それは、科学や医療がいかに発展した世界でも、また、魔法が罷り通る幻想世界であっても覆らない事実である。
しかし、古今東西において死者蘇生や不老長寿といった夢に縋り、幾多の徒労を重ねてきたのも、人が人である証左と言える。
それだけでも、命がいかに尊く貴重であるのかが分かるだろう。
私も、甘い夢に縋った馬鹿の1人だった――。
私が中学生になってすぐ、それまで交互に入退院を繰り返してきた父と母が死んだ。快復の見込みも、延命の可能性もない不治の病だったため、2人とも自宅で息を引き取ったのが不幸中の幸いだった。
貧しい生活には慣れていたが、あの優しい笑顔を再び見られないことは、私には耐えられなかった。
私の心は、準備も覚悟もできていなかったんだ――。
3日3晩泣き続けた私の元に、1通の手紙が届いた。
そこには、両親に連れられて1度だけ行ったことのある古書店の名が記されていた。
何の因果か、当時の私は嵐の中を10km以上も走り続け、藁にも縋すがる思いでそこへと向かった。そして、この本に出合った――。
そこからは、何かに取り憑かれたようにひたすら命を狩り続ける日々が続き、今、漸くこの時を迎えた――。
さぁ、始めよう――。
不気味に揺れ動く文字を、お腹の底から絞り出した声で読み上げる。
「神を超越せし偉大なる存在よ、天をも焦がす力の源よ! 我は希う! その尊大なる御心にて、身体を、生命を、魂魄を、悠久の時を越え――うぐっ!」
最後の1文を読み上げていたとき、雷に打たれたかのような激痛が全身を駆け抜けた。
私は引き千切れんばかりに唇を噛み、地獄の痙攣を耐え抜く。
そんな私を嘲笑うかの如く、激しい悪寒が心を抉る。凍える身を包み込んでいた両手は、急激に湧き起こる嘔吐感を抑えようと、咄嗟に口へと向かう。
繰り返し繰り返し床を穢していく吐瀉物の中、おぞましい形をした影がもぞもぞと蠢いていた――。
『汝、伏見 里央の魂を裁きの天秤に掛ける』
頭の中に直接届いた思念は、機械音や動物の声とは明らかに異なる響き。森の中でホルンを奏でるような、低く重く強いさざめきだった。
何とか片目をこじ開けて見た先には、淡い光を纏った星が一つ、左右に揺れながら浮かぶ天秤の中心に漂っていた――。
裁きの天秤――確かに、そう聞こえた。
その言葉は知っている。
死者の魂を善悪に振り分ける、神による審判だ。
私は死んじゃったの?
このお星様は神なの?
現状を受け入れられず、ただ茫然とその場にしゃがみ込んでいる私に、その声はより一層重さを増して圧し掛かってくる。
『異世界の邪神に操られていたとはいえ、汝は多くの命を奪った』
「ちょ、ちょっと待ってください。私はただ、お父さんお母さんを生き返そうと――」
心の底から願った本心が呻き声と共に漏れる。
『汝は彼の邪神に弄ばれただけである。故に罪咎は免れ得ないものと知れ』
天秤が大きく左に傾く。
銀色の玉が乗る左の皿が私の視線までぐっと下がると、右に乗せられた羽根は勢いよく舞い上がった。
「そんな――」
他人が苦労して作った砂のお城を楽しそうに壊す。
高く積み上げたブロックを壊すことに快感を得る。
そういう醜悪な人がいることくらい、知っている。
思い起こせば、全てが最初から仕組まれていたのかもしれない。
原因不明の病が両親を襲い、小さな幸せを謳歌していた家庭は脆くも崩れ去る。その後、まるで余興のように命を奪わせて快楽を得る――そんな奴に、私は心も身体を操られた。両親を取り戻したいと切に願った私は、いとも簡単に翻弄されてしまったんだ。
死んだ者は生き返らない。
そう、分かっていたのに。
血と吐瀉物に塗れた手で顔を覆う。
今の私にはお似合いの格好だよね。
あの世で会えたら、お父さんとお母さんに謝ろう。
でも今は、自分を止めてくれた存在に感謝したい。
申し訳なくて、情けなくて、やるせなくて、ありがたくて――涸れていたはずの涙が、己をひたすら責めるように止め処なく頬を伝う。
「――ありがとう、ございます」
私は、光を真っ直ぐに見つめ言葉を返す。
光は、涙で洗い流された私の顔を照らす。
『心して見よ。天秤は今や釣り合っている。右手に在る真実の羽根が重くなったのではない。汝の両親の魂が、左手を支えているのだ。死してなお、子を守ろうとする親の慈愛に深く感謝せよ。そして、その魂を抱いて知るがよい。彼の邪神が創りし地獄の世界を――』
そして、世界は暗転する――。
面接で「あなたが尊敬する人は誰ですか」と訊かれたら、「マハトマ・ガンディーと、ジャンヌ・ダルクです」と答えます。
彼らの人生の中に詰まっている正義感と強さ、優しさに思いを馳せると、心が洗われて力が沸く気がします。
因みに、この質問、一度もされたことはありませんが。