空間
知覚異常。
僕の視覚の異常は頭部の怪我のせいだった。ちなみにその時のことは良く覚えていない。それは事故だった。例えで言えば、卵を割るときみたいに頭蓋骨にヒビが入ったわけだった。死ななかっただけ良かったが、モノをきちんと認識できなくなってしまった。見るものすべてが歪んでいるように見える。そう言えば、そんな主人公が登場する恋愛ゲームがあったような気がする…。
ともあれ、状況はかなりひどい。病院のベッドの上で目を覚ました時は何が起きているのか分からなかった。夢でも見ているのか、そうでなければ異世界にでも放り込まれたのかと思った。眼を開けば、ぐちゃぐちゃの絵画のような世界に放り込まれているかのごとくだった。人の顔も分からない。景色も分からない。突然、部屋の空間の広がりが反転したかと思うと僕の方へ迫って来て押しつぶされてしまうのではないかと感じてパニックになったり。窓の外へ目を向ければ景色がミキサーにかけたようになって、僕自身は空に落ちそうなるかと思った。
それでも何とか僕の気が狂わずにいられるのは文字は読めるということだった。注意深く意識すれば文字だけはきちんと読むことが出来た。ただ、視覚はこんなことになっているのに文字が読めるとは不思議なものだった。
医師曰く、「君の場合、眼球そのものではなくて、脳の処理機能に問題が生じたわけだからね。空間認知と言語では、まあ、脳の中では処理をする場所が違うから。といっても私自身研究者ではないから深いところまでは分からないけど…」とのことだった。正直どうでもいいと思った。
頭の怪我自体がすっかり治る頃にはなんとか、見るという意識を少しはコントロールできるようになった。ような気がする…。慣れてきたと言うのかな。友人や医師の支えもあってのことだったが。それでもエッシャーのだまし絵とかマグリットの絵画の中にいるような感じに変わりは無かった。あるいは少しでも良くなったと思いたかっただけかも知れなかった。それに乗り物はダメだった。カクテルシェイカーに入れられた気分になった。
あるとき見つけた本で、というか友人が持ってきた本の一つだったかな。確か数学の本だった。次元とか空間について書いてあったと思う。その中にこんなのがあった。
超立方体。
なんでも四次元の立方体だそうで、僕たち三次元の人間には理解しがたいものらしい。だけどそのイラストを見た瞬間、僕は驚いた。そこには三次元の立方体が本のページから飛び出し、まるで手元に浮かんで存在しているかのように見えたのだ。でも、そう思った後これも症状の一つなんだろうなと醒めた感じで納得した。僕はまともにモノの形が分からない。まともに見てよくわからないものが、逆に僕にはまともに見えるなんてこともあるかもしれないと。
だけどしばらくして、もしかしてだけど僕は三次元よりも高次の空間が見えるようになってしまったのでは。ふとそんな考えがよぎった。実はこの世界はパラレルワールドみたいな良く似たようなのがたくさんあって、僕たちが知ることのできない次元の中でたくさん重なって存在しているみたいな話も聞いたことがる。僕にはそれが見えるようになってしまったのでは?でも、それ以上考えが発展することは無かった。そもそも確かめようが無かったのだ。
結局この状況に多少慣れても、適応は出来なかった。それで、どうしたのか?
僕は自分の目を潰そうとした。
もう、その時は無我夢中だった。あとから聞いたけど、完全に眼球を取出していたみたいだ。意識が戻った時、景色は完全な闇だった。でも少しほっとした。このまま訳の分からない景色を見続けて、気が触れてしまうよりかは盲目の方がマシだと思った。
「後悔はしてないのか?」
見舞いに訪れた友人は最後に訊いた。
「自分で自分の両目をえぐり出したこと?」
僕は聞き返した。
「ああ…」
「分からないな。でも、もし、目を開けている間は常に、幾重にも情景が重ねあわされているような景色を見ながら生活しないとなったら、君はどう?僕には、とても耐えられない」