5、砂漠の中の宝石箱
5、砂漠の中の宝石箱
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夕日が沈み、空の色が橙色から群青色へと移り変わっていく。旧世紀であれば、その色がまだらに混じり合ったのかもしれない。だが、ここは砂漠である。夕日の明かりを反射する雲の粒は少なく、逢魔が時の空は単調なグラデーションを描くばかりである。ただ、山よりもさらに高いところを雲が流れることはある。そして、それらの雲が夕日の赤と空の青を混ぜ合わせたときは、空の広さも相まって圧巻であった。
砂漠も決して残酷なだけの土地ではないと、それをして言う人々もいる。ただ、それは砂漠の本質を知らぬ無知の戯言である。あるいは砂漠の恐ろしさを知っているからこそ口を突く、ある種の希望的観測であるかもしれない。
そう、あくまでも砂漠は砂漠。そこに人間の意志が介在することもなければ、人間の善悪という基準は存在しない。美しいということも、残酷だということも、いずれも人間という有機物の塊が感じているというだけでしかない。砂漠にとって、それらは意味のあることではないのだ。
人間にとって美しいことも、人間にとって残酷なことも。砂漠は等しく、何の区別もなく行う。そこには善意もなければ悪意もない。
「どうにも、嫌な臭いの風が吹いている。……イゼル、観測は出来ているか!」
「合点、承知しておりやすぜ、お頭!」
「……嵐が、くるな」
ドレットノッド砂賊の首領、ロイドン=ドレットノッドは鼻が利く。風に混じる臭いだけで、おおよそ、砂嵐の予兆を感じ取れるのだった。
もっとも、それは一般的な特技でないにしても、似たような特技を保有している人間は多い。気圧の変化を敏感に感じ取るものもいれば、風の肌触りで予期するものもいる。砂漠で生活するものにとって、砂嵐は深刻な気象現象であるからして、皆が皆、意識して予兆を感じ取ろうとするのだ。ロイドンの場合、それが偶々嗅覚であったというだけである。
ただ、臭いだけではどこから砂嵐が来るかまでは予測できない。そのため、予兆を感じ取ってからは、他の観測手段を用いて正確性を増す必要があった。そうして万全を期すことで、ドレットノッド砂賊はこれまで砂漠という脅威と共存してきたのだ。
そう、それは別段、特別なことではない。むしろ、それは当たり前すぎるほどに当たり前のことなのだ。オアシスに住むことを拒み、本来の意味での砂漠に生きる彼らにとって、当たり前すぎるほどに当たり前な習性なのである。
「引き時なのかもしれないな、もしかすれば」
「……お頭?」
「執念深い女に付き合わされて、ノイド砂漠の端まで来てしまったが……これ以上付き合う義理もねぇということさ」
元来、砂賊は何でも屋ではない。誰よりも砂漠に精通している以上、それに近いことはするが、やはり砂漠に潜む賊であることに変わりはないのである。
気前よく依頼金を払ってくれるからこそ、これまでは漆黒の衛機に跨がる女に従ってきた。だが、金の切れ目が縁の切れ目ともいう。その古い言葉にも、一分の真実はあるはずなのだ。
白い衛機を奪い取れと、女は言っていた。通信機越しでの会話が多く、顔を見たこともない女であったが、かなりの実力の持ち主だということは容易にうかがい知れた。
「あの女の機嫌を損ねたら、多分、我々は潰されていたのだよ、イゼル」
「へぇっ? そうなんですか、お頭?」
「そうだとも。そのぐらいはキサマも分からなければならんぞ、イゼル」
あるいは、ここら一帯を取り締まる兵団の関係者だったのかもしれない――そのようにロイドンは察していた。
オアシス都市が保有する兵団と砂賊は、表向きにも実質的にも犬猿の仲である。公的であろうと私的であろうと、都市兵団は砂賊対策のために設営されているものなのだから、成り立ちからして対立する存在なのだ。
だが、稀に兵団で処理できない汚れ仕事を、間接的に砂賊にまわしてくることがある。蛇の道は蛇とはいうが、都市兵団が表立って行うことが出来ないことを、砂賊は平然とやってのけてしまえる。それこそノイド砂漠周辺の治安は比較的安定している方であるが、これが不安定な地域ともなると、砂賊と傭兵、都市兵団の境目がほとんどないほどなのだ。
「前払いだけだとはいえ、十分な金はもらった。欲張って、むざむざ死地に飛び込む必要はないのだよ」
依頼主が望むだけの役目は十分に果たしたはずであるし、これ以上、付き合うのは危険だと直感が告げている。
大体、依頼主はあの白い衛機を強奪する意志が、本当にあったのだろうか。
「とんだ道化だ。だが、道化を演じて金がもらえたと思えば、それに越したことはない。……むしろ一番怖いのは、自分が道化であることに気づけないことなのだよ」
とはいえ、ロイドン=ドレットノッドにとって、純白の衛機『シイバレル』とやりあったことそのものが興味深いことであった。
道化を演じるのは趣味ではなかったものの、金銭以外に、それだけは確かな収穫と言えたのかもしれない。
「オレたちは、狂言回しだったってことでやすかね、お頭?」
「おう、そうともさ! ……なかなか、オマエも分かるようになってきたではないか、イゼル」
そしてまた、一番の部下がものの道理を分かるようになってきたというのも、彼にとっては思ってもいなかった収穫である。
それらの収穫を胸に、ロイドン=ドレットノッドはノイド砂漠の端をあとにするのだった。
漆黒の衛機『アミッドジーク』に跨がり、私兵団の教官役を任される彼女は、自他共に認める優秀な兵である。積極的に前線へと赴いていた頃は数多くの戦績を上げ、数十体からなる砂賊の衛機を単機で打ち負かした、ノイド砂漠の生きた伝説であった。五年前までであれば、彼女の名を、そして特徴的な漆黒の衛機の姿を知らぬ砂賊はいなかったという。
教官の任についてからは一線を引いているが、それでも能力に衰えがあったわけではない。今でも伝説の再現をすることは可能であると自負しているのだし、兵団としても、いざというときには彼女の力を借りようとすることだろう。
新興の砂賊の中には彼女の存在を、そして伝説を知らぬ場合もあるという。だが、ジーク=サンスパイクがひとたび前線復帰すれば、おそらくは多くの砂賊が恐怖することになるだろう。それほどまでに、彼女の衛機操縦術は並外れ、『衛機に跨がっている限り無敵』との評もまんざら的外れではないのである。
だが、そんなジーク=サンスパイクには、何よりも優先されるべき物があった。そして、だからこそ、ノイド砂漠の伝説も当分は復活することもないのである。
「ワタシは、子供が好きなのさ! ……特に、ローティーンの子供がさ!」
「……アンタの性癖なんて、ウンザリだって! ……何度も、言っているだろうが!」
漆黒の衛機を駆り、ジークは教え子に拳を繰り出す。
通常、衛機の拳は作業用のアームにしか過ぎない。故障してしまう可能性もある以上、それで殴り合いを演じられるものではない。それが出来るのは、軍用に特別な改良がされた機体だけにとどまるのだ。ただ、通常の衛機使用には不要なものであるからして、それは余分な重量を増すことになる。場合によっては機体出力を分散させなければならず、総合性能の低下にも繋がる。
それでもあえて格闘用のアームを搭載し、運用しているのは、それが衛機同士の戦闘において有用だからである。
通常、銃器を撃つか、あるいは耐久力に余裕がある足で蹴飛ばすかしかできないのが衛機である。そこに拳による格闘という要素を加えることにより、衛機が戦闘中にとれる行動が広がる。そして、取り得る行動の幅が広がることにより、さらに効率的に戦場を支配することが出来るのだった。
もちろん、手数が増えたところで、使いこなせなければむしろ不利になる。普通、銃器の扱いなりを極めた方がずっと簡単に、衛機による戦闘術を修得できるはずなのだ。だからそれは、いわばジーク=サンスパイクという優れた衛機乗りだからこそ有効なチューンナップであるといえるのだった。
「少年! イノル! アンタも、まだまだ、ローティーンの坊やなのさ! ……だったら、このワタシが、可愛がってやるしかないじゃないか!」
「アンタがそんなだから、俺は……! いつまでもそんなことされちゃ、大人になんてなれやしない……!」
「そうさ、いつまでも可愛い少年のままで手元に置いておきたいのさ!」
少し前までは、その衛機格闘術の全てを教え込むことが出来たと思っていた。何の能力もなかった少年を一人前の兵に育て上げたものだと、ひとり、悦に入ってもいた。だからこそ独り立ちを許したのであるし、『アミッドジーク』の姉妹機である『シイバレル』を餞別代わりにくれてやったのである。
だが、実際にはどうだっただろうか。少年は彼女が最後に与えた目標を達成するべくもがいたが、いまだに達成することが出来ないでいた。三百何十回もケイルヴァーンに失敗したのは、彼がまだまだ未熟だったからに他ならない。
だからこそ『彼女がお膳立て』してやって、ようやくここまで来られたというのに。少年は『彼女がお目付役に派遣した男』を半殺しの目に遭わせた。それも、少年自身の手によって。
「オマエはとんだ未熟者さ、子供さ! お子様なんだよ、イノル! そのことが分かったから、ワタシはもう一度、オマエを手元に置かなければならないのさ。……ワタシの、可愛い可愛い、イノル坊やをね!」
「……俺は、アンタに好き勝手されるためだけの存在じゃない! 俺は、俺だ!」
「クインスを殺しておいて……生意気言うんじゃないよ!」
「……それを言うなら、クインスはアンタのワガママが殺したっていうことだろうが! 教官殿こそ、何故、それが分からないんだ!」
「目の前のことしか見えていないから、坊やだと言っているのさ! ワタシは! ……ワタシは、アンタとは違って、自分のことを客観的に見ることが出来ているさ!」
「……それなら、なおのこと、悪いだろうがっ!」
口だけは達者なのが、まだまだ子供である。
何故、この少年はそのことに気づけないのだろうか。
「文句があるなら、まず、ワタシを倒してから言えばいいだろうさ!」
衛機同士の殴り合いも、無論、その間に休むことはない。
まともに格闘戦をやり合った場合、実のところ『シイバレル』にこそ分がある。そのことは両機を製作したジーク当人だからこそ、誰よりもよく分かることだった。
そしてもちろん、そのことはイノル=ウィースキッドも理解しているのだろう。格闘戦ではやられっぱなしであるイノルも、それでもジークが距離を開けようとすれば、素早く詰めてくる。そのぐらいの判断力はあるのだろうし、ジークが教えたことを忘れてもいないようだった。
「……言われなくとも!」
ただ、やはりイノル=ウィースキッドは子供である。ジークの言葉が挑発であるということにも気づかず、ただひたすらに突進してくるしかしない。周りの様子など、全く目に入っていないのだ。
ケイルヴァーン参加者たちはジークらの戦闘を横目に、大破したクインス=ゲイルヴィーツの衛機を安全な場所まで運んでいる。そして、瀕死の重傷を負っているクインスをなんとか機体から引き出し、懸命な治療に当たっているのである。そして、それを率先して行っているのがクインスに命を狙われていたはずのブルックリン=エーゲデルト――ジークの仕立てたシナリオにはなかったはずの迷惑な存在であった。これについては、ジークとしても苦笑いするしかない事態である。ジークも大概、並外れた衛機操縦術を持っていると称されるが、猪首の大男もそれに負けず劣らずの達人のようだった。
もっとも、ジークがそちらに目をやっていられるのも、ほんの僅かなことである。多少は冷静さを取り戻してきたのか、イノルの跨がる『シイバレル』の攻撃が、よそ見をしていては裁けないほどの鋭さを取り戻し始めたからである。
「そう、そうさ。ようやく、ワタシが教えてきたことを思い出し始めたようさね。……しかし!」
――バッテリィタンクから直接供給されたプラズマが、銃口からほとばしる。
至近距離から、『アミッドジーク』がビーム拳銃を放つ。
低出力ビームを放つ拳銃は、何も低性能機が用いるためだけにあるのではない。銃身を切り詰めた拳銃は射程こそ短いものの、格闘戦に織り交ぜて使うことができるのだ。むしろ、格闘の延長線上として用いることで、通常ならば当てにくい低出力ビームを確実に当てることが出来るようになるのだ。
旧世紀の終わり頃、フィクションの世界で『ガン=カタ』と呼ばれる、拳銃と格闘を組み合わせた格闘技が描かれたという。ジークはそれを衛機の格闘術にも当てはめ、さらに発展させていった。初歩的な技術についてはイノルにも伝授したものの、真の意味での奥義は『シイバレル』では発揮できない。それが出来るのは世界にただひとつ、ジークの跨がる『アミッドジーク』だけなのだ。
「『アミッドジーク』の真価、とくとご覧ぜよ……! イノル少年!」
ただ、やはり彼女もまた、イノルと同様に大切なことを見落としていた。
しかし、まだこのときの彼女は、そのことに気付きもしていなかったのである。
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思い返せば、いつも、いつでも道が決められていた。
故郷を離れなければならなかったのは、何故だったか。それは故郷の両親が貧しくて、何人もの子供を養えなかったからだ。だから、半ば身売りされるような形で、少年兵として軍籍に入った。もちろん、イノルとしてはそのことに反発心を覚えもしたが、妹のアーニのためを思えばそれが最善の選択だということは明らかなことだった。だからこそ、彼は身売り同然であろうとも兵として働くことに不満を覚えなかったのだ。
兵団に入ってからは、もちろん、自分の意志などあってなきがごとしだった。
これが航空部隊の飛行機乗りならば、個人が尊重されるものなのだろう。だが、航空機お類は砂漠での維持運用費が非常に高く、有する都市は希有である。大部分の兵がそうであるように、イノルは白兵戦と衛機戦闘を主とする部隊に配属された。それも若さゆえの体力があり、十分な伸びしろもある少年兵は、しばしば特殊な精鋭部隊に回されるのが常だった。
そう、精鋭部隊といえば聞こえは良い。だが、実態は通常の兵以上に自由が制限され、徹底教練によって個性を消される過酷な部署でもある。イノル=ウィースキッドは右も左も分からぬうちに精鋭教練部隊に編入され、伝説的な衛機乗りジーク=サンスパイクの持つ技能をたたき込まれた。もっとも、ろくな判断力の付かぬ子供であったから、疑いもせずに多くの技能を吸収した。
だが、それは、それだけのことでしかなかった。
人を殺す技能は、多く知っている。どの角度で、どのぐらいの力で人間の頸椎が折れるのか、身に染みて理解している。それこそ、それは口で説明するより、実践した方が遙かに早いぐらいである。どこに、どの程度の銃傷を負うと生命が危険であるのか。あるいはどの程度の痛みまでなら、人間は耐えることが出来るのか。ゲリラ戦の際の鉄則、衛機による単独渡航可能距離と、それに必要な物資の見立て。砂漠でのサバイバル術、市街戦での立ち回りと、ひとつの都市を陥落させるのに必要な戦略や戦術。それらの技能や知識、そしてそれを実践するだけの体力や経験については、誰にも負けないだろう。
しかし、そうして身につけたものが、例えばこのケイルヴァーンでどれほど活かせただろうか。あるいは兵団から抜けて今まで、どれほど役立っただろうか。そして何よりも、それらがイノル=ウィースキッドという人間にとって、どれほど役立っているのだろうか。
「俺は……俺には、何もない。ランナのような理想を持っているのでもなければ、カルロスのように国や都市のために働いているのでもない」
今までは、そんなことを思ったこともなかった。自分自身が空っぽであったからこそ、他人も全て空っぽなのだと思い込んでいた。
だからこそ、空っぽな人間が自分の大切な目的を――妹に会うために砂漠を越えたいということを邪魔されるのが腹立たしくて、結果的にいくつものケイルヴァーンを失敗させてきてしまった。
だが、今回のケイルヴァーンで、初めて気づけたのである。それぞれが目的を持ち、そして誰もが、それを実現させるために全力を尽くしているということを。
「アンタが、教官殿が……周りの大人が、何もかも道を決めていたからだ! ……俺自身で、何かを選ぶということが、出来なかったからなんだ!」
純白の衛機を敵機の眼前まで接近させ、素早く拳を突き出させる。急接近することで相手の視界をふさぎ、死角から攻撃を繰り出す衛機格闘術である。ただ、それも熟練兵相手には通用しないというのか、ジーク=サンスパイクの衛機はイノルの意図を悟って素早く後退していた。
あと少しでもイノルの動作が早ければ、むしろ相手が飛び退く勢いを利用した打撃が与えられたはずなのだが、それを簡単にやらせてくれない。
「そうやって、教官殿は、何もかもを見透かしたようにして……!」
「見透かされる程度のことしか出来ないから、子供だって言っているのさ!」
「……なら!」
――バッテリィタンクから直接供給されたプラズマが、銃口からほとばしる。
相手の視界をふさいだ際、イノルは右拳を繰り出しただけではなかった。
反対の左手は腰のマウントからビーム拳銃を引き抜いており、漆黒の『アミッドジーク』が飛び退いたのと同時、ビームを撃ち放っていたのである。
衛機は翼を持たない故、空中で姿勢を制御することはできない。だからこそ、その射撃はジークの機体に命中するはずだったのである。
「その程度で、ワタシを出し抜けると思っているのかい、坊や……!」
「……なっ!」
――漆黒の衛機が翼を広げ、機体を制御する。
衛機が空を飛ぶことはない。だからおそらく、それは飛行を目的としたものではないのだろう。
だが、それでもたしかに『アミッドジーク』は翼としか形容しようのないパーツを広げ、空中旋回して跳躍方向を変えたのである。
「以前、戦闘機を落としたときに手に入れたパーツなのさ。飛べはしないが、姿勢を制御する役には立つ!」
「何でもかんでも詰め込めば、強くなるっていうのかよ!」
「然り! ……砂漠を渡るため、衛機はユニバーサル仕様なのさ! なら、飛行機械の羽根ぐらい、使いこなせないでどうする!」
「それは、ただ、アンタが特別なだけなんだろうって! ……解れよ!」
ジーク=サンスパイクは、自らの傲慢さが分かっていないのだろうか。
あるいは分かっていながらも、なお、その傲慢を通しているのだろうか。
「分かっていないのは、オマエさ、イノル=ウィースキッド!」
「何を……! 教官殿はあくまでも教官殿でしかなくて、兵団を抜けた俺にとっては、それ以上でもないっていうのに! どうして、そうまで過干渉なんだ!」
「それは、ワタシがオマエの……」
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
それが何故なのかと問われれば、もはや言葉はひとつしかない。
ここが、砂漠だからだった。
人間などという有機物の思惑などに左右されない、砂漠という名の無慈悲な大自然の中なのだからだ。
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ジークとイノルの斬り合いが終局に向かいつつある中、それは突如として巻き起こった。
砂漠における最大の脅威のひとつ、砂嵐である。
砂嵐は時速一〇〇キロメートルを超える速度で接近することもあり、それに飲み込まれればひとたまりもない。圧倒的な風圧に加え、固くきめ細かな砂の粒子が混じっているため、人間が生身をむき出しにして浴びれば血飛沫を上げて死に絶える。仮に衛機に跨がり、その装甲で身を守ろうとも、分厚い壁が迫ってくるようなものであるからして助かる望みは薄い。
また、時速一〇〇キロメートル超の大型砂嵐ともなれば、時として衛機の機動力を持ってしても回避不能である。無論、進行方向と異なる方向へと避ければよいものの、砂嵐の発生範囲は点ではなく面であるため、気づいたときには既に避けることが不可能となっていることも少なくないのだ。
そして、その範囲内にイノルとジークの機体はあった。
――砂漠の寒暖差が作り出した烈風が、砂塵を巻き込んで巨大な壁を形成する。
「……砂、嵐? ……それも、この巨大さは!」
「こんな時に、何故なのさっ……!」
それは、砂漠が人間の都合など何一つ考えていはしないということの象徴である。そして、砂漠という大いなる力の前では、どんな人間の葛藤も抗争も無意味であるという証明でもあった。
日光の光を遮る砂の壁が出現したことにより、真昼の空は暗く陰る。ジリジリと衛機の装甲が焼ける音が響いていたというのに、いまでは砂がこすれ合う不気味な音が鳴り響くばかりだった。そして、コクピットハッチを閉鎖しているために今は気づけないが、おそらく外の空気は砂嵐の時特有の嫌な臭いが漂っているに違いない。また、空気もよどみ、生ぬるい風が肌にまとわりつくことだろう。
むしろ戦闘中でさえなければ、それらのことについて、容易に気づけていたはずなのだ。
いや、そもそもケイルヴァーンの仲間たちが、このことに気づけなかったはずがない――そのことに気づいたが、ジークとの戦闘に夢中になっている間、イノルは彼らとはぐれてしまっていたのである。また、無線通信を使おうにも、砂嵐の時は電波障害が酷い。試しに操作してみたものの、無線機は不快なノイズを発するばかりであった。
「オアシスから離れているにしても……平野部であるにしても、この大きさは尋常じゃないさね!」
唯一、非常に距離が近いジーク=サンスパイクとだけ、オープン回線が通じるだけである。
「こんな砂嵐、ワタシですら見たことがないさ! ……ましてや、巻き込まれたことなんてね!」
「教官殿! ご託はいいから、早く待避を!」
たとえ直前まで殺し合いをしていようとも、砂嵐が発生すれば一時休戦する――それが砂漠の鉄則である。
砂漠に住む誰もが、生物的生存本能からそうする。それは人間に限ったことではなく、砂漠に潜む大小様々な生物が、まるで示し合わせたかのように砂嵐から逃れようとするという。砂の中に潜れるものはより深く砂に潜り、それが出来ないものも岩場を見つけてはその影に隠れようとする。普段は砂漠カブトムシを補食するはずの砂漠トカゲも、このときばかりは共に岩場の影に隠れ、相手に手を出すことがないという。
それに倣ったわけではないが、イノル=ウィースキッドも当然のようにジーク=サンスパイクと休戦する。先ほどまでの激高ぶりがまるで嘘であるかのように心が凪いでいた。それこそ、何故、自分は先ほどまで争っていたのだろうかと、疑問に思えてくるほどである。
「いや、無理さ。……ここは、丁度、砂嵐の発生地点のまっただ中。逃げる場所など、ないさね」
「それなら、掩蔽壕を掘ればいい! 地面を掘って、そこにこもれば、生存可能だ!」
「これは観測されたことがないほどの規模……F6クラスほどもある、伝説レベルの大砂嵐だよ! 地下十数メートルまでの砂を巻き上げて、そのことごとくを吹き飛ばす! この短時間で掘る掩蔽壕なんかじゃ全然、足りんさ、イノル=ウィースキッド!」
「なら、どうすりゃいいっていうんだよ、ジーク=サンスパイク!」
「……こうするのさ、見ていなっ!」
漆黒の衛機は純白の衛機を押しのけるように一歩前へ出る。
――漆黒の衛機が翼を広げ、機体を制御する。
そして、先ほどそうして見せたように、巨大な翼を広げて見せた。
突風が吹きすさぶ中、それはまるで盾になるかのように、イノルの『シイバレル』の眼前に立つ。
「教官殿、何を……?」
「砂嵐に、ケンカを売るのさ。このワタシ、ジーク=サンスパイクは、ノイド砂漠じゃちょっとした伝説なのさね。……なら、同じく伝説級の砂嵐とどちらが強いか、タメしてみても良いのじゃないかね?」
「何を、馬鹿なことを……!」
「ワタシがこうしている今のうちに逃げるのだ、少年!」
無線機のスピーカが割れんばかりの大音声で、ジーク=サンスパイクが怒鳴る。
その言葉に、イノルは思わず身をすくませる。
「……何故、俺をかばうんだよ、アンタは」
「何故……。何故……か。それは、だな……」
その通信と同時、通信機越しに、コクピットハッチを開放する圧縮ガスの音が鼓膜を振るわせた。
状況がつかめないでいる間にも、イノルの『シイバレル』も同様の音を鳴り響かせる。
「……教官、どの?」
「こうして顔を合わせるのは久しいな、イノル」
解放されたコクピットの向こう側には長身の三十路女性、ジーク=サンスパイクの姿があった。
長髪が暴風になびき、顔を確認しづらくしていたが、間違いない。
イノル=ウィースキッドのよく知る教官殿の、昔と変わらない姿がそこにあった。
「何故と問うか、少年よ」
「……ああ、ああ、そうだとも! 何故、何故なんだよ、アンタは! ……何で、アンタは!」
そのとき彼女が浮かべた表情を、イノル=ウィースキッドは一生忘れられなかった。
それは今まで、ジーク=サンスパイクが一度たりともイノルに向けることがなかった表情だったのだからら
「何故なら、ワタシはオマエの……姉だからだよ、イノル」
「……えっ?」
「ワタシとオマエの妹……アーニによろしく」
言葉をなくしたイノルの手に、ジークは植木鉢に入った一輪の花を押しつける。
白い大輪の花――ダリアの花である。
「ジーク=サンスパイクの作り出した至高の衛機、『アミッドジーク』の真価、とくとご覧じろ!」
自分でも気づかないうちに閉鎖していたコクピットの中で、通信機越しに聞こえるジークの大音声を耳にする。
それが意識を失う前に聞いた、最後の言葉である。
それからしばらく先のことを、イノル=ウィースキッドは全く覚えていなかった。
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そして、イノル=ウィースキッドはケイルヴァーンを成功させた。
大砂嵐を越えてからは賞金稼ぎに遭遇することもなく、砂賊に襲われることもなかった。
それまでの葛藤がまるで嘘であったかのように、実に順調な旅路だったのである。
何故なら、それも砂漠だからである――。




