その4
その後、イチノ達は交渉の末に何とか回復薬(緑)を1本だけ売ることが出来た。想像以上の売値で。
イチノが持ち得る――というよりは、この回復薬が普通に流通していたゲーム中では最低価値の薬品だったのだが、どうもこの世界では違うらしい。
簡単に解説すると、この異世界――ハウヴンスク――にて一般に流通している傷薬は下級、中級、上級、特級と区分されているようで、イチノが売り払ったヒールポーション(緑)の効果は、この世界でいう上級傷薬と特級傷薬の中間に匹敵するそうだ。
その買取価格は1本緑銀貨24枚。店で取り扱う時はさらに値が上がっていることだろう。
この世界の貨幣は鋳貨、銅貨、銀貨、緑銀貨、小金貨、大金貨、白金貨の順に大別されており、鋳貨は日本円にして10円の価値と同等である考えて間違いなさそうだ。そこから10枚単位でひとつ上位の貨幣1枚と交換できるとの事だった。
緑銀貨を24枚持っているので、そのうち20枚分を小金貨2枚と交換できるのだが、1枚10万円にもなる貨幣を所持していたところで使い道に困りそうなのでやめておいた。
ちなみに、この貨幣は大陸内にある全ての国々が共通で取り扱っているらしい。
地球のように国によっていちいち通貨が異なる事はないようで、これにはイチノもニッコリである。
どっかのラノベのように同じ金貨にしても複数種類あるなんて事になれば、それぞれの貨幣の信用度やら何やら色々と勉強しなくてはならないところだった。
兎にも角にも、どうにか路銀を得ることが出来た。日本円にして約24万円、これだけあれば最低でも半月分の生活費は賄えるだろう。
「助かりました。本当にありがとうございます」
「はははっ。こちらとしては予想以上に大きな買い物となってしまいましたが、これもマーザ神のお導きでしょう。また困った事があればいつでもいらっしゃってください」
「これ以上お世話になるわけにはいきませんよ。次はちゃんとした客として、何か買わせていただきます」
「それは嬉しいですね」
出所を明かせない薬を無理して買ってもらったのだ。それも2人の事は深く詮索せずに。イチノとしては、それだけでこの店主に対して足を向けて寝られない思いだった。
イチノが押し付けた回復薬は恐らく売れないだろう。既存の傷薬のように世間一般から認知されている代物ではないのだから。
さらにいえば、店主の話では上級傷薬ですら購入する客は極稀だそうだ。それ以上の高値となる回復薬など、いったい誰が買うというのか。
ゴリ押しする側のイチノとしては5分の1の値段でも良かったのだが、そこは「本当に困っているお客様の足元を見るような真似は、いち商人としても私個人としても許容できませんので」と店主が頑なに譲らなかった。
全ては店主の厚意なのである。
「本当にありがとうございました」
「ありがとうございました」
「またのご来店をお待ちしております」
最後にネーヴェルと共に深く礼を述べたイチノは、軽やかな足取りで雑貨屋を後にしたのだった。
◆◆◆
遠くの地平に僅かな赤みを残し、空のほとんどが夜の闇に覆われた頃。
当面の路銀を手に入れたイチノとネーヴェルは、雑貨屋の店主から教えてもらった宿屋への道を歩いていた。
既に大半の人が帰宅済みなのだろう。電灯もなく、すっかり暗くなってしまった通りにはほとんど人がいない。家屋の窓から漏れる明かりと満天の星空だけが、2人の行く道を照らす光だった。
「いやぁ、親切な人でよかったよ」
「そうだね」
しみじみと呟くイチノの横顔を見つめるネーヴェルは微笑みながら頷いた。
「今度店を訪ねるときは、何かお礼になる物を持っていかないとな」
「いつか、店主さんにちゃんと恩返ししなきゃ、だね」
「だな!」
情けは人の為ならず。自分達を助けてくれた雑貨屋の店主に報いるために、2人は強い意志を持って頷き合うのだった。
そうこうしているうちに、いつの間にか店主からお薦めされた宿屋へ辿り着いたようだ。
見た目は鉄板というか、ファンタジー好きが真っ先に思い浮かべそうな木造の家屋である。小奇麗に纏まった作りをしており、第一印象は決して悪くない。寧ろ良好といえよう。
仮にも宿泊施設というだけあって、建物自体の大きさは周囲の人家よりも一回り大きく、庭には厩が用意されている。
この宿は雑貨屋店主の弟が経営しているらしく、自分の紹介だと言えば幾らか宿代を割り引いてくれるだろうとの事だった。
さて、異世界の宿のお値段は御幾らなのだろうか。
雑貨屋の店主の話では流石に最安値とまではいかないものの、質の良いサービスの割に値段が良心的だと評判らしい。
生まれて初めての異世界の宿屋に少しだけ緊張しつつ、イチノはネーヴェルを連れ立って扉を開けた。
既に暗い時刻にも関わらず、視界の先にある廊下は存外に明るい。玄関から見て右側には廊下に沿う形でカウンター、左側には二階に続く階段があった。正面のスイングドアの先は食堂になっているようだ。中から複数の人の話し声がする。
イチノ達が入店したことに気付いたのだろう。カウンターの内側に備え付けられたテーブルで何かしらの作業をしていた若い男性が顔を上げた。帳簿の計算でもしていたのだろう。
短く揃えた濃い茶髪に少しばかりの雀斑がチャームポイントと言えなくもない平凡な顔立ちの青年だ。歳は二十歳前後といったところか。
「いらっしゃ――うおっ!?」
「え?」
「?」
開幕早々驚かれ、イチノとネーヴェルは揃って顔を見合わせる。
イチノは自分の顔に何か付いているのかとペタペタ顔を触ってみるが異常なし。隣に佇むネーヴェルの顔もチェックするがこちらも異常なし。もしかして、何か憑いているのかと背後を確認してみるも異常なし。
そんな2人の様子を呆けた表情で眺めていた青年は、己の失態に気付き慌てて取り繕う。
「す、すまない。えらい美人さんが入ってきたもんで、吃驚しちまった……」
「あぁ、そういうことですか。どうぞお気になさらず」
申し訳なさそうに謝罪する青年に対し、軽く手を振って応えるイチノ。同じ男として、彼の気持ちは大いに理解できたようだ。
「改めて、いらっしゃい。ここには泊まりか? それとも食事?」
「泊まりです。雑貨屋の店主さんから紹介されて来ました。その、宿代を少しばかり安くしてもらえると聞いているんですが……」
「へぇ、伯父さんの紹介か。珍しいな……っと、泊まりだったな。本来なら一泊飯付きで一部屋銀貨1枚と銅貨3枚なんだが――」
「安っ!?」
日本円にして約1300円とか、ちょっとお高めのファミレス飯一食分と同等じゃねーかと、イチノは世界を超えたカルチャーショックに見舞われた。これも未発達な文明に起因する物価の低さが原因なのだろうか。
「そうか? まぁ確かに中堅どころの宿屋の中ではまだ安い方だとは思うが、そんなあからさまに安くしてるわけじゃないぞ?」
どうやら、話を聞く限りでは平均より気持ち安めといった程度らしい。採算はきちんと取れているのであろうか。いや、問題なく取れているのだろう。正直、どうでもいい。
少なくとも自分が気にする問題ではないとして、イチノはつまらない疑問を脳内から追い払った。
「他ならぬ伯父さんの紹介だ。あんたら、何かしら切羽詰まってるんだろ? 見たところ、手荷物もないようだしな。だから、特別に一泊に付き一部屋銀貨1枚にしといてやるが、どうする?」
青年はイチノとネーヴェルを交互に見つめる。同室にするか別室にするのか知りたいのだろう。
お金にそこまでの余裕はないが、見た目若い男女が同衾など言語道断――というのは詭弁で、イチノからすれば、ここでネーヴェルと同室になってしまったら色々な意味で精神的に追い詰められることは確実である。
宿屋に泊れる目星が付いた時から、断固として二部屋だと決めていたイチノは迷わず口を開く。
「とりあえず「一部屋」で10日分お願いします――はぁ?」
二部屋、と言った部分が何故か一部屋という声に上書きされてしまった。犯人は言わずもがな、ネーヴェルである。
まさかこのタイミングで口を挟まれるなど夢にも思っていなかったイチノは、思わず唖然とした表情を晒した。それこそ、今の彼をインターネットに親しんだ現代日本人が見れば、顔文字の( ゜д゜)ポカーンを連想していたことだろう。
宿屋の青年はネーヴェルに視線を合わせ、さっさと話を進めていく。
「あいよ。前払いで銀貨10枚、もしくは緑銀貨1枚だ。お前さん達の名前は?」
「イチノとネーヴェル。はい、お金」
「――イチノにネーヴェルね、よし」
さらさらと台帳に2人の名前を書き込んだ青年はカウンターに置かれた緑銀貨を受け取る。
「ほい、確かに。部屋は目の前の階段を上って右側、一番奥を使ってくれ。一応、部屋に鍵は付いてるが、貴重品は自己責任で管理してくれな。紛失してもこっちは責任取れねぇから、そこんとこよろしく」
「ん、わかった」
事前に緑銀貨を半分ほどネーヴェルに渡していたのは失敗だったかもしれない。
彼女はイチノに反論する隙すら与えず、さっさと契約を完了してしまった。宿屋の青年も商売人らしからぬニヤニヤとした笑みを浮かべながら悪乗りするものだから性質が悪い。
「えっちょっ!?」
「食事は朝晩の2回。出掛ける際は、事前に言ってくれれば弁当も用意してやるぜ。別料金として鋳貨5枚貰うがな。それとウチには小さいが温泉も湧いてる。銅貨1枚貰うことになるが、入りたかったら声を掛けてくれ」
なんと、この宿には温泉もあるらしい。中世ファンタジーのお約束よろしく、身体を綺麗にする術は水に濡らした布で身体を拭くくらいしかないのではと覚悟していただけに、これは嬉しい誤算だ。
いや、今はそんな事を言っている場合ではない。
「あの、一部屋じゃなくて二部屋がいい――」
「お金の余裕ないのに我が儘言っちゃダメ。厚意に甘え過ぎるのは良くないよ?」
「ぐっ……!」
ネーヴェルの紛うことなき正論に言葉を詰まらせるイチノ。しかし、2人とも見た目は年頃の男女なのだ。貞操の問題は棚上げできるほど軽くないだろう。
「で、でも仮にも若い男と女が一緒の部屋なんて――」
「私は平気」
「俺は平気じゃないんですが!?」
「もう契約しちゃったから何言っても無駄。イチノ様は私と一緒の部屋に泊まるの。これは決定事項だよ」
表情筋は一切動いていないにも関わらず、有無を言わせない空気を纏ったネーヴェルの覇気に気圧されたイチノは宿屋の青年に視線で助けを請うものの、
「相方がこう言ってるんだし、諦めたらどうだ? 女が腹括ってるのに、男のお前さんがいつまでも女々しく喚いてるのは格好悪いと思うぞ」
「……ちくしょう」
ぐうの音も出ないとはまさにこの事か。退路を完全に断たれたイチノは観念したように力無く項垂れた。
彼の横には、2人の男に気付かれないように注意を払いつつ、唇の端をそっと吊り上げたネーヴェルがいた。