その3
日が傾き、夕暮れまであと少しといった時刻だろうか。
無事に大きな都市を見つけたイチノとネーヴェルは、都市から大分離れた位置にある小高い丘の上の木陰に座り込んでいた。
都市は目の前にも関わらず、何故にこんな場所で足を休めているのかというと――
「門が検問所を兼ねてるみたい……都市に入る人間は懐から木の板みたいな物を兵士に見せてる。持ってない人は……あの感じだとお金を支払ってるのかな? 都市から出る人には特に何もないみたいだよ」
高いところにある木の枝に座り、目測で4キロメートル程先だと思われる都市入口を観察するネーヴェル。
異常な視力だ。ステータス的にはそこまで大差ないはずのイチノでも、あそこまで距離の離れた人間の様子を細かく視ることは不可能である。
「うーん、参ったな。まさか都市に入るのに税金を取られようとは……」
高さにして大体7~8メートル程度だと思われる都市の外壁を憎々しげに見つめながら、心底弱ったように呻くイチノ。
遠目に見た感じ、文明は馴染みのオンラインARPGの世界観と同じく中世ヨーロッパ風らしい。
しかし、ゲーム内のどの都市においても『双頭の獅子』を模した旗など見た事が無かった。
まさかとは思いつつも、イチノは木の枝に腰掛けているネーヴェルに尋ねる。
「ネーヴェルさん、質問です。貴方の生まれた世界の名前は何ですか?」
「リザールシア」
リザールシア。イチノとネーヴェルというキャラクターが存在していた、架空の世界の名前である。
「続けて質問です。あの双頭の獅子を模した旗に見覚えはありますか?」
「……ない」
「では、最後の質問です。今、俺達が立っているこの世界はリザールシアの大地だと思いますか?」
「……」
答えはない。
生粋のリザールシア住民である彼女が言葉に詰まるという事は、つまりはそういう事なのだろう。表情に変化はほとんどないように見えるが、僅かに困惑したような雰囲気を纏っている。
これはさっさと『自分達はゲームの世界に召喚された』という考えを捨てるべきかもしれない。
「さてさて、どうしたものか。俺はてっきり、ここは例のネトゲの世界だとばかり思ってたんだけど」
どこか疲れたように呟くイチノは胡坐を解いて足を地面に投げ出した。
「ここにきて、全く知らない異世界に飛ばされた可能性が浮上してくるとかないわぁ。ていうか、これじゃゲームの金持ってたところで結局は無一文だったってことじゃんよ」
彼らのいた年代とは別のリザールシアの大地という可能性も有り得そうなものだが、イチノはそこまで考えが及んでいないようだ。所詮、彼のラノベ脳などその程度である。
「そうなると、猶更あの都市に入りたいところだよなぁ……」
困ったように眉を顰めるイチノだが、今の彼に都市入りを諦めるという選択肢はない。
一応、異次元ポケットには野営用の各種備品が揃っているし、食糧も少しは余裕があるのだが、飲料水が問題なのだ。
ゲームの仕様上、喉が渇くといった生理現象は実装されていなかったが故、水の類は一切所持していないのである。
いざとなれば回復薬の類で喉の渇きを癒すつもりではいるが、何が起こるか分からないこの異世界で、貴重な持参品を無為に消費する真似は避けたかった。
ついでに、この世界に対する情報も入手したい。
イチノは何とかして都市に入る方法はないものかと頭を捻らせる。そこへ――
「……外壁からこっそり忍び込むのは?」
「えっ」
今まで黙っていたネーヴェルがとんでもない事を言い出した。
「私やイチノ様の身体能力なら、あの程度の外壁を飛び越えるのは簡単だよ? 外壁の上を巡回してる兵士も少ないし、日が沈みかけた時を狙ってインビジブルカーテンで姿を隠せば、ほぼ確実に都市へ入れると思うけど」
臆面もなく言い切るネーヴェルに対し、目を瞬かせるイチノ。平和ボケした生粋の日本人である彼からすれば、ネーヴェルの提案は非常に斬新といえるだろう。まさしく『その発想はなかった』といえる心境だ。
インビジブルカーテンとは、自分や仲間を視覚的に透明する支援系の魔法である。主に視覚を頼りに索敵するモンスターに対して、無駄な戦闘を避けたい場合に使用する魔法だ。
幸い、イチノの主装備は分類的に大杖であり、魔法を使うのに最も適した武器であった。当然、インビジブルカーテンも使用可能である……ハズだ。
「いや、駄目だ! そんなあからさまな犯罪行為に手を染めるわけには――」
「でも、このままだと何時まで経っても都市に入れないよ?」
「……」
「大丈夫。万が一衛兵にバレたとしても、私がイチノ様を守ってあげるから。それに――」
黙り込むイチノの傍に降り立ったネーヴェルはその背後に回り込むと、そっと背中から抱き締める。
芸術的なまでに整った桜色の唇をイチノの耳元に寄せて、優しく息を吹きかけるように甘く囁いた。
「私、知ってるよ? こういうのは"バレなきゃ犯罪じゃない"んでしょう……?」
これぞ悪魔の囁きとしか言いようがない。
「……そんな台詞、どこで覚えてきたの?」
「街中。誰かと大声で会話してた人が言ってたの」
「あぁ、【/shout】ね……雑談サーバーに出入りしてた時に覚えたのか……」
背中に遠慮なく押し付けられる柔らかな弾力を極力意識しないように心掛けつつ、イチノは思い悩む。
とりあえず、答えを出す前に己が本当に魔法を使えるのか、試してみることにした。
大杖を背中から抜き、正面に構え、ゲーム内のキャラクターが取っていた詠唱のポーズを真似てみる。
すると、どうだろう。頭の中に魔法を詠唱する手順が明確に浮かび上がってきたのだ。
いや、この表現は正しくない。より正確に表すなら、以前に学んだものの、すっかり忘却していた手順を思い出した感覚に近いといえる。
「これなら――」
手元の杖に意識を集中し、使用したい魔法をイメージする。そうすれば、杖の方が勝手に身体の内にあるMP……否、魔力を手繰り、望みの魔法を使えるように環境を整えてくれるようだ。
己の感覚が確かであれば、わざわざ言葉に出す必要はないのだが、イチノは念のために敢えて言葉に乗せて言った。
「インビジブルカーテン」
その瞬間、杖の先端から目には見えない魔力の波紋が広がった。それは瞬く間にイチノとネーヴェルの身体を包み込み、まるで最初からいなかったかのようにその姿を大地から消し去った。
しかし、同じ魔法の効果を得ている者同士では、半透明という形で相手の姿が見えるらしい。このへんはゲームの仕様と変わらないようだ。
イチノはすぐに自分の隣に立つネーヴェルの姿を視認することができた。
「うおお……自分でやった事ながら信じられん。俺、マジで魔法が使えるんだな……」
透明になったイチノは感動したように呟く。
「さて、問題は効果時間だな。リアルだと5分、ゲーム内時間で3時間は持つ仕様だったけど……果たしてどっちが適用されるのやら」
正直、5分では話にならない。最低でも30分はもってほしいところだが。
「ネウさん、インビジブルカーテンの効果時間を知りたいから、しばらくこのまま待機ね」
「ん、わかった」
イチノは樹木を背凭れにして、胡坐をかいて地べたに座り込む。
その隣に遠慮なく腰掛けるネーヴェルだったが、何を思ったのかイチノの膝を枕にして寝そべり始めた。これも彼に対する信頼の現れなのだろう。
ネーヴェルの行動に唖然とするイチノだったが、咎める気は毛頭ない。己の膝に乗る確かな重みが、心に安寧を齎してくれるので。
◆◆◆
それから4時間と少し。
インビジブルカーテンの効果時間がきっかり3時間であることを確認したイチノ達は、丁度夕暮れ時ということもあって、外壁から都市への侵入を果たしていた。
ちなみに、時間は脳内MENU画面から確認済みである。
誰かに見咎められる事もなく、外壁から都市内部へ一気に降り立ったイチノは安堵の息を吐く。
地球においても特別な訓練を受けた人間なら問題ないであろう高さの壁であるが、やはり飛び降りる時は怖かった。幾ら身体能力がレベル相応に上昇しているとはいえ、元の世界の常識からすれば普通に死ぬ場合も有り得るので。
「やれやれ、何とかなったか」
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
明確な犯罪行為を経て未だに動悸が収まらないイチノに対し、平然とした態度のネーヴェル。どうやら肝っ玉が違うらしい。
「さて、まずはお金だな。薬を扱っている店を探さないと」
「ん」
異次元ポケットに眠っている適当な回復薬を売り払うべく、イチノ達は奔走する。
無一文ではベッドで眠ることすら出来やしない。現代日本ならいざ知らず、こんな治安もへったくれもない異世界で野宿など御免被りたいところだ。うら若き乙女であるネーヴェルもいるので。
2人は迅速に外壁の傍から離れ、それなりに人が多い大通りへ出る。偶々通りがかった男性に薬を扱っている店の場所を聞き出し、閉店してしまう可能性も考慮して足早に向かった。
通行人の話によれば、薬は基本的に雑貨屋で扱っているとのことだった。日本でいう薬局などはないらしい。
「ここがあの男の言っていたハウスね!」
「ん!」
なんとか雑貨屋を見つけた2人は鼻息も荒く、店の扉を睨み付ける。色々と追い詰められているせいか、何やらテンションがおかしい事になっているが構いやしない。
どうやら店はまだ営業しているようだ。イチノ達は互いに顔を見合わせると、決意を秘めた瞳で頷いた。
「ごめんくださーい!」
「たのもー」
勢いよく店内へ突入した2人を人の良さそうな顔をした中年の男性が迎え入れる。まず間違いなく店主であろう。
「いらっしゃい。何をお求めですか?」
「えーとですね……」
イチノは素早く店内を見回し、薬品類が置かれている思しき棚を見つける。陳列されている品々はファンタジーの定番であるフラスコ風の容器に液体が満たされた物から、瓶詰された軟膏っぽい物まで様々であった。
どうやら、元の世界のように堅実な医薬品しか存在しないというわけではないらしい。イチノはホッと胸を撫で下ろした。
「薬を売りたいのですが!」
「ですが!」
2人の要求を聞いた男性は、驚いたように少しばかり目を見開いた。
「薬の売却ですか? それは構いませんが……」
「――? どうかされました?」
「いえその、御二方は旅をされているとお見受けしましたもので。医薬品を手放してしまってもよろしいのかと……」
いつどこで不慮の事態に見舞われるとも限らない旅人にとって、医薬品はまさしく命綱である――というのが、この世界における常識らしい。
僅かに困惑したように話す男性に対し、イチノは至極真っ当な疑問だと納得したうえで堂々と言い放った。
「お金がないんです。背に腹は代えられないんです! 助けてください!」
「あっ左様ですか――わかりました。薬品を見せていただけますか?」
恥も外聞もないイチノの言い様に、男性は憐憫の情を秘めた優しい表情を浮かべた。文字通り、可哀想な子を見る目である。
思わず泣きたくなるような何かがちくりと心に突き刺さった気がしたが、恐らく気のせいであろう。いや、きっと気のせいに違いない。
イチノは素直に異次元ポケットから薬品を取り出した。
店内の薬品棚を見る限り、一応は高価な薬も扱っているらしい。値札に書かれた数字の変動具合から察した程度だが。
そこでイチノは回復量こそ少ないが、傷を癒すだけでなく体力と魔力も纏めて回復させることが出来る希少薬(薄緑)を売ることにした。
決して安くはないが、そこまで馬鹿高いというわけでもない。
調合に必要な材料も簡単に集まるので作りやすいし、他人に譲るには丁度いい薬品だ。希少薬シリーズの中では一番安価な代物である。
それを5本ほどカウンターに置いていく。
「あ、あの、お客様……」
「はい、何でしょうか?」
目を剥く男性の様子に首を傾げるイチノだったが、その表情はすぐに強張ることになる。
「今、どうやって……いえ、どこから薬品を出されたのですか?」
「…………勿論、懐からですよ?」
しまったと内心で己の迂闊さに毒づいたイチノは、男性から目を逸らしつつ小さな声で呟いた。
返答するまでに大分間が空いてしまったのは、この場合は仕方のないことであろう。
「えっでも今確かに虚空から――」
「これを売りたいのですが!」
「……拝見させていただきます」
渋々といった様子でテーブルの引き出しからルーペらしき物を取り出した男性は、希少薬を手に取るとルーペを翳してマジマジと観察を始めた。
大人しく引いてくれた男性に感謝しつつ、次からは安易に異次元ポケットを使用しないように心掛けるイチノであった。
一方の男性といえば、人の体内に入る物だからだろう、先程までの穏やかな雰囲気とは打って変わって真剣な目付きで希少薬を調べていたが、しばらくするとその顔が目に見えて青白くなっていった。
「大変申し訳ありませんが、当店でこの薬を買い取ることはできません……」
震える手で希少薬の瓶を置いた男性は、深々と頭を下げた。
「えっ!? な、何故でしょう? 品質をお疑いでしたら、試しにお使い頂いても結構ですよ?」
「いえ、品質は大変素晴らしいものでした。寧ろ、素晴らし過ぎて恐ろしいほどです……」
納得がいかないイチノは食い下がるが、男性は力無く首を横に振るばかり。
「傷を癒す効能だけでも上級傷薬を上回っているというのに、それに加えて失われた体力と魔力まで回復させるとは……王都の魔術大学に展示品として飾られても可笑しくない一品です。これほどの薬をいったいどうやって入手されたのですか?」
「……」
イチノの顔色がサッと青くなる。
たかが薬ひとつになんて大袈裟なのだろうと思わずにはいられなかった。
「えっと、それは……店主さんの反応を見るに、ここで素直に答えてしまうと後々とんでもない事態に発展しそうなので、明言は控えさせてもらいたいのですが……」
これは正直、予想外の展開だ。この状況で、目の前の薬は"ネーヴェルが自作"したものだと暴露したら、いったいどうなってしまうのだろう。
とてもではないが、気軽に教えられる雰囲気ではない。
だがしかし、イチノ達は男性に慈悲を請う側である。ここで彼の心情を悪くしてしまっては元も子もないのだ。
イチノは男性の眼を真っ直ぐに見据えた。
「ただ、これだけははっきりと断言させていただきます。この薬品は正当な方法で入手した物です。決して不法な手段を用いて手に入れたわけではありません」
「……信じましょう。ですが、流石にこれを買い取ることは無理です。どれだけの値を付ければいいのか全く判断が付きませんので」
「そうですか……」
肩を落としつつ、カウンターに置かれた希少薬を回収していくイチノ。一応は服の袖に入れるという形で誤魔化している。こういう時、和服独特の大きな袖は便利といえた。