その17
とある山林の中腹。人間に樹木を伐採された結果、生まれたらしい空白地帯。そこは、一言で表すならば、地獄と化していた。
夥しい数の魔物の死骸が乱雑に積み重なり、赤く染まった大地。その中央にネーヴェルは立っていた。
新雪の如き純白の長髪を風に靡かせる姿は、絵画の世界から飛び出してきたのかと夢想させる程に、総毛立つような美しさを誇っている。
それはまるで、無数の屍の中に佇む天使のようだった。天使など、彼女にとっては"皮肉"にしかならないが。
だが、凄惨な殺し合いの場にて、ネーヴェルは一滴の返り血すら浴びていない。それがまた、彼女が絶対不可侵の存在であるかの如く、その容姿を際立たせている。
ネーヴェルは長槍を大胆に振り払い、刃に付着した血糊を吹き飛ばした。
血臭凄まじく、危機を悟った野生の動物達は残らず姿を消しているらしい。今、この場にいるのは彼女のみ――否、ネーヴェルの他にもう1人……いや、1匹残っている。
それは、オークだ。まるで全身を他者の血で塗りたくったような、禍々しい赤い肌を持つオークである。
ただし、その見るからに強者然としたオークは、両腕を根元から失い、地面に膝を付いて、ただただ呆然としていた。
この赤いオークは、オークの中でも希少な種族である、ブラッドオークと呼ばれる魔物だ。群れを形成している場合は、ジェネラルオークとも呼称される。
その強さは、数多くいる魔物の中でも上から数えた方が早い部類であり、並大抵の傭兵ではまるで歯が立たない程度には凶暴な個体である。
そのオークが。これまで、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程に多くの敵の血を啜ってきたブラッドオークが、敵を眼前に放心している。
これがどれだけ異常な事か。
血の気の多いオークの中でも、飛び抜けて気性が激しいブラッドオークは、闘争の中で自らの命が断たれる瞬間ですら、最後まで敵に吼えたて、牙を剥くことで有名だ。
彼は、自らの戦闘力に絶対の自信を持っていた。それは彼を送り出した同胞達も認めるところであり、事実、彼が所属する集落の長であるオークキングは、彼を含めた集落に属する3体のブラッドオークの中でも、彼こそが最も強いと判断していた。
彼は元々流れ者だったが故に、多くの敵と相対し、その悉くを打ち倒してきた歴戦の強者であったのも大きい。
このブラッドオークは、実質、集落の中でもナンバー2の実力者であった。
それが、この様である。
彼の心を容赦無くへし折った張本人であるネーヴェルは、そんなブラッドオークに興味の欠片も抱いていない。
彼女にとって、オーク達との闘いは……いや、一方的な虐殺は、文字通りただの作業でしかなかった。
今のネーヴェルの胸中を占めるのは、イチノの安否のみである。
ネーヴェルは、この世界に召喚されてから、イチノの様子に"違和感"を覚えていた。
より正確に述べるなら、今までずっと感じていた、これまでイチノを覆っていた薄い膜のような『隔たり』が無くなったことに対して、違和感を覚えているのだ。
イチノの性格に対してもそうだ。召喚される前の記憶はおぼろげにしか思い出せないが、少なくとも、以前の彼は戦闘行為に対して、あそこまで消極的ではなかった。
それが、今では取るに足らない魔物にすら怯える始末だ。
別に、今のイチノに不満を抱いているとか、そういう話ではない。寧ろ、イチノの性格に対しては、今までずっと知覚できなかった部分のピースが填まっていくような、今の彼こそが本当の姿なのだと直観でき、それが嬉しいくらいである。
だからこそ、ネーヴェルは不安だった。
今のイチノからは、吹けば飛んでしまうような儚さを感じる。
格上の強敵や難敵に対し、死を恐れず果敢に挑んでいたあの頃とは違う。精神の根っこにある、人間らしい弱さが露呈してしまっているというべきだろうか。
か弱い蝋燭の炎のように、自分が傍で守らなければ、簡単にこの世から消えてしまう――そんな恐怖が常に頭の隅に張り付いて剥がれない。
イチノが自分を置いていなくなってしまうなど、ネーヴェルは考えたくもなかった。彼がいなくなってしまった世界に、自分がいる意味などない。
ネーヴェルは嫌な思考を振り払うように、槍を手元で旋回させる。
そして、放心したまま微動だにしないブラッドオークの首を躊躇いなく刎ねた。
「早く戻らないと……あっ」
斃れ逝くブラッドオークなど視界の端にも入れず、足早に踵を返したネーヴェルは、そこではたと気付いたように足を止めた。
「それなりに大物みたいだし、一応、首は持って帰った方がいいのかな……?」
ゴミ掃除を終えたネーヴェルは、そこで初めてオークに対し、意識の矛先を向けた。
イチノから事前に教えてもらっていたので、討伐証明となる首飾りはオーク達を屠ったついでに全て回収してあるが、大物を斃した証明となれば、それだけでは不足するかもしれない。
ネーヴェルはブラッドオークの首に手を伸ばそうとするが、しかし、地面に転がる生首を見つめ、僅かに眉を顰める。
「……触りたくない」
伸ばしかけた手を引っ込める代わりに、ネーヴェルは槍を前に突き出すようにして目を閉じた。
「サモンサーヴァント。コール、『レヴィアータ』」
彼女がそう告げると、突如として前方に光り輝く魔法陣が展開された。
青白く発光していた魔法陣は一瞬で赤黒く染まり、同様の燐光が魔法陣の真上に収束していく。
そして、数秒の時間を置いて、1人の人間――に酷似した"何者"かが現れた。
「マスターの求めに応じ、レヴィアータ、ここに参上致しました。どうぞ、何なりとご命令を」
薄紫色の髪に、ネーヴェルより少し鈍い銀色の瞳、白い肌――恐ろしく整った容姿を持つ、絶世の美女だ。
外見のみで判断するなら、ネーヴェルより少し年上に見える。ギリギリ少女と呼んでも差支えないであろう、己をレヴィアータと呼んだ女性は、一分の隙も無い丁寧な仕草で腰を折った。
彼女の服装は、所謂ヴィクトリアンメイドと呼ばれるメイド服であり、厳かな品位とそれに伴う清楚な雰囲気を感じさせる。
レヴィアータの完璧な礼に対し、満足気に頷くネーヴェル。早速、命令を申付けようとしたところへ、それより先にレヴィアータが口を開いた。
「おや……? グランドマスターのお姿が見えないとは珍しい。御方はいずこへ?」
「イチノ様はあっち。これから戻るところ。というわけで、レヴィはその頭を運んで」
「畏まりました」
何が『というわけで』なのかは、甚だ理解できないレヴィであったが、下された命令に疑問を持つことはない。
恙なく、ポケットから取り出した大きめの布にブラッドオークの頭を包むと、肘からバスケットを下げるようにオークの頭を運搬する。
「……あっ」
「――? 如何なされました?」
「……ううん、なんでもない。行こう」
「はっ。仰せのままに」
ネーヴェルはいざイチノの元へ戻ろうとした段階で、彼と別れる前にレヴィアータか別のサーヴァントを護衛に残しておけば、無用な不安に駆られる事もなかったと悟ったのだが、今更の事なので深くは考えないようにした。それよりも、今は早くイチノの元へ帰り着きたい。
あの程度の木端な雑魚にイチノをどうにかできるとは露程も思わないが、アッシュとクラウスという不確定要素が、どういう結果を齎すのかまでは想像がつかない。
そこまで思考が及んだ瞬間、猛烈な焦燥がネーヴェルの胸を焼き焦がす。
「……急ぐよ」
「承知致しました」
短いやり取りを残し、2人は山中の悪路を目にも留まらぬ速さで疾走した。
◆◆◆
青い肌のオークが1体。緑色の肌のオークが2体。
物言わぬ屍となって、大地に伏している。
錆び付いた鉄のような血の臭いと、肉が焼け焦げた異臭が充満し、辺りは酷い様相を呈していた。
「マジで……オークを殺ったのか……? 俺達が――」
「そうだよ。オークを斃した瞬間、得体の知れない何かが身体の中に入ってきて、力が湧き上がるのを感じた。お爺ちゃんが言っていたとおりだ……」
オークといえば、その知能と生命力の高さも然ることながら、普通の人間では及びもつかない恵まれた体格と膂力が厄介な魔物であり、さらには徒党を組むという性質上、新米から中堅傭兵達にとっては天敵のような扱いを受けている。
傭兵社会にとっては、通常個体のオークを単独で仕留めることができれば、周囲から一目置かれる存在として遇される程の強敵なのだ。
そんな魔物を、まだまともに武器すら扱えない少年達が斃す――喜劇としか表現のしようがないが、それを成せたのはイチノがいたおかげであることは言うまでもない。
そして、格上の魔物を斃したことで、少年達はどうやらレベルアップを果たしたらしい。
直接『調べた』わけではないが、先程までの"武器に振り回されていた姿"とは打って変わって、アッシュが大剣を軽々と振るっていることから、ほぼ間違いないと思われる。
クラウスが呟いた言葉からして、レベルという概念は認知されていないにしても、魔物を斃すことで自身の力が向上する事実は知られているようだ。
「すげぇ……あんなに重かった大剣が、めっちゃ軽く感じるぞ……」
「僕もだよ。弦を引く事さえ儘ならなかったのが、こんなにも簡単に……」
「今なら、さっきの青いオークにだって正面から勝てそうな気がするぜ!」
「そうかな……いや、そうかもしれない……!」
2人の少年達は、未だに自分の能力が上がった事実が信じ難いらしく、興奮に震えている。
イチノは、その様子をみて、少しばかり嫌な予感を覚えた。
このままでは、興奮から冷めた2人が自分の力に酔って、どこまでも"調子に乗ってしまいそうな"気がしたのだ。
しかし、それを指摘することはない。イチノが注意するまでもなく、傭兵登録時の試験で、増長した彼らは試験官に叩き潰されることだろう。そして、改めて、上には上がいることを知るのだ。
別の選択肢として、試験官に頼るまでもなく、イチノがこの場で彼らの自信を粉砕するという手もあったのだが、面倒臭かったので、結局それを実行することはしなかった。そこまでしてやる義理もない。
何より、ステータスこそ飛び抜けているとはいえ、実戦経験の無さでいえば、イチノも彼らと五十歩百歩である。そこまで厚顔にはなれなかった。
己の戦果に沸き立つ少年達を余所に、イチノはオークの死体に近付き、動物の骨で作られたと思しき首飾りを剥ぎ取っていく。
これはオークを討伐したと証明するものであり、これを斡旋所に提出すれば、その魔物のランクに応じた報奨金が貰えるのだ。
とはいえ、実績のない新人が大物を仕留めたと言っても、証明品が首飾りだけでは信用されない可能性がある。イチノは、青いオークだけは首飾りを含めた目ぼしい装飾品の他に、アッシュが切り落とした首も異次元ポケットへ回収した。
生首を所持するというのは大層気分が悪いが、それをいえば、ポケット内で未だに枠を潰している『兎頭の死骸』があるので、今更だろう。
オーク達から粗方の戦利品を入手し終えた頃合いになって、急速に近付いてくる気配を察知する。反応からしてネーヴェルであると確信したイチノは、数が一人増えていることに疑問を抱いた。
「イチノ様、ただいま」
「おかえり、ネウさん」
帰還したネーヴェルに軽く微笑んだ後、その視線を彼女の隣で瀟洒に佇む女性に向ける。
「……それと、君はもしかしなくてもレヴィアータか?」
「はい。お久しゅうございます、グランドマスター」
左右の手で軽くスカートの裾を摘み、恭しく頭を下げるレヴィアータ。
3DCGではない、生のレヴィアータを目にしたイチノが内心で感動したのも束の間、彼女の姿を目にしたアッシュが騒ぎ出す。
「ちょっおい、なんかメッチャ美人な姉ちゃんが増えてるぞ!?」
「うん? ああ……」
単独でオークを迎撃に向かったネーヴェルが、これまた見目麗しい女性を連れて帰ってきた。彼が興奮するのも無理はない。
見れば、クラウスも興味津々な様子でレヴィアータを見つめている。
しかし、レヴィアータがネーヴェルの『サモンサーヴァント』のスキルによって召喚された従属魔だと説明するのは、少々面倒である。そもそも、説明する必要もないか。
ならばと、イチノはストレートに己の意思を示すことにした。
「悪いけど、彼女関して詮索はしないでくれないか?」
「お? おう……」
明確な拒絶の姿勢に、アッシュもそれ以上の言葉を続けられなくなる。
冷たいかもしれないが、元々今日出会ったばかりの他人だ。そこは諦めてもらうしかない。
「グランドマスター、どうぞこれを」
「ん? なにこれ?」
「オークの首でございます」
「……」
レヴィアータから差し出されたブラッドオークの生首を受け取り、無言のまま異次元ポケットへ仕舞う。
ポケット内がなんとも血生臭くなってきた気がして、イチノは渋い顔をする。
何にせよ、ネーヴェルは無事に帰ってきたし、依頼も恙なく達成した。この場所に留まる理由はない。
さっさと帰って、宿の風呂にでも入ろう。イチノはそう考えながら、皆を引き連れて帰途についた。