涙
気付いたら目の前に大きな木がある。
まばたきを何度かして、その大きな木に見覚えがあることに気付いた。
ここは手帳の世界だ。何度か訪れたこの手帳の世界……それほど回数は多くないけれど、場所はいつも違っていた……でも、今回は前回と同じ場所。
同じ場所ということは、恐らく前回の彼がいるのだろう。ここにいる彼には、わたしの姿が見えて、声も聞こえる。前回は今までの設定と違っていてビックリしたけど、今回は大丈夫! この場所の彼は、わたしを認識する。……はずだ。でも、もし認識されてなくて、そのつもりで一人で喋っちゃったら恥ずかしい。
あの人も来てくれると助かるのに……。登場人物の書き分け上手くなったのかな? …………そういえば、この手帳の世界のお話は地の文の練習がテーマだった気がする。う~ん。まぁ、なるようになれ! かな。
足元を見るとわたしは木の陰に入っている。えっと、太陽は東から昇って西に沈む……でいいよね。影がこっちに来てるから……方角は……? そのまえに、あの太陽は昇りはじめなのか、沈み始めなのかわからない!?
なんだか無駄なことを考えていた気がする。
とりあえず、彼を探そう。前回と同じ場所なら、それほど広い空間じゃないし。
可能性が高い場所は建物の中だと思う。振り返って大きな木を背にすると、その建物は少し離れたところに見える。
大きな木が作る影の道を歩いて建物へ近づく。
建物……階段の上にある賽銭箱……その向こうの戸は開いている。
大きな木が作る影の道が終わり、わたしは、自分の影を足元にしっかりと見た。
「こんにちは」
足元から視線を正面に移すと、わたしの目に彼の姿が映った。
「こんにちは」
笑顔で挨拶を返しながらわたしは思う。やっぱり、彼はわたしを認識している。早めに確認できてよかった! やっぱり、挨拶は大切だね!!
「……どうぞこちらへ」
彼は笑顔を返しながら、手で進む先を促す。その笑顔にわたしは、どことなく、かなしさを感じた。
少し速足で歩き、階段を上る。
「あの太陽は昇ってるのかな?」
「沈んでますよ……」
「そうなんだ。じゃあ、あっちが……西?」
「そうなりますね……」
大きな木の陰を見るわたしを、彼が見ている。
「どうかしたの?」
「いえ、なんとなく、気のせいかもしれないですけど、なんだか心配してくれている感じがしたので」
「どことなくなんだけど、君の笑顔が、かなしそうだったから」
わたしは思っていたことを口にしてみた。
「そうでしたか……ありがとう」
そう言うと、改めて建物の中へわたしを案内する仕草をした。
「お邪魔します」
靴を脱いで上がり込む。足の裏に畳の感触を感じる。思ったより中は明るい。
「光がよく入るようにしてみました。前回は、暗さもあって不安を感じさせてしまったかな……と思いまして」
前回は、彼に警戒心を抱いたのは確かだった。けれど、今回は特にそれは感じていない。彼もあの人であることに変わりはないのだから。
「本当だ! 中が明るいね!! ……あ、本を読んでたんだ」
「はい。あの魔術師のいう”あの頃”という時期が一番本を読んでいたのかな。もっとも、今読んでいる内容は”あの頃”知らなかったことですが」
彼も中に入り、座布団を持って来ながら応えてくれた。
「あの頃知らなかったこと?」
「そう、あの頃知らなかった知識」
「知識……」
用意してくれた座布団にわたしは座った。
「あの頃の症状……。調べてみてそれっぽい、あてはまりそうなのがありました。解離性障害、離人症……。そんな状態なので、心の病の有名所も併発していたのかもしれない」
「君は大丈夫になってるの?」
「さて? どうでしょう。少なくとも、紡ぎ手は大丈夫です。治るというより、その状態を自分の力にしてしまいましたので」
ということは……紡ぎ手次第。
「とりあえず、君も座ろうよ」
少し離れて置いてある座布団に彼は座った。あの人なら絶対座布団を並べて置いたはず。……と、あの人を頭に浮かべてしまう。
「離人症について調べてみると、これはあった……というのもあるけど、これはなかったな……というのもある。症状が季節によって変動するという感じもなかったし……。一番最悪な状態だったのは二十歳ごろかな」
「そのころ何かあったとか?」
「理由として一番大きいのは、疲れ果てたという感じかな。自分のふりをして四年目くらいだし……。ただただ一人で、ぼやけた記憶や思い出を頼りに自分のふりをする毎日。体の感覚もズレを感じるし力も上手く入らない。自分は壊れてしまったけど、現実は変わらずにある……寝ても覚めてもそんな毎日……」
「二十歳ごろで四年目……十六歳ごろからだね」
十六歳の彼……というよりあの人を思い浮かべてしまう。同じ人なんだけど……。どんな感じだったのかな……。
「そうだね。高校の夏休みのある日、漢字を書いていて、急に手が止まって書けなくなった。厳密には書けるけど、しっくりこない。それが始まりだった……。同じ漢字を書いていて、ゲシュタルト崩壊というやつ……なんですかね。でも、あの頃の自分は、妙に記憶力が良くて、同じ漢字をたくさん書かなくても容易く覚えられたので、それは微妙に思える」
「記憶力良かったんだ!」
あの人は”自分は頭が悪い”と言っていたことがあった気がするけど、そうでもないのかな。
「……夏休みが終わる前に、自分のふりをしなくちゃいけなくなったから……ほんの数か月の間ですよ。……ひょっとしたら、その記憶力が災いしたのかもしれない……と考えたりもする」
「そうなの?」
そう言いながら彼の横顔を見ると、あの人と同じ雰囲気を感じた。
「まぁ、可能性の一つ。あるいは、自分の場合、そうなった要素の一つかもしれない」
「あの人……えっと、あの魔術師も同じ雰囲気の時あるよ!」
自分でもよく解らないけど、なんだか嬉しくて言いながら笑顔になってしまった。
「……い、一応、同じ人間ですので……。そこそこ探求心が……」
わたしから顔を隠して言う台詞の声が、さっきまでと微妙に違う。……ひょっとして照れてる? なんとなくそんな感じがする。
「どうかしたの?」
さりげなく聞いてみる。
「笑顔が……す……てきだなと思っただけです」
「ありがと!」
あの人は昔から照れ屋さんだったのだろう。
「こほん……。離人症について調べていると、その症状は本人にも説明し難い感じで、周りの人にも理解され難いともあった……」
そう言いながらわたしの方へ視線を向ける。
「周りの人に話したりしたの?」
「いいえ、ボクが取り戻したかったのは自分。その自分を知っている人は誰もいない……だから、話してもしょうがない……。話したところで見当外れなことを言われるだけ……と、思っていたし。それが……説明し難い……になるのかなと、少し思っただけです」
彼は、かなしい笑みを浮かべている。……わたしは、あの人のことをどれだけ知っているのだろう。
「君の自分はどんな人なのかな? ……聞き方がちょっと変な気もするけど」
「さて? それも説明し難いコトに思えます。まぁ、ボクに限ったことじゃないと思いますが。ボクより、あの魔術師に聞いた方がいいと思いますよ」
「そ、そう? ……そうかも……ね」
あの人に聞いたら、どう答えるだろう……。
「気のせいかもしれませんが、そんな心配そうな顔をされたら……心が痛みます」
「ごめん、そんな顔してた?」
心が痛む……。これもあの人を知ったことになる気がする!
「病院に行って話したとしたら、どう診断されたのだろう」
「病院には行かなかったの?」
「うん。……行ったところで、話したところで、考え尽くした答えしか返ってこないだろうし、声は聞こえても届きはしない……。よく知らない人や、思い入れもない人間なら尚更に……。辛さは何も変わらない……似た症状の人のお話を聞けたとしても、それは違う人の話であって、それぞれ状況が違う」
彼は遠くを見ている。その横顔はかなしそうに見える。
「もし、わたしが”あの頃”という時にいたら、役に立てたかな?」
「……さて、どうでしょうか。自分さえいない寂しさの中……。……今のあなたなら辛さを和らげることが出来るかもしれません。でも、現実の時間はそれを許さない」
「そう……だね」
「”そうだね”……あははは! そう、その言葉。あの頃、欲しかった。永遠の時間でたくさん考えて、弱音だと、ダメだと、間違っていると、自分でもわかっている。……それを口にして……”そうだね”と言って欲しかった。でも……そう言って欲しいことを口にしても誰も……言ってはくれなかった。解り切っていることを、諭すように言われる……。解っているからこそ”そうだね”と言って欲しかった……。苦悩に満ちた思考を少しで良いから休ませて欲しかった……。自分を取り戻すためにどれだけ考えたことか……」
最初は笑っていたのに、だんだんと声が震えていった。そして彼は目元をぬぐっている。
「泣いてるの?」
「まぁ……。でも、あの頃のおかげで自分を客観視する力は更に磨きがかかりましたけどね。もともと、その辺りは得意だったけど……。おや、どうやら今回はもう終わりのようですね」
彼は涙をぬぐった手の甲を見ながら言う。
「そうみたいだね」
見ていた彼の手の甲が透けている。視線を上げて彼の顔を見ると、かなしそうで優しい笑顔をわたしに向けていた。
「では、また……」
そう言い残して彼は姿を消した。
涙……。




