僕と君は酸素に溺れる
『きっと、これが最期になると思うから』
僕は彼に向かってこう切り出した。
僕は人付き合いが得意な方ではない。それは自分でも理解している。
これまでを振り返ると、僕の周りに誰かがいた記憶はあまりない。
授業でペアを作れと言われれば、僕は教諭とペアになることを選んだ。
僕は、友達が欲しかったわけじゃないんだ。
ただ、隣で無言でいられる関係を求めていた。
以心伝心、という言葉の響きは本当に魅力的に感じる。お互いがお互いを理解している関係というのは実に高尚なものだ。
人は、他人の悪口が話題に挙がれば下卑た笑みを顔に貼り付け、グチャグチャと人のあることないことを咀嚼する。それは、対象のことをよく思っていないという共通認識の基に成り立つある種の信頼関係であろう。
そして、何故他人の話題ばかりが話に挙がるのか。それは一重に自分のことよりも周囲はよく見通せるからだ。つまり、自分のことは存外理解できないもので、他者の方が自分のことを理解している。
お互いがお互いを理解している関係というのは、相手が理解している自分を理解していることに繋がるのだ。どうだ、素晴らしい関係性じゃないか。
そういう関係を他者に求め始めたのは何時頃からだったかはわからない。だが、自分の求めている事象ほど姿を現さないものだ。そういう理不尽さが世の中には蔓延している。
跳梁跋扈。世の中には理不尽が蔓延し、人は本音と建前という二面性を内包し、今日も周囲に笑顔を振りまくのだ。
人の悪評を口臭とともに外部に撒き散らしながらも当の本人は内心怯えているのだ。悪鬼、世に蔓延る。
かくいう僕もそうだ。こうやって周囲を見下しながら生きてきたが、それは同時に周囲から見下されながら生きてきたとも言える。
水と油が交わらないように、他人と友達と恋人が同じカテゴリに振り分けられないように。だからこそ、僕が望む関係性を築ける人間は現れないのだと思っていた。信じていた。
だけど、違ったんだ。とどのつまり、僕も彼らも、みんな一緒だったんだ。自分が考えていることは、既に他の誰かが考えている。僕は、何処の誰が踏んだのかもわからない土を、足跡をなぞって、生きている。
そう生きてきたからだろうか。僕は自分がわからなくなってきてしまっている。まぁ今更わからなくなったところで元から理解できてなどいないのだから大した問題ではない。自分と他者の境界線が曖昧だ。キャンバスに水を零してしまったかのように。
僕は絶望していた。見えないものをアテにして、人との関わりから逃げていた僕に。
君と出会ったのはそんな時だ。僕には光が見えた気がする。
君は僕の全てを認めてくれた。僕も君の全てを認め、赦せるように努力した。
全ては無言でいられる関係のために。
それから僕の日々は一変した。無為に過ごしてきたあの時間もこの時のためだったのだと思えば安いものだ。あの曖昧だった境界線は、今の僕には、はっきりと目に映っている。
昨日までの僕とは違う。見下し、見下されてきたあの僕も、辟易し、辟易されてきたあの僕も、もう過去の遺物だ。
友人もできた。無言でいられる関係、とまではいかないが、それでもお互いのことをよく理解していた。
理解できたことがある。僕はあれやこれやと理由をつけ、全てを遠巻きに眺めていることしかできなかったが、結果を残すには、僕自身が行動する必要があったのだ。今更こんなことを理解したというのは恥ずべきことだろうか。でも、僕は確かに進むことができている。
君は、僕のこんな他愛のない話も黙って聞いてくれる。僕という仕様のない人間を理解してくれている。無言でいられる関係まで、あと少し、かな。
『それじゃあ友達が待っているから今日はこの辺にしておくよ』
友人は僕のことだけでなく彼のこともよく理解してくれている。僕らの会話が終わる頃合いを見計らって僕の元を訪れる。
僕は友人のことをもっと理解したい。
ともあれ、現時点では僕は彼のことも、友人のことも理解できている。それは彼らにとっても同じだろうけど、一つだけ納得がいかない部分がある。彼と友人にはどうやら過去にいざこざがあったらしい。彼らは一緒にいることを避ける。僕は彼らが一緒にいたところを見たことがない。もしかしたら友人は僕らの話が終わる頃合いに来るのではなく、じっと待ち続けているのかもしれない。どうして仲良くはできないのだろうか。
だが僕は、この奇妙な関係を気に入っている。もし彼と友人が二人で仲良くしていたらきっと僕は激昂するだろう。僕の内に潜む深い嫉妬心に気づいた時だった。
僕が君を裏切ることはない。だから君も僕を裏切ってはならないのだ。
しかしその反面、この奇妙な関係をなんとかしなければいけないと考える僕もいた。彼らは僕に鮮明な視界を与えてくれたが、同時に足元が不安定なことも教えてくれた。
僕と彼と友人の奇妙な日常は随分と長く続いた。僕が努力さえすれば、彼らとの関係が切れることはない。僕達は運命共同体だ。僕達のうち、誰も欠けることは許されない。この関係が欠けた時、それは僕の崩壊を意味していた。相変わらず、彼らが一緒にいるところは見たことがないけれど、きっとそれは僕のことを理解してくれている証だろう?僕の嫉妬心が深いことを理解してくれているんだろう?僕も君たちが本当は仲良くしたいことを知っている。だけどそれを僕は許さない。
なぜなら君たちは僕によく似ている。孤独を選びながらも独りでは生きられない。『無言でいられる関係』など、あれこれ取り繕ったところでとどのつまり、自分にとって都合のいい関係でしかない。だが、お互いがお互いを必要としている。ただその一点のみで僕はその関係を望んでいる。
君たちは、僕だ。
僕は、愛情と呼ばれるものを、知らない。
人を好きになるという気持ちがわからない。
自分のことさえ愛することができない僕が他人を愛することなんてできるのだろうか。
友人はおろか、家族のことさえも僕は愛することができない。幼い頃はどうだったのだろうか。両親から確かな愛情を享受し、僕はそれに応えられていただろうか。いっその事両親にそれを問いてみようか。だが、両親は語る口を持たない。僕が人形然りこの世界に存在するように、物言わぬ人間は人形にしか過ぎない。有機物が無機物になる時、その生命活動が停止する時、僕も、両親も今に腐敗してしまう。無機物に愛情を振りまく権利も、愛情を享受する権利もない。子供達が成長するに従い、人形遊びに飽きてしまうように。
一過性の愛情は愛情ではない。生涯に渡り、途絶えることのない愛情こそが真の愛情だ。だから僕は、愛情を知らない。
僕は君へ真の愛情を贈ろう。だから、君も真の愛情を僕に。だが、それはどちらかが死んだ時点で、片方の愛情は嘘となる。どちらかしか真の愛情は受け取ることができない。僕はどちらを選ぶべきだ?
もし、僕が死んだら君はどうなるのだろう。君はこの世界にひとりぼっちになってしまうのだろうか。そのことを悲しんでくれるだろうか。それとも、孤独を求めている人間のもとで、求めている姿でまた同じことを繰り返すのだろうか。君は本当に僕だけの孤独なのだろうか。最初は幸福の象徴であった君も、不安を助長するだけの存在となってしまった。
僕より先に君が死ぬ。すると君は真の愛情を受け取り、僕にはハリボテの愛情が残される。
僕が君より先に死ぬ。それならば僕は真の愛情を受け取ることができる。
望んでいるのか、僕は真の愛情を。死ぬまで、愛されることを、僕は。
残された者に残るものは裏切られた実感と、真の愛情を与えることができたという幸福感。
僕が、こうして生きて、息を吸って吐く。酸素が減り、二酸化炭素が残る。食事をし、排泄をする。食物が減り、汚物が残る。
この世の中は、プラスとマイナスがただただ追いかけっこをしているようなものなのだ。人が何かを得ることは、同時に何かが犠牲になっているのだ。
では僕のプラスとは、マイナスとは。
僕は君に真の愛情を贈ろう。それは同時に君へ無償の期待をしていることだ。僕は君に見返りを求めている。無言でいられる関係を。
では君は?君は何を僕に求めている?
僕は君から多くの幸福を貰った。だが、君は一度も幸福そうな顔を見せたことがない。まだ君の求めるものは手に入っていないということか。
君の真の愛情を受け取るためには僕は死ななくてはならない。死ぬことで何を君に返すことができる?
君の真の愛情が、君の期待が、僕を殺す。
酸素を取り込み過ぎれば毒となるように、食事を摂り過ぎれば丸々と肥えてしまうように、良いことも度を越せば、僕らに牙を剥く。良かれと思ってしていた行いが、僕らを苦しめている。それに気付くのは苦しんでからだった。
君の真の愛情が僕を死の淵に立たせているように、君も死の淵に立っていることだろうと思う。
僕らは酸素に溺れている。
友人は、飄々とした態度で僕の苦悩を一蹴する。真の愛情など存在しないと。善意に内包されている見返りを期待する心は、人の常だと。きっと友人は僕を慰めるためにこんな話をしたのだろう。だが、僕は真の愛情に飢えていた。僕の真の愛情が、彼にだけ向けたこの真の愛が、その他大勢のまやかしの愛と一緒だと思われている。僕は、僕だ。君は僕を理解することなどできなかったのだ。
君は、僕の求めている孤独ではない。
彼は、僕に微笑んだことがない。
僕も、彼に微笑んだことがない。
僕が君に微笑めば、君は微笑みを僕に返してくれるのだろうか。
きっとそんなことはないだろう。僕は薄々気付いていた。僕と君は似すぎている。僕が君に微笑むことなどないことを理解している。
境界線がまた曖昧になってきた。また、僕に鮮明な視界を与えてはくれないだろうか。
元の世界はこんなにも不鮮明だっただろうか?僕には思い出すことができない。
人の悪評で下卑た笑いを浮かべる人々がいて、それを知らない者達は呑気な笑みを浮かべ、人は言葉にしないと伝わらないことを、僕は知っていた。鮮明すぎた世界に僕は涙を流し、涙に歪んだ視界を僕は不鮮明だと決めつけ逃げ出した。そして逃げ込んだ世界で、僕は本当に不鮮明な世界を知った。あぁ、僕は気付いてしまったんだ。僕の心の奥深くに根付いたこの疑問の正体に。終わらせなければならない。僕は出来た人間ではない。だからこそ逃げた。そして僕はこの世界から、また逃げ出すことを選ぶ。人形遊びをする時期はもう過ぎ去ってしまったのだ。押入れの、両親によく似た二体の人形は、疾うに腐臭を放っていた。
だが、救いはまだある。真の愛情をお互い受け取る方法があったのだ。僕が死ねばよかったのだ。君は僕をよく理解してくれている。きっと僕と共に死んでくれるだろう?君を殺し、君に殺される。そうだ、大切な人間の生涯をこの手で終わらせ、この生涯の幕引きを大切な人間によってされれば、僕も君も救われる。君が求めていたものはこれだったんだね。僕にはもう全てが手に取るようにわかる。
君のことも、僕がもうだめなことも。
『さようなら、だね』
そう最期に呟き、僕は鏡に映る彼に微笑んだ。ほら、やっぱり君は僕のことをよく理解してくれている。微笑みが返ってくることはなかった。きっと僕はこのまま酸素に溺れ続けるだろう。そして悲惨な終焉を迎えるのだ。それは君も一緒だ。
さぁ、終焉を迎えよう。そして新しい世界を始めよう。
次の世界は任せよう。顔も性格も知らぬ君に。