Truth forest
※一部グロテスクな表現を含む場合があります。苦手な方はご注意ください。
後書きにて作品の解釈を掲載しております。一度作品を読んでからご覧になる事をお勧め致します。
物語の意味を考えながら読んで頂くとより一層作品を楽しめるかと思います。
一瞬、何故だかとても眠たくなった。重くなる瞼に抗うことなど出来るはずもなく、落ちる意識に身を委ねる他に方法はない。きっと、このまま眠りに落ちるのだろう。そう感じていた。体の末端から薄れていく感覚、暗くなる視界、遠くに消えていく音……。まさに眠りに落ちる直前のそれに良く似ている。けれどもそれは間違いだったようで、落ちかけた意識はすぐに浮上した。
なんだったんだ、今のは。
長い間眠っていたような、ただ瞬きをしただけのような、なんとも形容し難い感覚。疲れているのだろうか。もう眠気の覚めた目を両手で擦る。そのまま目を開けて、驚いた。
視界はぼやけて息が詰まる。地に触れていたはずの足は、何かが纏わりついているようで自由に動かない。助けを求める為に開いた口から零れたのは空気で、入れ代わるように生温い水が入ってきた。
まずい、このままでは溺死してしまうかもしれない。
何故水の中にいるのかなんて考える余裕もなく、僅かに差し込む光の方へと必死で藻掻く。体中に重りをつけているようだ。それでも死にたくなくて、必死に足掻いた。泳ぎ方もなにもなく、犬のように手足をばたつかせる。それなのに、足掻けば足掻くほど浮力はなくなった。体は沈んでいくばかりで一向に水面は見えず、光が遠退いていく。もう駄目かもしれない。諦めかけた瞬間、今までのことが嘘のように水は消え、俺は地面に座り込んでいた。
本当になんなんだ。
辺りを見渡せば、見覚えのない森の中。体も服も、濡れてなどいない。厚い雲に覆われた空に葉の落ちた木々は寒そうで、地面には落ち葉が沢山積もっている。それなのに、何故か俺の周りだけ切り取られたように地面が見えていた。手に触れる、冷たい地面。
俺は、いつこんな場所に来たんだ?
取り敢えず、服についた土を払いつつ立ち上がる。見回してみても、他に人の姿は見えない。さてどうしたものかと途方に暮れていれば、視界の隅で何かが蠢いた。突然のことに驚いてそれを見る。
それは、俺の影だった。俺は指先すら動かしていないのに、影だけが動いている。体の一部が切り離されたような、影が自我を持っているような、嫌な感覚がした。恐怖に体が竦む。悲鳴を上げようとして、そこで気付いた。声が出ない。情けなく口を開閉させているうちに影はまるで黒い煙のように揺らめき、見る間に広がっていく。
気付けば影は、人型を形作っていた。目の前に立ち上がった影の、深紅の口が弧を描く。何が起きているのか全く理解できない。影は薄笑いを浮かべたまま、その口を開いた。
「知りたいか。君が此処に来た意味を」
俺の耳がその聲を拾うことはない。音が出ている訳ではないのに、影の聲は頭の中に直接響くようだ。全てを見透かされているみたいで、恐怖が広がる。俺の声はやはり出なかった。得体の知れない影は、嗤う。
それでも、知りたいと思った。俺が何故此処に居るのか、思い出そうとしても思い出せないから。今まで何をしていたのかも、自分の名前すらも、全て憶えていないのだ。何故なのかは判らない。自分のこと、周りのこと、世界のこと、全ての記憶が抜け落ちてしまったようだ。もしかしたら俺は、おかしくなってしまったのかもしれない。だからこそ、知りたいと思った。俺が此処に来たことに意味があるのだとしたら、知りたい。
「そう。ならば僕は待っているよ、君の道の先で」
答えた訳ではないのに、影は満足げに嗤う。俺の道の先とはなんだ。俺は何処に向かえばいい。訊こうと思っても声が出なくて、影はすぐに四散してしまった。慌てて探しても、足元にはいつもと変わらぬ影。どうしたらいいのか分からぬまま、俺は歩き出す。
何故か、進まなければならない気がした。何かを探さなければいけない気がした。大切な『何か』が、足りないような気がして。
どれだけ進んでも、何もない森がずっと続いているだけ。人も、動物すらもいない。ただ淋しい森だけが続く。見渡す限り色彩の抜けた景色。もう最初の場所も分からなくなってしまった。大量の落ち葉を踏み分けながら歩いて、それでも景色は全く変わらない。すると漸く前に見えたのは、落ち葉が一枚もない、人ひとり分くらいの楕円形の場所。
もしかして、戻ってきてしまったのだろうか。
道標になるものが何もない森の中で、どこへ進めばいいのかなんて解るはずもない。気を取り直して再び歩き始めたのだが、また最初の場所に戻ってきてしまう。おかしいと思いながら何度も繰り返すうちに、その距離は次第に短くなってきていた。
どういうことだ。曲がらず同じ方向に歩いているのだから、戻ってくるなんてありえないはずなのに。進めば進むほど、後戻りしているようだ。
何かがおかしいと、最初の場所に手を伸ばす。土に触れるか触れないかのところで、不意に世界が歪んだ。色が混ざって、裸の木が回って、思わず尻餅をつく。目が回るような、奇妙な感覚。
気付けばそこは、色とりどりの草花や木々が生い茂る場所だった。
先程の淋しい木や落ち葉が覆う地面はどこへやら。夢でも見ていたんじゃないかと思うほど、色に満ちた世界。先程の場所を冬とするなら、ここは夏だ。厚い雲が覆っていた空は青空に変わり、裸だった木には濃い緑の葉が。
手や服についた汚れを払いつつ立ち上がる。変わらないのは終わりが見えないことくらいだろうか。悩むよりも先に、身体が動いた。何も解らないはずなのに、何をすべきかを知っているような気がする。俺は何かに導かれるように、再び歩き出した。
今度は最初の場所に戻ることはないようだ。カラフルになった世界を眺めながら進んでいく。今のところ特に変わった様子は見当たらない、普通の森のようだ。ただひとつ気になるのは、これだけ緑豊かなこの森で虫も動物もいないこと。随分と歩いてきたのだが、まだ一度も見ていない。不安が俺の中で見え隠れする。もっと先に進めば見つかるかもしれないと、更に奥へ進むことにした。
先に進むほどに、何処からか感じる視線。最初は一つだけだったそれが、今や大勢に見られているような気がする。どれだけ見渡しても周りには人も動物も、虫すらもいないのに。居心地の悪さに肩を竦めた。そんなことで変わるはずもなく、感じる視線は増すばかり。どうにも気になって、辺りを見回す。
視界に入るのは相変わらず木や草花だけ。人も、動物も、虫も、やはり見当たらなかった。その木や花にも特に変わったところはないように見える。でも、何故か感じる違和感。視線は木や花のあたりから感じていた。どういうことなのだろうか。何の変哲もない、ただの花木のはずなのに。
恐る恐る、一つの花に近付いてみる。小さなコスモスにも似た、薄紅の花。その花を覗きこんで、思わず飛び退いた。
花の中央に、大きな目玉がついている。
辺りを見れば、目玉の他に人間の耳がついているものもあった。それは花だけでなく、よく見れば木を覆う葉にもついている。沢山の目玉、目玉、それに耳も。俺の行動全てを監視されているようで、気分が悪くなった。俺が動く度、目玉や耳も追うように動く。気持ち悪い。一刻も早くこの場を離れようと、行き先も判らぬまま走り出した。
草木を掻き分け、走る走る。枝が引っ掛かって、俺の腕を浅く裂いた。どれだけ走っても、目玉や耳は至るところについていて離れることはできない。飛び出た木の根に足をとられて、叩きつけられるように地面を転がる。痛みを感じるより先に目に入ったのは、目と鼻の先にある目玉。鳥肌が立った。叫びたくても声が出なくて、喉を空気が抜ける音がするだけ。怖くて、気持ち悪くて、転がるように走り出した。隠れる場所は、ない。
どれほど走っただろうか。暫くすると、漸く目玉も耳も減ってくる。もう少し進むと、そこにはもう目玉も耳もついていない花木があるだけだった。走った所為で気管が痛み、思わず咳き込む。喉が渇いた。荒い呼吸を整えながら、水を求めて歩き出す。ここは森の中だ、きっとどこかに水くらいあるだろう。
少し歩くと、背の低い植物の葉に水滴が溜まっているのを見付けた。窪んだ葉が丁度皿のように水を集めている。一口もないだろうが、なにも飲まないよりはいいだろう。片手を受け皿に、その葉を傾けようと手を伸ばした。水滴を落とす為、葉の側面に手を触れる。
次の瞬間、俺の手からは真っ赤な血が滴っていた。
よく見れば、その葉の側面には小さく鋭い刃が無数に並んでいる。俺の手を傷つけた葉は、喜ぶように揺れて消えた。後には水滴一つ残らず、まるで最初から何もなかったかのようだ。根元を覗いても、そこにはもう何もない。結局水を飲むことはできず、喉は渇いたまま。何が起きたのか理解できていないうちに、水を求めて再び歩き出す。
更に少し進むと、今度は水溜りを見付けた。この水は飲めるだろうか。先程のことを思い出して、警戒しながら近付く。覗き込んだ先に見えたのは自分の姿。刃が隠れていることもなく、安心して手を伸ばした。水溜りだが飲めそうなくらい綺麗だ。渇いた体が水を求める。
すると今度は水に手が触れる前に、何かが割れる音がした。見れば、水溜りが何故か硝子のように割れている。それなのに水面は波打って、歪む俺の姿。
戸惑っている間に、その破片は俺に向かって飛んできた。
驚いて飛び退いたお蔭で、破片は頬を掠っただけ。生暖かい血が滴る。そっと触れれば、その手は赤く染まった。
どうなっているんだ、この世界は。触れれば俺を傷つけるものばかり。行き先も分からなければ、安全な場所もない。
また水は飲めないまま、再び歩き出す。もう気力は尽きていた。考えることすら億劫で、ただ歩き続ける。そうすれば今度は、森の中だというのにテーブルのような物を見付けた。その上には巨大なクッキーに苺ほどの大きさしかないケーキ、片手で持てないくらい大きなフォークに小指ほどの大きさのナイフ……。様々な物の大きさが狂っている。その中には、鍋ほどの大きさのティーカップに入った変な色の飲み物があった。向かいに立てられた看板には『ご自由にどうぞ』の文字。他に乗っているものは大きさがおかしいだけで普通のクッキーやケーキと同じようだ。これならば飲めるだろうと、カップに口をつけた。
一口、口に含めば様々な臭いと甘苦く辛い味が広がる。ミルクにレモン、紅茶、珈琲、唐辛子、オレンジジュースにアップルジュースやグレープジュースのような味と臭いに混じって、なにやら鉄のような臭いもする。あまりの不味さに飲みこむことができず吐き出せば、テーブルの片隅に散らかるごみを見付けた。ポットに入ったままの紅茶、珈琲豆、レモンの搾りカス、タバスコの空瓶、ミルクやフルーツジュースのパックに、スティックシュガーやガムシロップのごみ、使い掛けの角砂糖まである。そして空の小瓶に付着した、赤黒い血のようなもの。これが、全部入っているとでも言うのだろうか。とても飲めたものではない。
ふと顔を上げれば、看板が変わっていた。黒いペンキで書き殴られた、色々な方向を示す数多の矢印。これではどこに行けばいいのか分からないじゃないか。するとその上から、赤いペンキで誰かが大きくバツを描く。粘着質な塗料が、不快な音を立てた。怖くなって辺りを見回す。俺の目の前にも周りにも、他に何も居ないのに。見えない誰かは、音もなく目の前に居た。その矢印の上に『行き先などどこにもない』と書き足される。
誰なんだ、此処にいるのは。
足音も、呼吸音もしない。文字を書く手も見えなければ、筆すらもない。見えない恐怖に体が震えた。見えるのは、看板に書かれていく文字だけ。
次に、見えない誰かは真っ白なペンキで看板全体を塗りつぶしていく。その上から再び赤いペンキで、今度は矢印を一つだけ描いた。更にその上に書き足される『真実』の文字。それを最後に、見えない誰かは姿を消した。
矢印の方へ進めという意味なのだろう。今更、何故道を教えたのか。どうせ教えるのなら最初から教えてくれればいいものを。なんにせよ、進むべき道は示されたようだ。
矢印の示す方に歩き出す。特に変わったところは見当たらない。口の中には未だあの変な飲み物の味が残っていて、気分が悪くなる。それでも漸くこの変な場所から抜け出せると思うと、足を止める訳にはいかなかった。名前も、何をしていたかも憶えていないけれど、帰りたいと思う。俺が、元居た場所へ。早く大切な『何か』を見付けて、帰らなければ。その先になにが待っているのかは、分からないけれど。そもそも、俺はどうやってこの世界に来たんだっけ。此処に来たばかりの頃を思い出そうと、記憶を辿りながら歩く。
さっきは塗り替えられていく看板を見た。その前は大きさの狂った食べ物や食器、変な飲み物を飲んだ。その前は割れる水溜りに襲われた。その前は葉で手を斬られた。その前は目玉のついた花木から逃げた。その前は、その前は……。
その前は、俺はなにをしていた?
足を止めて、必死で記憶の糸を手繰り寄せる。けれどもどんなに思い出そうとしても思い出せない。そんなに前のことじゃない。確かに俺がしてきた『何か』が、絶対にあるはずなのに。
頭の中で記憶の糸が絡まって、千切れて、収拾がつかなくなったような感覚。千切れた糸は、決して元には戻らない。繋ぎ合わせようとしても、そこにあるのは空白。代わりなんて意味を成さず、行き場を失くした不快感と虚無感だけが残る。
考えるほどに頭が痛くなって、思い出せないことが気持ち悪くて、その場に蹲った。頭を抱えて掻き毟る。頭皮に爪が食い込んで血が出た。答えなど解らない、居場所などない。どうしようもないくらいの恐怖に苛まれる。自分だけが取り残されているような気がした。周りには、味方などいない。全ての神経が過敏になって、強烈な吐き気に襲われる。
おれは、おれは、なんでここにいるんだ。いったいなにがしたいんだ。なにをしようとしていたんだ。なにをしたいとおもっていたんだ。ワカラナイワカラナイワカラナイ。おれは、おれは、おれは!
不意に何かの気配を感じて勢いよく顔を上げた。体が震える。何かに、殺されるかもしれないと思った。先程まで何もなかったはずなのに、いつの間にか立っていた看板。先程見た看板と同じように、白い背景に赤いペンキで、矢印と『真実』と描かれている。先程とは違って矢印の示す先には掌ほどの大きさの、青みがかった乳白色の蠢く靄。あの靄が、真実だとでも言うのだろうか。
この気分の悪さをどうにかしたくて、もしかしたら真実に辿り着けば全て思い出せるかもしれないなんて淡い期待を抱き手を伸ばした。冷たくもなんともないのに、水の中に手を入れたかのような感覚。一度手を引き抜いて眺めても、濡れてはいない。空気そのものに重さがあるような、奇妙な感覚だった。靄は俺の手が触れた所から大きく広がり、俺の背丈よりも大きな楕円形になる。その蠢きが、俺を誘っているかのように見えた。この先で何が起こるかなんて解らない。それでも、進まなければ。一度深呼吸をして、靄の中に飛び込んだ。
再び目の回るような感覚の後、辿り着いたのはまるで水に覆われたような場所。けれどもやはり水はなく、呼吸もできている。自分の両手を見ても、水中で目を開いた時のようにぼやけてなどいなかった。
入り口となった靄はすぐに収束して、呑まれるように消える。周囲は滲んで、何もかもを映し出してしまうような空間だった。足元に、自分の姿が揺らめきながら映り込む。辺りを見回していれば視線を感じて、前を向いた。
そこにいたのは、足元から伸びる俺の影。見覚えのあるその影は不確かに揺らめいて、深紅の口は弧を描いたまま。そして、その影が次第に姿を変えていく。影の足元から黒い霧が立ち込めて、その影ごと覆い隠してしまった。その霧は俺の目の前まで迫って、思わず手で払う。すると、その霧は瞬く間に消えていった。俺の中の何かが『進め』と急かす。その声に従って、影が居た場所へ歩き出した。迫る霧を押しのけるように進んで、影はもう目の前。薄まった霧を、影から一気に引き剥がす。
――その先に居たのは、紛れもない俺自身だった。
「やあ、また逢えたね。いらっしゃい、待っていたよ。ようこそ真実へ」
どういうことだ。何故俺がもうひとりいる? また逢えた? 待っていた?
もうひとりの俺は、声を出している訳ではなく。どうやって話し掛けているのだろうか。俺の考えも全て見抜かれているようだ。
「最初に言っただろう。『君の道の先で待っている』と。僕は君で、君は僕。君は此処に辿り着くまでの間に、様々なものを見てきたはずだ。綺麗なもの、汚いもの、不思議なもの、気味が悪いもの……君は色々なものを見て、体験してきた」
確かに、色々なものを見てきた。花木についた目玉や耳、葉に隠された刃、割れる水面、大きさの狂った食べ物や食器、色々なものが混ざった飲み物、塗り替えられる看板……そして、思い出せない最初。俺からしたら奇妙なものばかり。
「思い出したかい? きっともう、最初の頃のことは忘れてしまったんだろうけれど。そんなことはさして重要じゃない。君が見て、体験してきたことすべてが真実だったのさ。此処まで辿り着くことが、君が此処に来た意味。そして、もうひとつ。君が『答え』を出すことこそが最も重要で、最も大切な、君が此処に来た意味だ。それを伝えた上で訊こう。……さあ、君はどうしたい?」
そんなものが真実だと? 冗談じゃない、何故俺がそんなことの為にこんな場所に来なきゃいけなかったんだ。こんな世界はもう沢山、早く帰らせてくれ。
「そう、『そんなもの』が真実なんだよ。君はそれを知る為に来たんだ。教えて、君の『答え』を。君は一体どこへ帰るつもりなんだ?」
元の場所だよ、決まっているじゃないか。この世界に来る前に、俺が居たはずの場所へ。俺は、こんな所に居たくない。
「この世界に来る前に君が居た場所……か。へえ、後悔しない?」
するわけないだろう。こんな気味の悪い世界とは、さっさとおさらばしてやるんだ。
「そうか、つまり君はこの世界から出たいんだね。それが君の出した『答え』。……やっぱり、君はそれを選ぶんだね。それならもう、僕は止めないよ。ごめんね。――それじゃあ、さよなら」
その言葉を最後に、世界は大きく歪んだ。走馬灯のように、この世界で起きた出来事が流れていく。水の中で足掻き、あの影に出逢い、ループする淋しい森を彷徨い、緑生い茂る森を歩き、目玉や耳のついた花木から逃げ、葉に隠れた刃に傷つき、割れた水面に襲われ、大きさの狂った食べ物や食器を見、変な飲み物を口にし、塗り替えられる看板に導かれ、思い出せぬ記憶に頭を抱え、靄の中に入り、もうひとりの俺に問われ、答えを出し、哀しげに歪んだもうひとりの俺の顔。今まで居た奇妙な世界も、もうひとりの俺も、消えていく。全てが失われていく。崩れていく。それが怖くて、縋るように手を伸ばした。
驚き見開いた目に映ったのは、鈍く光る刃を手に飛び掛かる、もうひとりの俺。その俺の腕が振り上げられる。頭上の刃を振りかぶり、歯を食いしばる俺を見た。
斬り裂かれた喉から噴き出す赤で、崩れた世界が染まっていく。伸ばした手は、俺ともうひとりの俺とを繋いだ。刃を捨てたもうひとりの俺が、崩れ落ちる俺を泣きながら抱き締める。その首には、俺と同じく斬り裂かれた大きな傷。俺は彼で、彼は俺。探していた『何か』が、欠落していた『何か』が、解った。それは、もうひとりの俺。
「さよなら、世界。さよなら、僕」
赤に変わった世界の中、二人の俺が流した一雫の涙が赤に消えた。
こういう話をいつか書いてみたいと思っていました。もう一人の自分と対峙するようなお話が好きだったりします。彼があの森に来た意味は、実はあるようでない。このお話は森を彷徨い目的を探すことを人生に例えました。皆さまはお気付きになったでしょうか? 楽しんで頂けたら幸いです。
作品内表現解釈(箇条書きとなりますので予めご了承ください。また気になるところや自分なりの解釈などがありましたら感想へどうぞ)
■冒頭の水中……羊水。誕生を表す。此処で主人公は外に出ることを諦めています。
■淋しい森……周囲と同じ、虚しさ。
■声が出ない……本心が言えない。
■自分の影……本心、本能。
■深紅の口……終末の予知。言葉一つで運命が変わる。
■頭の中に響く聲……影は自分自身なので声に出す必要はない。
■君の道の先……人生の終末。
■大切な何かが欠落……本心。
■最初の場所に戻る……同じことの繰り返しで物事が進まない、失敗。
■最初の場所に触れる……物事の選択を変える。
■色付いた森に変わる……新たな事を始める。
■ループしない……順調に進む。
■花木についた耳や目……周囲の目、評価、噂。
■目や耳から逃げる……人目を避ける、物事を投げ出す、やめる。
■転んだ時に目の前にある目玉……失敗も逃げ出したことも見られている。
■耳や目がなくなる……周囲が興味を失くす、忘れられる。
■水滴を飲もうとして刃……言いたいことを口に出せない。
■自分の姿が映る水溜り……自己評価。
■水溜りが割れて襲い掛かる……自己嫌悪、現実から目を逸らす。
■大きさの狂った食べ物や食器……価値観の違い。
■色々なものが混ざった飲み物……様々な感情。
■飲めずに吐き出す……感情表現。
■数多の矢印が書かれた看板……道はいくらでもある。
■行き先などどこにもない……未来への不安、迷い。
■白いペンキで塗りつぶされる……すべてを投げ出す、白紙に戻す。
■赤い矢印と真実の文字……終末に向けて動き出す。
■最初が思い出せない……いつかは忘れる、幼少期の曖昧な記憶。
■頭痛と気分の悪さ……憶えていられない自分への嫌悪。
■気付いた直後に現れた看板……思い出せない事をすべて含めて真実。
■矢印の先の靄……不安定な結末。
■触れた場所から広がる……辿り着いたことによって道が開く。
■水の中のような感覚……始まりとの繋がり。
■何もかもを映し出すような場所……今までの自分を振り返る。
■黒い霧が立ち込める……様々な感情や思い出、未練。
■手で払う……自ら思いを断ち切る。
■もうひとりの自分……全てを知っている本来の自分、本心、本音。
■色々なものを見て体験する……人生。
■世界から出る……死。
■今まで居た世界が失われる、崩れる……死ねば何もかも無に還る。
■もうひとりの自分が自分を殺す……自分を殺すのは自分自身。
■赤く染まる世界……死で変わる世界。
■伸ばした手……生に縋る。
■もうひとりの自分が自分を抱き締める……本当は生きていたいと思っていた。
■もうひとりの自分にも同じ傷……本心も含めて自分自身。
■一雫の涙が赤に消える……残った未練。
■Truth forest(真実の森)……人生とその選択。