第六話 現れる混沌
「やはり、この世界にも来ていたのね……」
黒い女を見たシェーヌさん語勢に気迫がこもる。
「来ていた?」
「これが三つ目にして最大の問題、世界を改悪する来訪者です!」
「お前達は我らをテロリストと呼んでいるがな」
テロリストって、じゃあこの黒い女も、俺が勇者になるのを邪魔した連中の一人だって言うのか。そんなのが、どうして魔王軍と一緒にこの国を襲っているんだ?
「粛正だよ。間違った世界を壊すために、私はここへ来た」
俺の疑問を察したように、黒い女は言った。それを否定し言い返す言葉を俺は持たないけど、シェーヌさんは別だ。
「間違っているのはあなた達よ。この世界を襲っても何にもならないわ」
「今更お前達と言葉を交わす気なんて、私にはないさ」
黒い女が手を挙げると、もう一つの影が、崩壊した壁から堂々と侵入する。
それを目にした瞬間。元々動けなかった僕の身体は凍り付き、へたれていた心は考えることを放棄しようとした。
「うああ……あ……あああ……」
それは黒かった。人型をした黒い肉の塊だった。悍ましい塊だった。
両腕と頭部は触手のように長く、両腕が先細りしている。
さらにこの魔物には、顔が無かった。
本来目や鼻が収まる部分は、黒い空洞になっていて、見ているだけで意識まで吸い込まれそうになる。僕にはそれがとても、どこまでも恐ろしく感じた。
その不気味さに、その気持ち悪さに、絶対の禁忌を犯したような冒涜が僕の意識を蝕んでくる。
生物のはずなのに非生物的で、冒涜的なのに神秘的で、不浄なはずなのに清らかで、僕はこいつが現実として存在しているということを受け入れたくない。
けれど僕は魔物から目を逸らすこともできなかった。恐怖で固まっているというのが一番の理由だろう。でもそれだけではない、この世の条理を超えた存在に対する畏敬の念も、そこには含まれていた。
僕は恐怖に慄きながら、同時に魅入られている。
こんな生物が世界に存在しているのか。
こんな生物が世界に存在していいのか。
「しっかりしてください! 呑まれてはいけません! それはこの世界の存在ではありません」
「そうさ。こいつは私の化身にして無貌の神ナイアルラトホテップ。いや、もはや私がナイアルラトホテップの化身というべきかな? 私はこいつに引きずられて、自分の名前さえ捨て去りナイアと名乗っているのだから」
ナイアルラトホテップと呼ばれた黒い生物の肩から新たに二本の短い触手が生え、先端が絵の具を何種類もぐちゃぐちゃに混ぜ狂ったような虹色に輝く。
「妨害波動まで……」
空に浮いていたディスプレイがその光に当てられた途端、その箇所に亀裂が入った。
ああ、嫌だ。このままじゃ僕がここに一人で置いて行かれてしまう。
「あ、あ、あう」
何かを叫ぼうとしたけど、それは意味を持たない音の羅列にしかならない。ひび割れも、すぐにディスプレイ全体に広がっていく。
「これだけは忘れないで。あなたは世界の理から外れている。それはつまり」
そこでディスプレイは粉々に砕け散った。僕は一人ぼっちになった。
シェーヌさんが何を言おうとしたのかなんて、心に這い寄る恐怖で全て消え去る。
「ふん、しょせんあいつらにできる介入はこの程度だ。この世界のことは、この世界の者達が決めればいい。そうは思わないか?」
自説を語りながらナイアが僕を見る。僕は何もできない。もう僕から発せられる音は、ガチガチと噛み合わない歯の音だけだ。
「狂気にあてられ喋ることすらままならないか。世界を変える意志のない者は、せいぜい城の隅にでも隠れて怯えていろ」
冷淡に告げて、ナイアは元来た穴を潜り、城の外へと出ていった。ナイアーラトテップも一緒だ。
僕は生き残った……? 生かしてもらえた。
この戦争の中でさえ、殺す程の存在でもないと、そういう扱いを受けたのだろう。
屈辱であり、それ以上に僕の中に渦巻くのは助かったという安堵だった。
一人と一匹が消えて、ようやく僕は立ち上がれた。ナイアーラトテップへの恐怖が大き過ぎて、死に絶えた兵士への恐怖がマヒしたのもあるのだろう。
逃げなければ。逃げないと。あれは恐い。もう会いたくない。でも会ったらまた動けなく自信もある。駄目だ、次は狂ってしまう。もう狂っているかもしれないけど。だから逃げろ。すぐに逃げろ。どこかへ。遠くへ。
「あ……ううあ……!」
恐怖は引きずられて、まだ上手く発声ができない。それでも逃げる。安全な場所を求めて、でもどこが安全かなんてわからない。走る走る走る走る。息が切れても関係ない。もうあれに会わないためには逃げる。それしかないんだ。何かにぶつかった。気にしてる場合じゃない。また走る。走れない。進めない。引きずられてる。誰かに掴まれてる。捕まれてる。駄目だ。恐い。逃げないと。進まない。進まない。進めない。進まない。
「おい、どうした!」
声が聞こえる。知ってる言葉だ。けど声の意味までは頭が理解してくれない。逃げないと。
「落ち着け、馬鹿!」
視界が揺れた。顔が熱い。殴られた。誰に? 誰かに。あれ、この人は知ってる。僕の知ってる人だ。彼女は、えっと。
「レ……イセル、さん……」
言葉が出ていた。日本語だ。話せる。レイセルさんの背後にもう一人、この人も、僕は知っている。大切な人だ。
「大丈夫ですか、もう一人の勇者様」
「姫様……う、うぅ……」
ようやく一人じゃなくなった、そんな安心から僕は嗚咽を漏らして泣いていた。そんな僕を、姫様が優しく包容してくれる。
「よっぽど恐ろしい目にあったのですね。もう大丈夫ですよ」
「とは言え、ここで立ち止まっているわけにもいきません。何があったっか話してもらうぞ」
「はい……」
僕は姫様達と一緒に早足で移動しながら、倉庫でのできごとを説明する。もちろん、シェーヌさんについては隠し内容をボヤかした。
本来は走るべきなのだろうけど、姫様のペースに合わせて自然とこの速度になっている。
説明している間に、僕の心も段々と安定してきた。状況は最悪でも、あれから魔物と死体を見てないのと、何より一人ではないという事実が安心感へと繋がっている。
僕は、一人じゃ本当に何もできない。
「魔王軍が、もう場内まで侵入してきているのか」
「そんなに恐ろしいものまで、この国へ攻めてきているのですね」
「恐ろしかったです、本当に」
だからくれぐれも気を付けてくださいという意味だったのだけど、レイセルさんは少し別の受け取り方をしたらしい。
「すまなかったな。私は姫様の元へ急ぐのを優先にしたため、まだ不慣れなお前を、指示も出さず一人にしてしまった」
「え、いいえ! レイセルさんは姫様の専属騎士なんですから、当然ですよ」
「勇者様は、そのナイアという黒い悪魔とも戦わねばならないのですよね」
「そうなります。こちらの兵士も迎撃しているはずですので一対一ということはないでしょうが、苦しい戦いにはなるでしょう」
あれと戦うなんて、あり得ない。僕はナイアーラトテップを見ただけで凍り付き、心の底から恐怖した。たとえ僕に勇者の力とチート能力があったとしても、あれには立ち向かえない。立ち向かおうと思うことすら、おこがましい。あれは人間がどうこうできる生物じゃないのだ。
「レイセルさんの言う通りでした」
「何のことだ?」
「僕は、勇者にはなれません」
意図も容易く、諦めの感情に支配されてしまうような僕に、勇者なんて役割は荷が重すぎたのだ。
敵に倒される覚悟はおろか、倒す覚悟さえなかったなんて。情けなくてまた泣きそうになる。帰りたい。僕はもう地球に帰りたい。死んで帰る場所もないのに帰りたい。世界にも僕にも救いようがなかった。
「なら、お前がなりたいものになればいい」
「なりたいものなんて、もう……」
「なければ探せ」
なりたいものを探す? 前も後ろも全部真っ暗に塗り潰されてしまっている今の僕に、そんなことできるのか?
「僕なんかに見つけられるでしょうか?」
「それはお前次第だ」
「……ですよねぇ」
やっぱりレイセルさんは容赦無い。けど正しい。そして正しさはいつだって僕から遠い存在だ。
僕はバグで殺され、バグで全てを失った。大事な時に限って、僕の人生にはバグがついて回る。
だから、僕にできるのは逃げることだけなんだろう。ナイアルラトホテップから逃げて、魔物からも逃げる。
逃げて逃げて、恐いものから押し潰されるまで、僕は逃げ続ける。もうきっと、それだけが僕の人生なのだ。
後ろ向きにでも、走って生きよう。死ぬのは恐いから。
「あらあら、いつの間にかレイセルともう一人の勇者様が仲良くなっていますわ。少し嫉妬してしまいます」
「ええ? いや、姫様が思っているような関係ではありませんよ」
仲良しどころか、説教する側とされる側なのだけど。姫様には僕達がどういう風に見えているのだろう。
そして、やはり姫様は僕のことをもう一人の勇者と呼ぶのだった。僕はただのなり損ないなのに、この人だけは認めてくれない。それはそれで、僕にとっては少なくないプレッシャーになる。
「雑談はそこまでです。着きました」
「着きましたって、ここは」
ただの壁際で行き止まりだ。しかも一階だし、あの穴から魔物がどんどん侵入してくれば、あっという間に見つかって襲われてしまう。姫様だって驚いた顔をしている。
「ここは、まさか……レイセル、あなた!」
あれ、姫様はここがどういう場所なのかは知ってるのか。しかも姫様の困惑が段々と怒りに変わっていく。
「はい、そのまさかを実行せねばならないのです」
レイセルさんは壁に飾られている絵画を少しずらす。そして壁をぐっと押すと、壁の一部が正方形型に沈んだ。
カーペットの下から響く鈍い音。姫様が無言でカーペットを剥がすと、そこには地下へと続く階段が出現していた。
「すごい」
それが僕の素直な感想だった。まさかこの城にこんな隠しマップがあるなんて。
「姫様もご存じの通り、この隠し通路で城から脱出することができます」
「私に、この城から逃げろと?」
「その通りです」
「嫌です!」
姫様は首を横に振り、はっきりと拒否を示した。こんなに不機嫌な姫様は初めてみる上、その相手がよりにもよってレイセルさんという、僕にとっては考えたこともなかった展開だ。
「姫様、わがままを仰らないでください」
「お父様は兵を指揮して、お母様はその隣にいるのでしょう? 私だけ逃げるなど許されるはずがありません」
しかし状況が状況だから、レイセルさんも引かない。恐怖に震えて逃げ惑う次は、逃走経路が見えてるのに動けない状態へと陥るのだった。