最終話 意志と力と僕達の始まり
これまで、ここまで、当たり前だと思っていた安心や安全というのものは、こんなにも薄い氷の上に成り立っていたのだと僕は思い知った。
秩序と正義は、たゆまぬ人々の努力によって作り上げられ、そして誰かの悪意によって簡単に砕けるのだ。
薄氷を少しでも厚くしようと戦い続けていた戦士、レイセルさんの墓の前で僕はそんなことを考えていた。
そういうのはとっくの昔に卒業したつもりだったけど、僕は心のどこかで「自分は選ばれた人間で、どれだけ苦労しても最後は絶対に助かる」なんて幻想を抱いていた。
自分だけは大丈夫――なんて、何の根拠もない膜が、僕の心にフィルターをかけていたのだ。
だけどそんなものは、二日前にこの国で起きた命がけの戦いによって、いとも容易く割れて消えた。
僕の自信なんて、薄い氷よりもさらに薄い、シャボン玉みたいな無意識の願望だったのだから当然だ。
ここは死ぬ。
人が死ぬ。
どこだって人は死ぬけど、ここは僕の生きてきた世界よりも、ごくあっさりと死んでいく。
死んだ先にあるのが、あの転生所だとしても……。
「あなたは、生まれ変わって誰に、何者になるんでしょう?」
レイセルさんの墓にそう問いかける。それはこの世界にいる限り、わかりようもない答えだった。
「そんなの、聞くだけ無意味ですよね」
記憶という引継がなければ、生まれ変わったところで別人と何が違うのか。
人の心とやらは、魂と記憶のどちらに引き継がれるのだろう、なんてことを最近はよく思案するようになっていた。
僕と、そして恐らくは清香も、何かしらの要因があって特別に前世の記憶が与えられた特殊ケースだ。
普通は前世の記憶を全て失い、また新しい命を一からやり直す。
体も心も、一から新しい自分を積み重ねていかねばらない。
魂が同じでも、死ぬ度に何もかもを失いもう一度全てを作り直すのならば、魂のどこに『自分』があるのだろう?
そう考えると、やはり、死が人の終わりであることに変わりはないように思える。
僕や清香を叱咤激励し、姫様に深い忠義と絆を抱いて戦ったレイセルさんとは、二度と会えないのだ。
レイセルさんの魂はここにないと知っていて、僕はここに報告へ来ていた。随分と一方的で身勝手な行動だ。
けど、それでいい。僕がこれから進む道は、自分勝手そのものなのだから。
「見つけましたよレイセルさん。僕のやりたいこと、それは……」
報告を終えた僕は、城で宛てがわれている自室に戻っていた。
二日前と比べて、というか二日前とは比較にならないほど豪奢な部屋になっている。
無能な偽勇者は、あの夜を境に国を救った英雄という扱いへと変わっていた。
今やこの国で、僕以上に特別ゲストとして扱われている者はいない。
あれだけ望んでいた好待遇なのに、現在の僕ときたら胸の奥では虚しさばかりを感じている。
でもそのおかげで、誰にも邪魔されず僕は秘密の話し合いに没頭することができていた。
「レイセルさんはね、本来ならここで勇者と共に戦い魔物達を撃退した後、勇者のパーティに加わり魔王討伐の旅へ出るはずだったの」
僕はまた宙を浮くプレートを相手に話しかけていた。向こう側から話しかけてくるのはシェームさんだ。
ナイアが去って通信障害はもう解除されているので、今はこうして普通に会話もできている。
以前と違う部分は、シェームさんが僕への敬語を辞めているということ。どうにも年上の人に敬語を使われ続けるのは落ち着かず、僕から進言したのだった。
それに、僕はこの人とこれから長い付き合いになるのだから、親密度を上げておくに越したことはない。
「つまり今の勇者は……」
「ええ、メンバーを一人欠いたまま、旅立たねばならないわ」
「そうですか」
これで、勇者一行の戦力は大きくダウンしただろう。
ナイアは、レイセルさんが勇者のパーティーに加わることを知っていたのだろうか。今となってはわかりようもないし、戦闘を中断して勝手に帰ったあいつだけど、その影響は甚大なものとなっている。
「それで、アノニム君はこれからどうするか決まった?」
僕のことをアノニムと呼ぶのも、こっちからお願いしたことだった。今後僕が本当の名前を名乗ることはもうないだろう。
「ええ。ただ、いくつか確認してもいいですか」
「ええ、かまわないわ」
元々シェームさんが僕と連絡を取った理由は、僕の進退についてを決めるためだった。本当は昨日も連絡がきたのだけど、少し考えさせて欲しいとお願いしたのだ。
教えてもらった内容によると、転生のルールに従い僕の再転生はできないけど、役割を振り直すことはできるらしい。他にも転生者の管理で手伝えることがあるなら、転生法に抵触しない限り、協力は惜しまないとシェームさんは言ってくれた。
最後に「それが私達にできる最大のお詫びだから」と付け加えて。
「まず、勇者はもう無理なんですよね」
「ごめんなさい。この世界に二人の勇者を置くことはできないの」
「気にしないでください。ただの確認ですから」
それに、僕はもう勇者になろうなんて全く考えていなかった。あの役割は、清香にこそ相応しいと今は思っている。
「それじゃあ、もう一つ。ナイアについてはこれからどうするんですか?」
「彼女については、別途対策を練っているわ」
練っているということは、まだ具体案は固まっていないのだろう。
この世界にとってナイアは、イレギュラー中のイレギュラーだ。あいつはそれこそ、魔王を利用して世界の崩壊まで起こしかねない。
とはいえ二日前の雰囲気からして、ナイアは今すぐ勇者を殺そうとはしてないように思えた。それも踏まえ、人の輪廻を決める転生管理局は慎重に対応を練っているのだろうか。
まぁ、転生管理局の動向なんて僕には関係のないことだ。
僕はなりたい僕を追うと決めている。
「ならば僕は、このままの僕でいようと思います」
「それは、このまま役割を持たないまま生きる、と?」
シェームさんの声色に軽い困惑が交じる。良い役割を求めて勇者になろうとした僕の発言とは思えたなかったのだろう。
「勇者になり損ねた僕は、この世界に生まれたバグです」
バグで死に、バグに助けられた僕は、もはや存在そのものがバグに等しい。
誰にもなれない僕は、きっとこの世界で一人だけだ。
「誰でもない、特定の役目を持たない僕だからこそ、同じバグのナイアを追える」
「それは……!」
シェームさんの目が大きく見開かれる。この反応は予想の範疇であり、僕にとっての問題はこの生き方が通るかどうかだ。
「本気なの?」
「本気です」
「倒す相手は魔王じゃない、真の意味で世界の敵。勇者と違って、生き残って称賛されるとは限らないわ。そもそも、勝てるかどうかすら……」
「誰かに褒められるためにやるわけじゃないですから」
この世界でやりたいことをいくら探してみても、それしか出て来なかった。
だからやる。
強いて言うなら、僕は僕が誇れる人間になりたい。
「今ならば、勇者にこそなれないけど、もっと平和で富と名声が約束された将来を得ることはできるのよ?」
「匿名希望の名無しが称賛されて何になるというのです」
僕は自ら匿名になることを選んだ。誰でもない僕は、他人から見れば誰でもいい僕でもある。
「きっと世界一の大富豪になれたとしても、僕はその一生を、なんだかよくわからないまま消費していくだけだと思います」
他人から見た僕の存在なんて、公衆トイレのラクガキ程度にでも思われていればいい。ただ、
「何のために生きるのかもわからないまま、漠然と生きて死ぬのはもうやめにしたい」
それだけだった。
進みたい。
ここと地続きであるどこかへ。
探したい。
僕が何者なのかではなく、何者になれるのかを。
「その結果、誰にも顧みられず死んでいくのだとしても?」
「だったらそこが僕の終着点だったということです」
きっと昔の僕じゃ、死ぬまで走り続けることさえできなかった。
壁があれば、すぐにもう無理だと塞ぎ込んでいただろう。
けど、走れるだけの力を、ナイアが与えた。
最後まで走り続けるという選択を、レイセルさんが命を燃やし尽くして教えてくれた。
進むべき道がある。
進めるだけの力がある。
ならば、後は僕の意志だ。
「あなたの決意はわかったわ。しかし、役割を持たないという選択肢も、与えることはできない」
僕がどうにか頼み込むための言葉を探すより先に、「ですが」とシェームさんが付け加える。
「ナイアルラトホテップを、この世界に破壊者という役割に位置付けることはできるわ。そうすれば貴方は」
「結果的に世界の破壊者を倒すという役割が与えられることになる、わけですね?」
「そういうこと」
本来なら存在しない役者を、アドリブだけで追加する。そんなの原作ありのアニメに、オリジナルのキャラと展開を挿入するようなものだ。
まず間違いなく、世界は元とは違うレールを突き進む。
「そんなことが可能なんですか?」
「元々この世界は私の管轄だから、なんとか上司を説得してみせるわ。それにナイアルラトホテップが割り込んで時点で、どうやっても世界は歪んでいく一方だもの」
それならいっそ、僕をナイアへ対抗する存在として確立させるということか。
「もちろん、私達もバックアップしていくし、他の対策も常に考えているから」
「はい、お願いします」
「だからね、自分が一人だとは思わないで。誰でもない貴方を、応援する女神はここにいるから」
勝利の女神ではなくて公務員の女神だし、僕と同じ普通の人間にしか見えないけれど、だからこそシェームさんの暖かい言葉がすごく嬉しかった。
●
行動方針の決まった僕は、出国の準備をしていたところで、国王様に呼び出しを受けた。
こっちは思っていたより時間がなくて急いでいたのだけど、何の用件で呼びつけてくれたのだろう。
出国の許可はもう取ってあるし、出ていく前にまた国民の士気を上げるための演説でもさせるつもりか?
紙に書かれた文章を、感情込めて読む練習させられるのは中々に苦痛だったので、あれはもうやりたくないな。というか、そんなことやっていら間に合わなくなる。
僕は兵士に連れられて召集場所である王の間に参上する。そこでまず目が合ったのは、王様達だけでなく清香だった。隣にはキスリアもいる。
「よく来てくれた。この国を救いし英雄よ」
僕はただの匿名希望です。と英雄呼ばわり始めた頃は訂正していたのだけど、きりがないので諦めた。これも早いとこ出国したい理由の一つだ。
「お父様。今あの方は英雄ではなくアノニム様ですわ」
僕の代わりに姫様が訂正してくれた。あの日から、姫様は僕のことを「もう一人の勇者様」とは呼ばなくなった。
「わしにとっては、いくら感謝してもしきれん英雄だよ。今日そなたをここに招いたのは、勇者達のことについてじゃ」
皆の視線が清香へと集まる。その眼差しは、かつての期待と羨望ではない。
本来なら国を襲った魔物を見事返り討ちにし、皆からの声援を浴びながら勇者一行は出国するはずだった。
だがナイアが戦闘に絡んだがために、戦いにこそ辛くも勝利を収めたものの、死傷者が多く国には甚大な被害が出てしまっている。
しかも、魔物達が国を攻めた理由は覚醒したばかりの勇者を倒すためだ。この事実が災いし、勇者さえこの国に現れなければとの声が上がるようになっていた。
それを言い出したら勇者誕生パーティーとかやって、派手に騒いだ国王様が一番問題じゃないかと思うが、国王様自身もそれを深く反省している。
事実、国王様は責任は自分にあるとして勇者をかばおうとしていたが、清香がそれを拒んだという話も姫様伝いで聞いている。
そして国民の不満や不安を緩和させるために、不本意ながら僕が矢面に立たされた。
勇者になれなかった偽物。召還の際に偶然やってきた、勇者の剣を抜けないおまけ。そんな僕が勇者以上の力を発揮して一人で魔物達を壊滅させた。
現実は、そこまでの無双なんてしていないが、国民にはそんな情報が流されている。大事なのは民衆に明日見る希望を与えることらしい。
政治に対してネット以上の知識がない僕は、そういう表面上の話だけで納得しておいた。
ウィキペディアで付けた子供だましの付け焼き刃知識を、この世界に持ち込もうとは思わないし、下手に素人の浅知恵で首を突っ込んでも混乱を大きくさせるだけだ。
僕が英雄として奉られることのよって、フレアルド王国は戦勝国だという意識を強める。結果として、勇者への非難は幾ばくか小さくはなっていた。
それでも、勇者に対してペナルティを与えなければ、国民の不満は収まらないレベルになっていた。
勇者は近く、この国を追放される。世界を救う者である清香に与えられた罰は、誰にも期待を寄せられず、かけられる声は罵声という孤独な出立だった。
清香は元々自ら勇者と名乗るようなことを好まない性格だ。魔王という世界を脅かす最大の脅威を相手に、命がけの戦いを強いられている彼女は、しかし誰にも顧みられることもないだろう。
ゴールに辿り着くまで、何処までも地味で辛い長い道のり。
その出発前に、彼女は俺と話をするためにここへやって来た。
「傷はもういいのかい清香?」
「ああ、姫様や皆のおかげでもう問題ない」
「そうか……」
体の傷はそうかもしれないが、心の傷は無残な爪痕を残したままだろうに。
それでも、白い目で見られ続けるくらいなら、早くここを出てしまった方が彼女にはいいのかもしれない。
「だから行くよ。私は勇者として、魔王を討伐する」
「うん」
「しかし、私には力が足りない。それをあの日、私は痛感した。こんなにも弱い私では、世界はおろか、この国すら救えはしない」
勇者の放つ悲観的な言葉に、この場にいる皆の顔色も暗くなる。特に姫様とキスリアはすぐにでもそれを否定したさそうにしているが、言葉とは裏腹に落ち着いた清香の態度が、それを押しとどめている。
「だから、私には仲間が必要なんだ。一緒に魔王と戦ってくれる強い仲間が。アノニム、私と一緒に来てほしい」
決意と覚悟が宿る勇者の瞳が、僕を見つめる。初めて言葉をかわした夜の弱々しさは、もう微塵にも感じられない。
「君が私のことを気に食わないと思っているのはわかっている。それでも、私には君の協力が必要なんだ」
真っ直ぐに僕を求める言葉。けれど、清香が何と言って説得しようとも、僕にはもう決めた道がある。それを伝えるだけだ。
「僕には僕の進む道がある。それは魔王を倒すことじゃない」
キスリアと姫様に強い失意の色が浮かぶ。清香は眉の一つも動かさず、じっと僕の言葉を聞いている。
「僕はね、これから本当に忙しいんだよ。長い道のりで僕の邪魔する連中を全員倒しつつ、遥か遠くにある魔王城まで行って、何処かでほくそ笑んでいるだろうナイアと決着を付けなくちゃいけないからね」
この部屋全員の顔に大きな驚きの表情が張り付いた。今度は清香もその例外じゃない。
「けどあの混沌黒女は馬鹿みたいに強敵だからさ、仲間がほしいんだよ。清香、僕と一緒に来てくれないかい?」
一瞬の間があってから、僕と清香は同時に相好を崩す。
「そうか、なら仕方ないな。道中に魔王の城があるんだろ? では一緒に魔王も討伐してくれ」
「どうせ途中で魔王倒す邪魔してくるだろ、あいつ。だったらナイアもついでに倒してくれないかな」
ふむ、どうやら互いに自分の役目を果たすのに必死で、要求を受け入れるのが難しいらしい。ならばここは妥協点が必要だ。
「ホントに仕方ないな」
と、清香が呆れるように笑って、
「一緒に両方倒すしかないようだね」
僕は肩をすくめて言った。
旅の出発を僕が急いだのは、勇者一行が先に旅立たないように先手を打って同行を求めようとしたためだ。
そして清香がここに僕を呼びつけたのは、彼女が僕を勇者一行に勧誘するためだった。
「私も一緒に行くんですからね!」
「ああ、もちろんだ。キスリアは、真っ先に私と行くことを選んでくれたからな」
完全に会話からハブられていたキスリアが焦って自己主張した。どこか微笑ましさを感じる光景だ。
「本当は私もご一緒したいくらいですけど……」
「それは無茶ですよ姫様!」
「お気持ちだけでとても嬉しいです。姫様は姫様のお仕事を優先してください」
「はい。ですからここで、勇者様達のご無事をお祈りいたしております」
僕と清香が慌てて止めようとする姿を、姫様はどこか悪戯っぽく笑う。レイセルさんを失って一番哀しみに暮れているのは姫様のはずなのに、この人はそんな姿をおくびにも出さない。
むしろ、私は心配しなくても大丈夫だから行ってこいと言われている気分だった。
こうして僕達は旅立った。
これでメンバーは違えど、勇者一行は当初の予定と同じ人数で旅立つことになる。
だが僕はレイセルさんの代わりになろうとは思っていない。彼女の代わりなどどこにもいないし、僕は僕の目的を果たすために戦う。
僕達がこの国から出発した時の見送りは、約束通り一人もいなかった。
城下町の入り口立っているのは、失敗した勇者と、勇者になれなかったバグと、その二人を召喚した娘が一人。
だけども僕達の中に、失意や孤独といった感情はなくて、ただ進むべき道と踏破するための意志が静かに燃えている。
ただあるがままを受け入れて、それぞれの想いを重ねて、僕達は旅路の一歩を踏み出した……。