第十話 誰にもなれない僕だから
「どうして……?」
よろめくも踏みとどまった清香が、信じられないといった表情を僕に向けた。くそ、そんな顔してないで姫様連れてさっさと離れろよ。
心の中で笑ってやったと言ったけど、やっぱ笑えない。
喉を絞める触手が気持ち悪くて苦しい。まるで息ができない。このまま僕は窒息して死ぬのか? それとも首をへし折られるか?
どちらにしてもこれまでだ。ああ畜生、やっぱりこんな人生だったよ。
「ほおう、まさかお前がここで動くとはな」
突如、僕を絞めつけている触手の力が緩んだ。
どういう意図だかわからないが、肺は全力で空気を所望する。その勢いが強過ぎるのもあって、思い切り咽せた。
「げはっ! うぇえっ! げほっ、げほっ!」
かろうじて呼吸はできるようになったが、触手は変わらず首に巻き付いたまま、軽々と僕を釣り上げている。
僕の命が、ナイアルラトホテップによって掌握されているのはそのままだ。
「おいおい、何やってんだよ。さっさと殺しちまいな、そんなおまけ」
エビルブロブが酷い催促を行う。それに対しナイアーラトテップは一言、
「貴様は黙って、そこの勇者でも相手にしていろ」
とだけ返して、視線を僕に合わせる。
「っけ、魔王様から直接の使いだからっていい気になりやがって。だがまぁ、姫と勇者の二人をこの手でやったとなりゃあ手柄はでけーだろうなぁ!」
清香はナイアーラトテップからエビルブロブに相手を切り替えて、姫様を自分の背後に匿うように対峙する。
そこに好転はなく、絶体絶命の危機しか見えてこない。
「どうする? お前が身を挺してかばった勇者は、別の者に殺されるだけみたいだぞ?」
「そうみたいだね。でも、もういいんだよ、そういうの」
「諦めて死を受け入れたようだな。しかし、役割を持たない者が死ねばどうなるか、お前は奴らから聞いているのか?」
「知ってるよ。消えるんだろ、完全に」
僕はバグで殺され、バグで全てを失った。大事な時に限って、僕の人生にはバグがついて回る。
だから、僕にできるのは逃げることだけなんだろう。ナイアルラトホテップから逃げて、他の魔物からも逃げる。
逃げて逃げて、恐いものから押し潰されるまで、僕は逃げ続ける。もうきっと、それだけが僕の人生なのだ。
「知っていて諦めただけか。やはりお前はただの意思なき弱者だったな」
「だから、諦めるとか諦めないとか、そういうのじゃないんだよ」
「なら何故助けた? お前が助けた命はほんの数分長生きするだけだぞ」
どうもナイアは、僕を殺すのを先送りにしてまで、清香を庇ったことを本気で訝しんでいるらしい。
これはチャンスだ、なんて思わない。どう答えても最後は殺されるしかないんだ。
僕の命と存在は、清香の身代わりになった時点で、もう終わっているも同然だった。
だから僕は、そのまま飾らずに答えを教えてやる。
「お前、飲み物が入ったコップが倒れそうになったのを見て、それが自分のでなくても支えようとしたことはないか?」
「どういう意味だ?」
「何の捻りもない、そのままの意味だって」
どうやらあまりに予想外の答えだったらしく、ナイアの反応が止まってしまった。それとも、あまりに馬鹿馬鹿しいから真偽を見極めてるのかな。
「僕に大層な理想なんてない。仕方ないんだよ」
「仕方ない?」
「だって、思わず手が出ちゃったんだんだから」
倒れそうになったコップを支えようとして手が出るのと同じように、僕は清香を庇った。
思わず。つい。気が付けば。どれだっていい。こうなったという事実はどれでも一緒だ。
「本当に、そんなくだらない理由なのか」
「元よりくだらない人間だからな、それこそ仕方ないさ」
大した理屈なんて持ち合わせてないのだから、そう言う他にない。後悔はいつだって後でするしかないのだ。
そう言えば、前の世界だってお婆ちゃん無視して即逃げてれば、僕はギリギリ生き残ったんじゃないか?
あの時も、お婆ちゃんを車から逃がすため、逃げるより先につい手が出ちゃったんだ。
僕が死んだ理由は、たった、それだけだった。
「はは」
乾いた笑いだった。
確かに僕は勇者にはなれそうもない。清香みたいな勇気も、姫様みたいな使命感も、レイセルさんみたいな覚悟も、持ち合わせてはいないのだから。
人の命を救うことにすら、僕は大した気持ちを抱いていなかったんだ。ただなんとなく人を助けて、その結果として僕は死ぬ。これから死ぬ。
「あははは……」
死ぬというのに、僕はどうして笑っているんだろう。何がおかしいんだろう。
ああ、それも単純だ。最後の最後で僕は自分がどういう人間かわかったからだ。
「情けなくて、人のせいにしてばかりで、志も皆無の、格好悪い。それが僕だよ……。僕はそんな僕をさ、生まれてから死んで、もう一回生まれ変わって死ぬまでずっと見続けるしかなかった。だって、それが僕なんだから」
ナイアが理解できないといった様子で僕を睨む。そりゃそうだ。死の間際で意味不明なこと語りだしたんだから。
でも言わずにはいられない。これから死ぬけど、言わずには死ねない。
「それでいい。それでいいのさ。人なんてそう簡単に変わらないし、変えられない。仕方ないもんな。だって僕は僕なんだから。どこまでいっても、どうしようもない僕なんだから! ははは、言うだけ言った。言ってやったぞ。だからもう満足だ。ほらさあ、殺せよ。仕方ないから大して好きでもない勇者助けて、仕方ないからお前に殺されてやる。僕は僕のまま僕として死んでやる」
「そうか……」
怪訝顔だったナイアが、シニカルに口角を上げた。ああ死ぬ。これで僕は死ぬ。僕ができるせめてもの抵抗は、できるだけ死ぬ間際まで、腑抜けたヘラヘラ笑いを続けてやることだ。
けど僕の笑みは、最低な決心からほんの数秒で消えてしまった。
ナイアーラトホテップの触手が解けて、僕が解放されたからだ。解放されてしまったからだった。
「面白いじゃあないか、世界のバグ。面白いから試しにお前も私の同類にしてやる」
ナイアは、胸元から一枚カードを取り出すと僕の方に投げ捨てた。捨てたと言っても、落とされて尻餅をついた僕の足下に突き刺さったんだけど。
「使い方は触ればわかる。好きに使って醜く足掻いてみろ」
「何やってやがるナイア!」
思わぬ展開にエビルブロブが激高した。右腕は清香の胴体に巻き付き彼女を絞り上げており、空いている左腕で僕を標的に定めた。
まずい、清香がこれじゃ他に戦える人は――そんな僕の考えを否定するように、エビルブロブの左腕に抱きついて動きを阻害する者がいた。
「させ……る……か……」
「レイセルさん!」
「てめぇ、まだ息がありやがるのか!」
「何度、でも……言って、やる。お前……の相手は、この、私……だ」
エビルブロブの左腕は縮まってレイセルさんの首を掴んで地面に叩きつけた。それでもレイセルさんは動くのをやめない。落ちた先にあった自分の剣を拾おうと手を伸ばし、その甲をエビルブロブの手刀に刺し貫かれた。
「う……」
レイセルさんには、もう痛みに叫んだり呻いたりする体力も残っていない。そこまでの重傷を負っても、この人には守りたい人がいる。
「ウェヒヒ。てめえごとき何をしようが無駄なんだよ!」
「無駄じゃないさ」
そう無駄にしてはいけない。僕の手にはレイセルさんを犠牲にして得た、ナイアの寄越したカードがあった。
「今度はてめぇか。っち、余計な手間増やしやがって」
人が戦うのに必要なのは、まず意志だ。
けれど、それだけじゃ足りない。気持ちがあっても、それに伴う力がなければ負けて終わる。
僕は立ち上がり、自分に問う。
お前にその二つはあるのか?
力はここに、僕の手の中にある。なら意志は、
「レイセル! すぐに治療を! しっかりしてレイセル! レイセル!」
「フレヌチカ……もう、いい、の」
姫様に寄り添われたレイセルさんは、だけどもう指の一本も動かすことができず、掠れた声を途切れ途切れに紡ぐ。
「いいことなんてあるはずないわ!」
「あなた……騎士……なれ……幸せ……だった」
どこまでも一直線で眩しいくらいに輝いていた、レイセルさんの意志が尽きようとしている。
「しっかりして、レイセル! ずっと私を守ってくれるって約束したでしょう! レイセル!」
「約束……。私の代わりに……姫様と、勇者様……世界の、希望を」
その願いは、姫様に向けたものではなかった。だから、僕が答える。
「僕はあなたの代わりにはなれません」
一瞬の沈黙、僕は続ける。
「けれど、僕にもやりたいことができました。そして奇遇ですね。僕もレイセルさんと同じことを考えていたところです」
レイセルさんの意志は引き継がない。この人の輝きは、きっとこの人だけの絆で、この人だけのものだ。
僕は僕の意志で戦う。
心も力も、準備ができた。
「…………あり……が…………とう……」
それが、僕の聞いた、レイセルさんからの最期の言葉だった。姫様を愛し、姫様に愛された誇り高き騎士は、前のめりに自分の意志を貫き――死んだ。
「レイセル……そんな……嫌よ! ずっと一緒に、いてくれるって……」
「レイセルさん……。私が、私がもっとしっかり戦えていれば」
少女二人の嗚咽が聞こえてくる。けど、今の僕はそれに同調しようとは思わないし、思えない。
「後悔してる暇があるなら、さっさと立ち上がれよ。時間は僕が作ってやる」
僕は二人の前に立ち、エビルブロブと対峙する。後ろにはまだナイアがいるけど、興味の矛先が僕にある限り、彼女は傍観者に徹するだろう。
もしまた勇者に手を出そうとしたら、その前に僕が対応すればいい。今の僕になら、それができる。
「…………ああ、そうだ。私は……。姫様、まだ回復魔法が使えるなら、私を治療してください」
「は、はい」
「少しだけ待っててくれ。すぐに立ってみせる」
「待たないけど、期待はしてる」
僕は胸の前に手に入れたカードを掲げる。初めて触れたはずなのに、これをどう使えばいいのか、どういう力を持っているのかは感覚で理解できた。
「セットアップ」
その呟きに応じて、カードからドス黒い煙が湧き出て僕の顔を覆うけれど、数秒のうちにそれは晴れる。
僕からでは煙が僕に与えた影響を直視することは適わないけど、感覚が僕に起きたことを伝えてくれた。
僕の顔を、白い仮面が視界以外の全てを覆い隠したのだ。
大切なものは意志と力。
僕の顔、僕が誰かなどどうでもいい。それでも、僕を呼ぶ人はいる。
「もう一人の勇者様……」
「姫様、僕は勇者じゃありません」
僕は勇者になれない。いや、勇者だけでなく、僕になれる役割などあり得ない。
だって、僕はこの世界にとっての異物、問題を起こすバグなのだから。
世界を救うのではなく、世界に巣くう。それが僕だ。
なら僕は誰にならなくてもいい。
「僕はアノニムだ」
だから僕は名乗らずに名乗る。匿名希望の誰か、それが僕。
役割を持たない僕は、だからこそ、誰でもない僕になれる。
シェームさんが最後に伝えようとした言葉を、僕は今理解した。