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寝子賞翫

作者: 皚銀夜落
掲載日:2026/10/15


 行(ゆく)叢(むら)蘇(す)芳(おう)という男は濫(らん)読(どく)家(か)で、趣味と実益を兼ねた翻訳家という仕事も相(あい)俟(ま)って一日の殆どは文字を追いかけているような人物だ。その一途さは、齢二十六になって女の影一つ無い程であった。このままでは不味いと感じた親族は、彼をどうにか支えてくれそうな気立ての良い女性を見合い相手として宛てがった。

 そうして選ばれたのが彼より六歳下の鴇《とき》という女性だった。


 蘇芳は自身の縁談すらどこか他人(ひと)事(ごと)のようではあったが、相手の印象を訊かれれば「良い方でしたね」と答えた。それは後に「真面目そうで感じの良い人」という感想でしかなかったが、親族はこれ幸いと二人を結ばせたのだった。そのせいで、蘇芳は鴇の事を『静かに過ごすのが好き』という一つの共通点くらいしか知らなかった。それでも夫の自覚は持ち、妻として迎えたからには大切にすると誓いを立てた。結婚してすぐに「仕事ばかりしている者だが、君も無理せず好きなように過ごしてほしい」と伝え、鴇はそれに「わかりました」と笑みを浮かべて答え、円満に夫婦生活を始めたのだった。




 夫婦となって四(よ)月(つき)経った。

 能(あた)う限り寝食は共にし、日中は其々が別の事をして過ごすが生活は概ね順調といえた。鴇が如(じょ)才(さい)なく夫の補佐を務めているため、蘇芳も仕事に集中する事ができた。しかし、どちらも口数はあまり多くなく、距離が縮まるような出来事も起きない。可もなく不可もない、冷めてはいないが温かいとも言い難い生活が続いていた。


 蘇芳は夫である自覚こそあれど、目の前に未読の本と新規の仕事があれば他の事など二の次、三の次である。妻もそれを理解して決して夫の邪魔をするような事をせず、嫌な顔もしなければ文句の一つも言わない。その様子は蘇芳には「真面目過ぎて疲れてしまうのではないか?」と疑問に思ってしまったが、当の本人に訊けば「蘇芳さんのお陰様で自由に過ごせております」と軽やかに微笑んで見せたのだった。


 そんなある日の昼下がりの事だ。

 蘇芳は独り身の頃から食事は朝と夜にしか摂らない。その理由は、朝から続けて文字を追っている最中で中断させられる事が億劫に感じるからだ。そういうどうしようもない所を危惧されて妻を用意された訳だが、習慣はすぐには変えられず、巻き込むのも申し訳なく感じた蘇芳は妻にその事を伝えて昼は一人で摂ってもらっていた。


 半端な時間に仕事に区切りがついてしまい手が空いた。普段ならそこで読書を始めるが、濁流の如き文字の羅列と向き合った後で脳が休息を求めていた。菓子でも摘みたいと書斎から出ると、家の中はしんと静まり返っていた。あまりの人気のなさに、出掛ける予定は聞いていなかったが妻は外に出たのだろうかと、何気なく縁側のある方に足が向いた。


 差し掛かった視線の先、妻の横になった姿を見つけて蘇芳は足を止めた。それから足音を立てないようにゆっくりと近付く。性格を表すように用意された枕代わりの座布団に頭を預け、肌掛け布団に包(くる)まっている。卯月のよく晴れた天気に心地よい風が吹き、縁側の一番日当たりの良い場所を選んで寝ている姿は、普段の真面目な固い印象を少し幼く感じさせた。


 蘇芳と鴇は互いに親しみを持って接していても、そこに恋慕の情があるかと訊かれれば答えに窮する仲だ。特に蘇芳は、六歳下にも関わらずしっかり者の鴇に対して『真面目』や『働き者』という感想ばかり抱いている。もっと気楽に過ごしてほしいと思っていた矢先のこの出来事に、「この人でも昼寝をするのだな」と妙に惹かれるものがあった。


 ずっと眺めていたいとも思ったが、蘇芳は休息を取っている妻を驚かせたくはなかった。況(ま)してや、真面目な妻は『主人に咎められる』と思ってしまうかもしれない。そんなことが唐突に怖くなった蘇芳は名残惜しさを感じつつ書斎に引き戻った。

 そこでふと思い出す。


「……あぁ。菓子のことを忘れていた」




 ***




 生活に劇的な変化はない。相変わらず蘇芳は暇さえあればすぐに文字の世界に飛び込んでしまう。珍しい本が手に入れば寝食すら削ってしまう程だ。鴇は屡々(しばしば)その様子を心配していたが、その一途さは折り紙つきである。『仕事が早くて表現豊か』と評判の人気の翻訳家である夫には引っ切り無しに仕事が舞い込む。そんな夫から、小遣いを多めに渡されて「好きに使いなさい」と朗らかな笑みで言われてしまえば、鴇は何も言い返せなかった。

 余計な事を言ってその笑顔を曇らせてしまいたくないと思ってしまったのだ。


 鴇にとってもこの暮らしに感謝しているところがあった。蘇芳からもそう認識されている通り、真面目な性格だという自覚がある。信頼を寄せられればそれに応えたくなってしまう。逆にいえばそのくらいしか取り柄のない平凡な点が悩みでもあった。


 縁談が組まれた当初、鴇は事前情報として蘇芳を『変わり者』と教えられていた。ただ一途に文字ばかりを追っている人。その相手に選ばれた鴇には行叢の家族にすら同情の目が向けられたが、いざ相対してみれば蘇芳は六歳も下の妻に良くしてくれた。「楽に過ごしてほしい」とよく口にするのは、どうやら仕事ばかりしている事への妻に対する謝罪らしいと気づき、何の不便もない生活に感謝していると告げて笑みを添えた。それに、鴇にも大好きなものがあったからだ。


 幼い頃から寝る事が大好きだった鴇は、成長してもそれが変わらなかった。その気になれば一日中寝ていられるが、そんな事は到底許されない。子供の頃は微笑ましく思われていても、大人になればそれは忽(たちま)ち怠惰の象徴になってしまう。嫁ぎに行く前、両親には「みっともないから隠しなさい」と忠告されてしまう始末だった。


 故に嫁いでからは早起きを徹底し、どんなに人目がなくとも昼寝をするのも我慢していた。しかしそれは長くは保(も)たず、夫からの『好きに過ごしていい』という免罪符と、滅多に部屋から出てこない夫の習性から昼寝を解禁したのだった。快適さとあまり夫の足の向かない場所を探した結果、縁側が定位置となった。日当たりの変化を感知して時間を測れる特技も持ち合わせていた鴇は、夫にバレていないと信じていた。


 ──まさかその姿が、蘇芳の新たな楽しみになっているとは知らずに。




 ***




 文字を追う事が生活の一部になってはいるが、人間である蘇芳にも集中力には限界がある。人気が上がった影響か引き受ける仕事も手間取るものも増えた。そういう時には息抜きに読書ができない程に脳が休息を求める。奇(く)しくもその集中力が切れるのが、妻が昼寝をしている時間に被るのだった。


 何処(どこ)からか蘇芳の好物が甘味だと知ったらしい妻は、夫が時々書斎から抜け出して菓子を摘むのも把握して毎日切らさず用意してくれるようになっていた。それを有り難く思いながら蘇芳は適当な菓子を摘んで茶で喉を潤す。どうせ誰にも見られていないからと立ったまま済ませると、その足で向かうのは縁側で昼寝をする妻の所だった。


 初めて目撃した時から変わらず簡易的な寝具を自ら用意して寝入っている。その準備の良さから見て、自発的にやっているのだろうと察する。──成程、確かに「静かに過ごすのが好き」と云っていた理由に合点がいく。


 正に最適地(ベストポジション)ではあるが眩しくないのかと心配して眺めていると、器用に腕を目元に置いて日陰を作っていた。いつかに見た野良猫がそんな風に寝ていた事を思い出した蘇芳は、ふっと笑みが零れた。もう一歩だけ近づいて見ようとしたが、丁度その時小さく唸り声を上げたのに驚いて急いでその場を離れた。起こしてしまいたくはない。万が一知られてしまったら妻の自由を奪ってしまうかもしれない。そんな思いがどうしても浮かんで、こっそりと観察するように眺める事に決めていた。


 一(ひと)度(たび)気に入ってしまったからだろう。

 それからの蘇芳は、息抜きに読書ができない時には真っ先に妻の昼寝姿を眺めるようになってしまった。以前までならすぐに家から飛び出して、散歩がてら新しい本を入手しに行っていたが、最初に浮かぶのが妻の姿になってしまった。本の仕入れも重要な為その習慣がなくなったわけではないが、新たな習慣になりつつあった。


 眺める際は、音を立てずにそっと近寄りその寝顔を覗く。夜、就寝前に見かける姿よりも丸まっている姿もなんだか可愛らしく思えてしまう。変態趣味のようにも思えたが、夫が妻の寝顔を見るのに何の問題があるのだろうかと自らを納得させた。




 妻に新たな興味を抱いた蘇芳は、流行りだというライスカレーを食べに行こうと妻を誘った。読んでいた本に出てくるので気になっていた事と、日頃の妻への感謝を込めてと、そう切り出せば妻は「では、おめかししませんとね」と嬉しそうに笑った。


 庶民からすれば高級品の位置付けにあるその食べ物だが、蘇芳は稼ぎが良いので日付を決めてからは行動が早かった。夫婦ではあるが行叢家の親族が急かして結ばれ、当の蘇芳が仕事ばかりするせいで二人きりで出かけた事は殆どなかった。


 まだどこか他人行儀が抜けない二人は最初、蘇芳が半歩前を歩いていたが、栄えた街の中心部に近付けば往来に人が増えた。逸(はぐ)れてしまいそうだと思った蘇芳は、こういう場面でする事を思い出して妻の手を取った。すると、鴇は夫の顔を窺い見た。


「嫌でしたか?」

「いいえ、嫌だなんて思いません。ただ少し驚いてしまって」

「物語の夫婦の真似をしようと思ったのですが……、私はどうやら格好良くはできないようです」

「とんでもない! 嬉しいですよ」

「それなら、良かったです」


 それだけ言って気恥ずかしく、以降は口を閉ざしてしまった。しかし、繋いだ手を離そうとはどちらも思わなかった。程なくして店に着いてしまうと、どちらからともなく手を離した。それが少し寂しく感じたが、互いに胸の内に秘める事にした。


 注文した料理は馴染みのない匂いと共に運ばれて来た。読物で形状は知っていた蘇芳に対し、初見の鴇は興味深そうに見つめていた。味覚に繊細ではないが食欲を唆(そそ)られた蘇芳は早速匙を取って掬い、口に運ぶ。妻もそれに倣って口に入れたが咄嗟に口元を手で覆った。


「どうかしましたか?」

「……いえ。思ったより熱くて。すみません」

「あぁ、鴇さんは猫舌(、、)なのですね」

「……はい。お恥ずかしい」

「いえいえ。可愛らしいじゃないですか」


 余計に顔を赤くした妻を見て、それだけで連れて来た甲斐があったと蘇芳は思わず表情が緩む。恥ずかしがる妻に「笑わないでください」と指摘されてすぐに表情を引き締めたが、心の内は料理の味よりも目の前の妻の反応が大半を占めていた。


「美味しいですね、蘇芳さん」

「はい。またこうして外に食べに来ましょう」

「ふふっ。楽しみにしていますね」

「次は鴇さんの気になる物にしましょう」

「では、考えておきますね」


 食事など面倒だと思っていたはずの蘇芳が自発的に妻と次の約束をしたのも、夫が愛しむように見つめてくる視線に胸が高鳴るのを自覚した鴇も、その感情の正体にはまだ気づいていなかった。




 蘇芳の一日の割り振りに、休憩という名の妻の観察時間が追加された。

 時計を気にして生活はしていなかったが、癖になったようにその時間の辺りに仕事が一区切りつくようになっていた。相変わらず脳に余裕があれば読書を優先する事もあったが、妻の姿が過(よ)ぎる回数が増えていた。最初は気の向いた時だったのが、週に一度、週に二度、三度。ただ眠っている姿を眺めるだけだが、不思議と疲れが取れるような感覚があった。かつて蘇芳の兄姉が寝ているだけの猫を眺めて盛り上がっていた気持ちが今になってわかるようだった。


 噂をすれば影が差すという言葉があるように、蘇芳がそんな事を思っていたある日の妻の昼寝には本物の猫が傍らに居座っていた。地域を彷徨(うろつ)く野良猫。──キジトラという種類と兄が云っていたのを記憶していた。


 そいつはやや遠慮がちに縁側に足を揃えて佇んでいた。まだ妻と距離があるが一応「邪魔をするなよ」と目線で制した。伝わったかは不明である。


 それから日を置いてまた妻を眺めに行く。またしても奴はそこにいた。今度は器用に足を折り畳んで箱のように四角く座り込んでいる。蘇芳が監視の目を光らせると、猫はそれを少しだけ気にした後そのまま目を閉じて寝入った。その太々(ふてぶて)しい態度は少し気になったが、結局は妻と猫が揃って眠るほのぼのとした雰囲気を堪能する事にしたのだった。


 監視という名目が入ると、蘇芳が妻の姿を眺める頻度が上がった。三日に一度、二日に一度と、気付けば毎日のように足を運ぶようになっていた。例の猫は気まぐれで、餌付けをしているわけではない行叢家には天気が良い日の昼寝場所くらいの感覚らしい。妻が寝ている横で、呑気にぺろぺろと毛繕いしているかと思えば、満足したように鼻息を吐(つ)いて眠る。肉付きは良いので充分に餌も貰えているのだろう。不安があるとするならば、妻の昼寝の邪魔をしないかという点だ。人馴れしていても野生動物には相違ない。妻が引っ掻かれたりしてしまわないかと、つい不安に思うようになっていた。


 その日の夕餉、妻の何気ない話に猫の話題が挟まった。


「最近よく同じ猫を見かけるのです。丸っこくてとても可愛らしいのですよ」

「それは、もしやキジトラの?」

「ええ、そうです。蘇芳さんも見ましたか?」

「家(うち)の庭で見かけるな」

「最初は通りの所でしか見なかったのですけど、最近になって縁側の所に来ていたので驚きました」

「鴇さんは、猫が好きですか?」

「はい。生家の近くの神社が猫の溜まり場になっていて、子供の頃はよく見に行っていました。蘇芳さんはお好きですか?」

「最近好きになりました」

「ふふっ。良い出会いがあったのですね」

「……そうですね。とても愛らしいです」


 蘇芳がこの時思い浮かべていた猫(、)は妻の事であるが、それを知らない鴇は夫が笑顔を浮かべるその相手にほんの少し嫉妬してしまう思いがあった。




 蘇芳の新たな日課は、妻が昼下がりの小一時間を昼寝に充てている内のよく眠っている一(いっ)時(とき)だけその姿を眺める事だ。最初の頃は寝顔を覗く事もできていたが、猫の出現により迂闊に近寄れなくなってしまった。見ている限りでは無害の猫だが、ここ数日妻との距離が近付いて来ているのが目についた。僅かな嫉妬と、襲いかかったりしないだろうかという不安。息抜きに来ているはずが、どこか晴れない心地をまた仕事に打ち込む事で消していく循環になっていた。


 仕事が一区切りつき、蘇芳は凝り固まった身体を伸ばした。読書の気分もあるが自然と足は妻の下(もと)へと向かっていた。廊下の端のいつもの位置に着けば、定位置に妻は眠っていた。だが例の猫はいつもの場所にはいない。今日は来ていないのかと近寄れば、なんとそいつは妻の身体のすぐ傍で安心するように眠っていた。猫など興味がなかったはずの蘇芳だったが、なかなかどうして可愛らしく思えた。これでは最早、妻を見に来たのか猫を見に来たのか、慣れない感情を持て余していた。


 ジっと見入っていたからだろうか。不意に猫が目覚めて毛繕いを始めた。そして蘇芳とばっちり目が合うと、驚いたように躰(からだ)を起き上がらせた。その拍子に足を滑らせた猫が縁側から落ちる。


「あっ!」


 蘇芳が手を伸ばした先で猫はその身を転がして走り去って行った。刹那、声を出してしまった事に気付いた蘇芳が足元の妻を見遣ると、今度はその目と視線が交わった。


「……すみません」


 気まずくなって蘇芳が視線を逸らすと、布擦れの音が耳に届いた。視線を戻すと思わずギョッとした。なんと妻は土下座の格好をしていたのだ。


「なにを、やめなさい」

「申し訳ありません。みっともない姿をお見せしてしまいました」


 その確固たる様子に蘇芳が鴇の肩を押して姿勢を戻させた。可哀想な程に血の気が引いた顔が痛ましい。


「鴇さん。私はずっと心配だったんだ。私が無理をさせているから昼寝をする程疲れているのではないかと、申し訳なく思っていたんだ」

「いいえ、蘇芳さんが心配なさるようなことはございません。これはその……。ただわたしが好きでやっていたことです」


 自責の念に駆られるように両手で顔を覆って項垂れる妻の姿に蘇芳は違和感を覚えた。たかが昼寝に何があるのか。そもそも邪魔をしたのは蘇芳の方だというのに。


「私は、昼寝をする鴇さんの姿を微笑ましく思っていたのだが、恥入る程に見られたくなかったのですか?」

「……いい歳をして、昼寝が好きなどみっともないから、婚家でそんな姿は見せるんじゃないと、両親から言い付けられていたのです。蘇芳さんが部屋から出て来ないからと、つい魔が差してしまったのです」

「そんなこと……。好きなことがあるのは良いことではありませんか」


 蘇芳は慰めるように妻の身体を抱き寄せた。やり慣れない事でぎこちないが、妻はやっと顔を上げた。


「以前から言っていますが、私が好きなことをやっているのですから鴇さんにも好きなことをしてほしいと思っていますよ。寧ろ、昼寝は好きでやっていることだと知って嬉しく思ったくらいです」

「寝ることが好きだなんて、おかしいと笑わないのですか?」

「はい。もしかして、ずっと私に遠慮していましたか?」

「……ええ。蘇芳さんに失望されたくありませんでしたから」

「なんてことだ。鴇さんの中の私は、随分と薄情な人ですね」


 落ち込んだ蘇芳に、鴇は慌てて誤解だと弁明した。そうして蘇芳が気分を持ち直すと、今度は小柄で温かい鴇が腕の中で収まりが良い事に気付く。序(つい)でとばかりに暫し妻をそのまま腕に閉じ込めた。




 翌(あく)る日、日課である妻の昼寝を覗きに行くと、そこに目当ての姿はなかった。不安になって探していると、妻は居間で本を片手に難しい顔をしていた。


「今日は昼寝をしないのですか?」


 蘇芳の声で鴇の身体がビクリと反応した。途端にオロオロする様子がなんだか少し物寂しい。


「き、今日はその、気分ではなかったのです」

「本当に?」

「…………。」

「遠慮はしなくて良いと伝わったと思っていました」

「申し訳なくて、昨日の今日ではとても許せなかったのです」


 しょんぼりと俯く鴇に近寄った蘇芳はその隣へと腰を下ろした。妻の手に握られたままの本の表紙を覗く。それは近頃、女性を中心に流行している恋物語だった。


「何処か難しいところがありましたか?」

「え、」

「顔にそう書いてあったので、気になってしまいました」

「……実はあまり読書はしたことがなかったのですが、蘇芳さんに倣って趣味にしようかと思ったのです。ただ、読みたくても目が文字を滑ってしまって難儀していたところです」

「ああ、成程。そういう日もありますね」

「蘇芳さんでもそういう経験があるのですか?」


 瞠目する鴇の手から本を抜き去った蘇芳は開かれた頁(ページ)を確認する。余程苦戦したのか、或いは開いたばかりだったのか、まだほんの序盤だった。


「因(ちな)みに、この本を選んだのは何故ですか?」

「流行り……というのもありますけど、蘇芳さんの名前を見つけたものですから、気になってしまったのです」


 その恋物語は西洋の本が原作であり、蘇芳が少し前に翻訳をしたものでもあった。飛ぶように売れているとは耳にしていたが、まさか妻の手元で実物を見るとは思わなかったのだ。


「私の名前で、ですか」

「ええ。だからこそ大切に読みたかったのです」

「ですが、今は読めないのでしょう? 一度休んではどうですか?」


 蘇芳は徐(おもむろ)に自身の大腿部を示すように叩いた。その意図が伝わらず鴇は困惑気に夫を見つめた。


「昼寝ならどうぞ。私の足を枕にしてください」

「できませんよ、きっとわたし重いですし!」

「知っていますか、鴇さん。猫を愛好する人には、その身体に乗られた不自由さすら愛しく思うそうですよ」

「知っていますが、わたしは猫ではありません」

「寝るのが好きなら寝子(、、)でいいじゃないですか」

「揶揄っていますか?」

「いいえ、愛でています」


 大真面目に答えた蘇芳に意表を突かれて、鴇は呆然とした表情のまま黙ってしまった。程なくして両手で顔を覆ったが、その耳は赤くなっていた。


「私は鴇さんの好きなことを否定しません。堂々としてくれた方が私も仕事や読書(好きなこと)に打ち込めます」

「本当に、良いのですか?」

「はい。寝子の昼寝を眺めるのがここ最近好きになりましてね」

「ぁ……。いつから私の昼寝をご存じだったのですか?」

「あれは確か、卯月の終わり頃だったでしょうかね」


 この日は文月に入り、もうすぐ季節が変わろうとしている時期である。鴇は自らの敗北を悟った。


「今日は天気があまりよくないのであの猫も来ないでしょう。私も必要な物を持って来ますから、鴇さんはその間に決めておいてください」


 蘇芳は妻の手に本を返すと一旦書斎に戻り、読もうとしていた本を数冊見繕った。居間に戻れば、鴇は蘇芳が座りやすいように場所を整えていた。その後ろに昼寝の肌掛け布団があるのを見つけて蘇芳の頬が緩む。


 用意された座布団に腰を下ろした蘇芳の隣で鴇が「失礼します」と丁寧に座礼をした。蘇芳が先程のように大腿部を叩いて示すと、おずおずとそこに妻の頭が預けられた。


「遠慮なく寝てくださいね」

「……はい。恐れ入ります」


 蘇芳は片手で器用に本を読みながら、空いた手で妻を撫で始めた。それに落ち着かない様子の鴇だったが、次第に眠気の方が勝って意識を落とす。そんな些細な信頼が、蘇芳には堪らなく愛おしく思えた。


 静かな部屋には紙を捲る音と二人分の呼吸、そんな穏やかな時間が流れていた。


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