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少しだけ軽くなった

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/20

プロローグ ─告白─


「私は父を、」


 そう書きかけて私はやめた。

 その続きを書くのが恐ろしかった。


 ペン先が原稿用紙の上で止まったまま、インクがじわりと滲んで、小さな染みをつくった。その染みを見ていると、なぜか涙が出てきた。


 泣くつもりなんて、なかったのに。



一.


 父が亡くなって一年が過ぎた。


 春が来て、夏が来て、秋が深まっていくのを、私はただ窓の外から眺めていた。季節が変わるたびに、あぁまた父のいない季節が増えた、と思った。それだけだった。


 毎日、父の介護に明け暮れた日々が終わり、悲しみよりもホッとした自分に、少しだけ嫌悪を抱いた。


 朝、目が覚めたとき、もう病院へ行かなくていいのだと気づいて、身体の奥底から湧き上がってきたのは、安堵だった。悲しみでも、寂しさでもなく、確かな、恥ずべき安堵だった。


 布団の中で、私は自分の右手をじっと見た。父の爪を切っていた手。父の身体を拭いていた手。父の怒鳴り声を聞きながら、震えを押し殺していた手。


 父の死を素直に悲しめない自分を、自分で責めた。


 遠くに住んでいる姉は、なかなか実家に帰ってこなかった。


 父の葬儀で十年以上ぶりに再会した。私たちは無言だった。


 霊柩車が去っていく背中を並んで見送りながら、姉が隣にいることを、私は空気の動きで知った。視線を向けることができなかった。向けてしまったら、何かを言ってしまいそうだった。言ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうだった。


 特に仲の良い姉妹ではなかった。話すこともなかった。


 姉はもともと感情を表に出さない人間だった。子供の頃から、いつも少し遠いところにいるような人だった。母が病気になったとき、姉は黙って家を出て行った。父が倒れたとき、姉は「仕事があるから」と電話口で言った。それきりだった。


 母が亡くなってから、私はずっと父と二人暮らしだった。


 最初の頃、父はまだ元気だった。二人で食卓に向かい合い、他愛もない話をした。父は晩酌をしながらテレビを見て、私は洗い物をしながら笑い声を聞いていた。それが日常だった。好きな日常ではなかったかもしれない。でも今となっては、あの頃の静けさが愛おしくてたまらない。


 父が入院してから一人暮らしになったが、仕事と家事と父の世話の三重苦に、「いつも元気だね」と言われる私も、さすがに心が折れそうだった。


 職場の同僚たちは私の顔を見るたびにそう言った。大変なのに、偉いね、と。私は曖昧に笑い返した。元気なんかじゃなかった。ただ止まれなかっただけだ。止まってしまったら、自分が何者なのかわからなくなりそうで、怖かっただけだ。


 ──私は、父を、


 考えまいとしていた思考が頭をもたげる。


 ──私は、父を、殺した。


 その言葉が頭の中で静かに、はっきりと像を結ぶたびに、私は深呼吸をして、台所へ行き、水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃に落ちる感覚だけを追いかけた。それが私の、逃げ方だった。



二.


 私の罪を告白せねばならない。


 三年前、父が脳梗塞で倒れ、救急車で運ばれた。


 その日の朝、私たちは言い争いをしていた。些細なことだった。もう何が原因だったかも覚えていない。父の怒鳴り声を背中に受けながら、私は玄関のドアを乱暴に閉めて職場へ向かった。振り返らなかった。


 昼過ぎに、病院から電話が来た。


 そのまま手術、入院となり、晩年は入院生活を余儀なくされた。回復の見込みはなかった。


 先生に説明を受けながら、私はずっと、あの朝のことを考えていた。もし私が振り返っていたら。もし最後にちゃんと顔を見ていたら。そんな「もし」は何の意味も持たないとわかっていても、頭から離れなかった。


 父と二人で住んだ一軒家に私は一人で住み、毎日、家と職場と病院を往復するというルーティンができた。


 病院の廊下はいつも同じ匂いがした。消毒液と、古い建物の湿った空気が混ざったような匂い。私はその匂いを嗅ぐたびに、胃がきゅっと縮まるような感覚を覚えた。それでも毎日行った。行かなければならないと思っていたし、本当は、行きたかったのだと思う。あの頃の私は、まだ。


 父のために爪を切り、ぬるめの濡れタオルで手足や顔を拭いてやり、髪を整えた。


 ベッドに横たわる父は、あんなに大きく見えた人が、嘘みたいに小さくなっていた。私の手の中で、その手を握ると、皮膚がたるんで、骨の形がはっきりわかった。こんなにも細くなっていたのか、と思った。こんなにも、と。


 父は文句ばかりだった。苛立ちをぶつける相手が私しかいなかったのだから仕方がない、と今なら思える。


 あの頃は、そう思えなかった。


 タオルの絞り具合が悪い、爪の切り方が雑だ、見舞いに来る時間が遅い。声が大きい、声が小さい、顔が暗い。何をしても、何をしなくても、父は怒った。ある夜など、持っていたプラスチックのコップを私に向かって投げた。コップは私の肩をかすめて、床に転がった。父はそれでも怒鳴り続けた。看護師さんが飛んできて、私は廊下に出た。


 病院の古い壁にもたれかかって、私は泣かなかった。泣く気力もなかった。


 自らのままならない身体に文句を言い、私の世話の仕方に文句を言い、病院に文句を言い、怒鳴ったり暴れたりした。


 かつての父を、私は知っていた。だから、これが父ではないと思うようにした。病気が父を変えてしまったのだと。そう思わないと、やっていけなかった。


 私はだんだん限界だ、と思うようになった。


 「もう終わってほしい」と思った。

 父が死んでくれたら、この地獄は終わる。

 その思考は、いつの間にか私自身の中にこびり着くように定着した。

 自身を嫌悪し、自身の思考に恐怖を抱き、自らを、父から遠ざけた。


 最初は週に五日だった面会が、四日になり、三日になった。用事があるから、仕事が忙しいから、と自分に言い訳をした。父が怒鳴るのが恐ろしかった。父に会いに行くたびに自分が少しずつ削られていくような感覚が、恐ろしかった。


 行かない日、私は家のソファに座ってぼんやりとテレビを見た。テレビに何が映っているか、ほとんど頭に入らなかった。父が今頃何をしているか、考えた。怒っているだろうか。私が来ないことに気づいているだろうか。それとも、もうわからなくなっているだろうか。


 そして、父は一人で亡くなった。


 朝の五時十七分、と後で教えてもらった。私が眠っている間のことだった。枕元の電話が鳴ったとき、私はすぐにわかった。受話器を取る前から、もうわかっていた。



三.


 私が殺したも同然だ、いや、私が殺したのだ。


 父を。この手で。


 幼い頃から優しい父だった。怒られても、手を上げられたことなんて一度もなかった。


 私が小学校の低学年の頃、自転車の練習をした夏の日のことを覚えている。何度転んでも、父は辛抱強く後ろを押してくれた。膝を擦り剥いて泣き出した私に、父はしゃがんで目線を合わせ、「痛かったな」とだけ言った。うまくなれとも、諦めるなとも言わなかった。ただ、痛かったな、と。


 その一言が、妙に忘れられない。


 よく昔話を語ってくれた。自分が若い頃の話、私が生まれた日の話、母との馴れ初めの話。風呂上がりに縁側へ並んで腰かけて、父は語り、私はその横顔を見ていた。父の話はいつも少し大げさで、でも嘘ではなかった。


 だが、父は変わってしまった。病気になってから。


 いや、本当にそうだろうか。


 病院の廊下で、あのコップが床に転がる音を何度も夢に見た。そして夢の中でいつも、私は気づく。あれは父ではなかった。あれは、見知らぬ場所に閉じ込められて、身体も言葉も思い通りにならなくて、それでも必死に私に向かって手を伸ばしていた、父だったのだと。


 私が遠ざかったとき、父はどう思っただろう。



四.


 父の四十九日が終わって間もない頃、姉から電話があった。


 珍しいことだった。葬儀が終わってから、私たちはひとことも話していなかった。着信画面に「姉」の文字が表示されたとき、私はしばらくそれを見つめてから、ゆっくりと画面を押した。


「もしもし」


 姉の声は、子供の頃と変わっていなかった。少し低くて、感情の起伏が読みにくい声。


「お父さんの荷物、どうする?病院に預けたままのものがあるんでしょ」


 そういうことか、と思った。用件があるから電話してきた。それだけだ。


 「もう引き取ってある」と私は言った。「先月のうちに」。


 「そう」しばらく沈黙があった。「……大変だったね」。


 思いがけない言葉だった。私は何も言えなかった。


 「一人で全部やってたんだもんね」と姉は続けた。「私が何もしなかったから」。


 「別に」と私は言った。「姉さんには姉さんの生活があるから」。


 それは本心ではなかった。ずっと恨んでいた。夜中に病院から帰るたびに、どこか遠い街で眠っているであろう姉のことを、恨んでいた。でも今は、その恨みがどこかへ行ってしまっていた。父が死んだとき、父への怒りが消えてしまったのと同じように。


「お父さん、最後のほうはひどかったんでしょ」


 私は少し考えてから、「そうだね」と言った。


 「私は怖くて会いに行けなかったの」姉の声が、わずかに揺れた。「変わり果てた顔を見るのが、怖かった。子供みたいなことだって、わかってるんだけど」。


 電話口で、私は目を閉じた。


 姉も、逃げていたのだ。私と同じように。ただ逃げ方が違っただけで。


 「私も」と私は言った。「最後のほうは、あまり行けなかった」。


「そう」


「父が一人で死んだの、私のせいだと思ってる」


 口に出してしまうと、思っていたより軽かった。石のように重たかったはずの言葉が、空気の中にひっそりと溶けていった。


 姉はまたしばらく黙っていた。それから言った。


「お父さんね、前に私に言ってたの。あの子は優しすぎる、って」


 私は息をのんだ。


「あんたのことだよ。優しすぎて、全部背負い込む、って。心配してたみたいよ。あんたがいなかったら、お父さんもっと早く死んでたと思うよ」


 電話を切った後、私は台所の椅子に座ったまま、ずっと動けなかった。窓の外はもう暗くなっていた。父が私のことを、心配していた。怒鳴り続けながら、私のことを、案じていた。


 それがどうしても、信じられなかった。

 それがどうしても、信じたかった。



五.


 あの夜のことを、書かなければならない。


 父が死ぬ、三日前の夜のことだ。


 私は病院へ行かなかった。行こうとは思っていた。仕事を終えて、駅のホームに立って、病院のある方向の電車を待っていた。でも電車が来たとき、私は乗れなかった。足が動かなかった。


 発車メロディの音が鳴り、乗り降りする乗客の足音が慌ただしく聞こえた。電車のドアが閉まる瞬間、体がわずかに前に傾いだ。


 ──だが、戻した。


 「今日行かなくても、死なない」と心の中で唱えた。


 もし死んでも、それは私のせいじゃない、とも思った。


 その瞬間、私は少しだけ軽くなった。


 反対方向の電車に乗って、帰宅した。


 家に着いて、コートも脱がずにソファに倒れ込んだ。天井を見ながら、ただ呼吸をしていた。涙は出なかった。感情というものが、どこかへ行ってしまったようだった。


 翌日も行けなかった。翌々日も。


 行けなかったのではなく、行かなかったのだ。私はそれをわかっていた。疲れていた。もう限界だった。それは本当のことだ。でも行こうと思えば、行けた。私の足は動いた。ただ、動かさなかっただけだ。


 そして三日後の夜明け、電話が鳴った。


 父の部屋のカーテンは、いつも少し開いていたと看護師さんが後で教えてくれた。父が自分で開けていたのだという。窓の外の、小さな空が見えるように。


 父は最後に何を見ていたのだろう。


 夜明け前の空は、暗かったはずだ。でも父の顔は窓のほうへ向いていた。

 ベッド横の椅子が少しだけベッド側を向いていた。

 伸ばされたままの手がベッド脇からはみ出ていた。


 私にはわからない。

 わからないまま、抱えていくしかない。


 それが、私の罰だ。



六.


 春になった。


 実家の庭に、梅の花が咲いた。父が若い頃に植えたという老木で、毎年、誰かが見ていようといまいと、同じように白い花を咲かせる。


 縁側に腰をかけて、その花を眺めながら、私はずっと考えていた。


 父を、私は殺したのだろうか。


 もし私が毎日欠かさず会いに行っていたら、父は死なずに済んだのだろうか。それは、違う。父の病気は治らなかった。回復の見込みがなかった、と先生は言っていた。私がどれほど献身的に看病していても、結末は変わらなかったはずだ。


 では、私は何も悪くないのか。


 それも、違う気がする。


 私が父のそばを離れたとき、父は一人だった。恐ろしかっただろう。寂しかっただろう。それは確かだ。そのことを、私は一生背負っていく。


 でも。


 私は三年間、毎日走り続けた。誰にも頼れずに。誰にも助けを求めずに。自分が壊れる寸前まで、走り続けた。そのことも、また確かなのだ。


 人間には、限界がある。


 その当たり前のことを、私はうまく呑み込めずにいる。限界を持った人間が、限界まで頑張っても足りなかったことを、罪と呼んでいいのかどうか。


 梅の花びらが一枚、風に乗って縁側に落ちてきた。拾い上げると、ひんやりして、薄かった。


 父はこの縁側が好きだった。冬でも日当たりが良くて、ここに座って日向ぼっこをするのが習慣だった。母が生きていた頃は、二人並んで座っていたらしい。


 私は今、一人でここに座っている。


 父のいない庭を見ている。


 泣けない、とずっと思っていた。でも今は、少しだけ泣いていた。声も出さず、そうと気づかないほど静かに。涙がほほを伝って、顎の先から落ちた。


 涙が顎の先から落ちて、縁側の板に小さな丸い跡をつくった。



エピローグ


 私は今、あの染みだらけの原稿用紙の前に座っている。


 こうして書いてきて、私はようやくわかった。


 私が恐ろしかったのは、「父を殺した」という言葉の続きではなかった。本当に恐ろしかったのは、その先に続く言葉だった。


 ──私は父を、愛していた。


 そしてその愛し方を、最後まで知らなかった。


 それを認めることが、こんなにも苦しかった。


 愛していたから、傷ついた。愛していたから、逃げた。愛していたから、今も、こんなに後悔している。


 父は私を心配していたと、姉は言った。優しすぎると。


 もし父が正しければ、私の優しさは父に届いていたのかもしれない。不器用で、不十分で、途中で途切れてしまった優しさが。


 もし父が間違っていても、それでも構わない。父が最後にそう思っていてくれたなら、私は少しだけ救われるのかもしれない。


 私はペンを持った。


 インクが滲んでできた染みの隣に、続きを書く。


 震える手で、でも今度は止まらずに、最後まで書く。


「私は父を、愛していた。」


 書き終えて、私は原稿用紙を置いた。


 窓の外では、春の風が吹いていた。


 どこかで梅の花が散っているだろう。父が植えた、あの老木の。


 父さん、と私は声に出さずに呼んだ。



 返事は、なかった。

 明日になれば、また「私が殺した」と思うかもしれない。

 それでも、私は書いた。



─完─

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