『黄金の出納帳・住之江へのパッキング』
東京の自宅。かつてサラリーマン時代の「静かな独身寮」であったその部屋は、今や「最新鋭の特命作戦本部」へと完全な変貌を遂げていた。
「……よし、チタン製インペラ(プロペラ)の予備、三セット。外付マブイ専用の絶縁テスター……。それから、スエの『勝負服(正装用唐草バンダナ)』」
健太は左手でテキパキと機材をカーボンケースに詰め込みながら、完治したばかりの右手の感触を確かめるように、ゆっくりと、しかし力強く拳を握りしめた。過酷なリハビリと、あの「片手操縦」の特訓を経て、彼の腕はもはや以前の「特命係長」を凌駕する、精密機械のような反応速度と、鋼のような剛性を手に入れていた。
「フガッ……フゴー!」
スエは、自分の専用キャリーバッグの中に、お気に入りの無添加ササミジャーキーと、福岡でハクから譲り受けた「開運のマブイお守り(犬用)」を大事そうに放り込んでいた。その鼻息は、これから始まる「頂上決戦」を予感しているかのように荒い。
「わかってるよ、スエ。大阪は『食い倒れの街』だ。だが、俺たちは食われる側じゃなく、賞金の一億円を『食らい尽くす』側で行くんだからな。端数の一円まで、きっちり計上してやる」
健太はスエの頭を優しく撫で、デスクの上に広げられた**「住之江競艇場・特殊水面分析図」**に鋭い視線を落とした。
住之江は「ボートレースの聖地」と称えられるが、その実態は「都市型競艇場」の極致である。
水質は淡水で浮力が小さく、モーターのパワー差が如実に出る。さらにスタンドの巨大な建物に囲まれているため、風が複雑に巻き、水面に不規則な「うねり」を生じさせる。そして何より、ピットから第2マークまでの距離が極端に短く、待機行動における壮絶な「進入争い(前付け)」が日常茶飯事として発生する修羅の場だ。
「……ここは江戸川のような自然の猛威が相手じゃない。研ぎ澄まされた人間同士の、剥き出しの『欲望』と『エゴ』が渦巻くコンクリートのジャングルだ。一瞬の計算ミスが、即座に倒産(転覆)に繋がる」
そこへ、スマートフォンの電子音が室内に響いた。
西貴斗からのビデオ通話である。
『……佐伯さん。準備はいいですか。住之江のピットは今、選ばれし十八人の怪物の殺気で、酸素が希薄になっていますよ』
画面の中の西は、すでに大阪入りしているのか、背景には通天閣がそびえ立っている。その瞳には、かつての冷徹な「計算」だけでなく、一人の勝負師としての熱い「渇望」が宿っていた。
「……西くん。酸素が薄いなら、自分のマブイを燃料にして呼吸するまでだ。……君の『完璧な計算式』、住之江のコンクリートの壁に叩きつけて、答えを出してやれ。俺もすぐに行く」
翌朝。品川駅の新幹線ホーム。
健太は、整備士・白石が不眠不休で仕上げた「新生・ハヤブサ」のコアユニットが納められた、銀色のアタッシュケースを手にしていた。その中には、福岡で砕かれた翼を再生させ、さらなる高みへと昇華させた「特命仕様」のパーツが静かに眠っている。
「佐伯さん! 忘れ物ですよ!」
発車ベルが鳴り響く中、人混みをかき分けて駆け寄ってきたのは、古閑まきこであった。
「これ、福岡のみなみちゃんから。……ハクの毛を特殊な繊維に編み込んだ、ハヤブサ専用の『マブイ・フィルター』だそうです。……それと、これは私からの先行投資です。……『賞金王・佐伯健太』の独占取材権、一億の価値で予約しておきますから」
古閑から手渡されたのは、住之江の必勝祈願で知られる神社の御札だった。
「……ああ。行ってくる。利益の最大化(優勝)を約束しよう。……スエ、決算の時間だ」
「ワンッ!!」
第四章:黄金のヘルメットを目指して
新幹線『のぞみ』が、滑るようにホームを離れ、加速していく。
車窓の外を流れる景色は、もはやかつての「事務職・佐伯健太」が眺めていた退屈な日常ではない。
賞金一億円。そして競艇界の頂点。
おじさんとパグは、黄金のヘルメットを手中に収めるため、そして東雲グループとの戦いで失ったすべてを取り戻すため、浪速の激流へと突き進む。
「……住之江。俺の人生における、最大の『最終監査』といこうか」
健太は眼鏡を指で押し上げ、流れる景色の中に、これから立ち向かう「怪物たち」の姿を思い描いた。
その隣で、スエは新幹線の揺れを心地よさそうに受け止めながら、すでに戦いの夢を見ているのか、小さく前足を動かしていた。




