9話 悪役令嬢な母とお庭でおやつタイムです
それから半年ほどして、私はある程度歩けるようになった。
これがまた結構に楽しい。
なにもできなかったのが、どんどんとできるようになっていく感覚は、大人では味わえないものだ。
だから私は果敢に廊下へと出ていく。
「アイ様、頑張ってください」「ちゃんと見守ってますからね」「はぁ、ほんと可愛い」
……変わらず三人体制の使用人らに見守られながらだから、少しやりにくいが、それはしょうがない。
私はとりあえず十メートル程度をゆっくりゆっくり歩いていく。
が、長くなってくると、だんだん足に力が入らなくなって、膝から床に崩れ落ちてしまう。
ただ、まったく痛くはない。
それがなぜかといえば、あのお爺のおかげである。
なんと彼は、私が歩き出して転んでも大丈夫なようにと、大金をつぎこみ屋敷のフロアマットを石のものから、ふかふかのものへと変えてくれたのだ。
なんならこのまま座り込んでいたくなるほど気持ちがいい。
私はそのちょうどいい沈みこむ感覚が気持ちよくなって、そのまましばらく座り込む。
そうしていたら、そこにリディアが通りがかった。
彼女はすぐに腰をかがめて、私に視線を合わせてくれる。
「あら。どこにいるのかと思ったら、また練習していたの?」
「うん」
「ふふ、偉いわね。でも少し休まない? お菓子を用意したの」
なんとも魅力的な提案だった。
いくらウォーキングが好きになったとはいえ、おやつにはどうしたって敵わない。
離乳食を終え、普通食が解禁されたのは、ついこの間だ。
今はとくになんでも食べたい盛りなのである。
私がこくりと頷いて、リディアは頭を一つ撫でてくれてから、抱え上げてくれる。
その際、私を見守ってくれていた使用人らとばったり目があった。
彼女たちは揃いも揃って、穏やかな表情をしている。
うち一人からは、「ほんと尊い」なんて言葉が漏れ聞こえてきて、私は苦笑いせざるをえなかった。
そんな反応などつゆも知らず。
リディアは鼻歌を歌いながら実に上機嫌だ。
軽い足取りで、私を一階の廊下から出ることのできる、ウッドデッキへと連れて行く。
秋に向かおうという季節だ。
昼下がりで太陽が優しく照らし、心地よい風が通り抜ける開けた空間は、それだけで開放感がある。
デッキの先に広大な庭があるのも、それを演出しているのかもしれない。
デッキの中央にあるテーブルには、すでにコックメイドのサラさんが待機していた。
彼女は私たちが来るやいなや、リディアの紅茶と私のミルクを注いでくれる。
机の中央には、おやつも準備万端だ。
そのラインナップはといえば、わかりやすい。
お野菜をマッシュして焼いたカラフルなクッキーが私のもの。
あとの明らかに砂糖たっぷりのドーナツのようなものや、鶏皮を揚げたものはリディアのものだ。
リディアは超絶お嬢様にもかかわらず、意外とこういうジャンキーなものを好むのだ。
鶏皮揚げに至っては、もはや酒のあてだよね……。紅茶に合うのかしら。
と、私は思うのだけど、リディアはまったく気にせず、むしろ嬉しそうに頬張って、
「屋台で食べなくても、ここであなたと食べられるのも、とっても幸せよ」
私にこう投げかける。
それから、鶏皮をつまんで、ばりばりと本当に美味しそうに噛む。
きっと、いい油が染み出しているのだろうことは、その表情だけで窺えた。
私とて、元現代人。
前世ではコンビニですぐに、あぁしたジャンクを手に入れられる環境にいたわけで。
たまにそうしたものは無性に食べたくはなるが、さすがに一歳で食べようものなら、確実にお腹を壊してしまう。
だから、ここはぐっと堪えてーーーーのつもりが、気づけば、鶏皮に手を伸ばしそうになっていた。
そこをはしっと、リディアに掴まれる。
「こら、アイ。だめよ、これはママの。もう少し大きくなってからね?」
「……あい」
……不覚だ。
多少はマシになってきたとはいえ、まだまだ欲には逆らえないらしい。
私は反省して、自分用の野菜クッキーをいただく。
そしてこれがまた、かなり美味しい。
ただマッシュしただけではなく、野菜の甘みがしっかり引き出されており、塩気もほどよい。
さすがは一流貴族家の料理人だ。
それからは鶏皮への邪念も忘れて、私は野菜マッシュをありがたくいただく。
そうしていたら、リディアが紅茶を軽く啜ってから口を開いた。
「アイ。ここのお花は綺麗でしょう?」
「きれい」
「ふふ、分かってくれる? ママね、ここでゆったりする時間も結構好きなのよ。だから、どの季節でも花が咲くようにしてもらっているの」
鶏皮と打って変わって、公爵令嬢らしい優雅な趣味だ。
ビオラ、シクラメンなど、彼女は色々な花の名前を教えてくれる。同時にその花に関する豆知識まで聞かせてくれるのだから、結構に博識だ。
一歳と半分くらいの子に聞かせるには難しすぎる気もするが……
「ビオラは、あなたに似ているかもしれないわね。綺麗な花よ。あなたの目と同じ」
楽しそうに語るリディアを見ていると、こちらも嬉しくなるから、そこは大した話じゃない。
実に平和で、心温まる時間だった。どこまでも続いていきそうな気さえしていたのだけれど、しかし。
それは、唐突に終わりを迎える。
蜂の襲来によって。
「……危ないわね」
花に惹かれてやってきて、混乱してしまったのかもしれない。
蜂はどういうわけか、私の周りを飛び回り続ける。
逃げたかったけれど、さすがに機敏に動けるわけでもない。
どうしようかと思っていたところ、それは繰り出された。
「アイ……!!」
リディアの手元から伸びてきたのは、氷だ。
いや、氷塊と言ったほうがいいのかもしれない。
そしてその冷たさときたら、ただの氷とは違う。
日に当たっても、しばらくは溶けなさそうなくらい、強烈に凍てついている。
それは私の顔のすぐ手前でばっちりと、蜂を捕らえていた。
羽をはためかせたままの状態で閉じ込めているあたり、一瞬の出来事だったのだろう。
リディアは「やってしまった」というように、すぐに氷を引っ込める。息絶えた蜂の死骸が、はらはらと机の端に落ちる。
それを見ながら私は、リディアが悪役令嬢であること、強烈な氷魔法を使えることを改めて思い出していた。
それこそレイナルトを監禁して、閉じ込めてしまえるくらいには、恐ろしい威力なのだ。
今の彼女があまりにもゲームと違いすぎて、いつのまにか前提が、頭から抜け落ちていた。
「……えっと、ごめんなさい。驚かせたわね?」
リディアは私の方に駆け足で回ってくると、私を覗き込んで、ぎこちない様子でこう確認をしてくる。
さっきまでと打って変わって、その声には元気がない。眉も下がっており、不安そうな表情に映る。
たぶん、本当に咄嗟にやってしまったのだろう。
そしてそれが私を怖がらせたかもしれないと、危惧しているのだ、きっと。
私のためにやったことで、リディアが変に思い詰めてしまうのはまったく本望ではない。
だから私は、目一杯に首を横に振る。
それからリディアへ目を向けて、
「あいがと、まま。まま、すご」
回らない舌でどうにか、こうお礼を述べた。
これが、今の私にできる目一杯だった。
リディアはなにも悪くない。だから、気にすることなく、これからも同じように接してほしい。
そんな想いが伝わったのかどうか。リディアの顔にはすぐ、柔らかい笑みが浮かぶ。
「あなたは本当に、素敵な子ね」
それから、リディアは私を抱きしめて、こう言ってくれた。
あなたの方がよっぽど素敵なのに、と口では言えないから、強く抱きしめ返して伝えた。
♢
引き続きよろしくお願いします!




