波
波
「はだしで行こう」
彼は彼女にそう言った。
松林を通り抜けて、草地と砂浜の境目まで来たとき彼は彼女にそう言った。
「そうね」
二人は靴と靴下を脱いで砂の上に一緒に並べて置いた。そして波打ち際まで砂浜を下る。
砂が海水で濡れているところへ入り二人は立ち止まった。すぐに来た次の波が二人の足を洗う。
五月と香織は修学旅行でこの地に来ている。今日は生徒全員が数人のグループに分かれ自由にこの地域を散策する日だ。くじ引きで二人は偶然にも同じグループに入った。それもほとんど付き合いの無い生徒ばかりのグループだった。その偶然がこの自由散策の日を二人だけで過ごす事を可能にさせた。
「もし先生に見つかったら、二人とはぐれたと言っといて」
そう言って二人はグループと別れ、このおよそ生徒達が来ないであろう長い砂浜の一番外れまで歩いてきたのだ。
五月はズボンをまくり上げ、香織はスカートを器用に太ももの辺りで巻きつけてくくりつけている。
足元の冷たい水と丸い砂粒の感覚が二人には心地よい。波が来たとき波に浮く砂の中に足を入れる。海水と砂が足を撫でて行く。
二人は下を見ながら足を動かし自ら海水と砂を撫で、その感触をひとしきり楽しんだ。打ち寄せては返す波、その繰り返しに二人の胸は高ぶった。
二人は手を取り合い、今度は互いの目を見ながら足を動かした。互いの微笑みが楽しみを二倍にし、取り合った手がさらにそれを二倍にした。
二人の足の動きは次第に大胆になる。
足で砂をすくい上げたり、足で砂をかき回したり、互いに足を踏みあったり。その間も二人は見つめ合う。
気付かぬうちに二人は徐々に沖の方へ運ばれていく。ひときわ大きな波が来たとき、波が二人の衣服を濡らした。二人は軽く悲鳴を上げ飛び跳ねた。着地したときに二人はほぼ抱き合っていた。
夏と秋の境目の季節の薄い服装を通して二人は互いの体の血潮と脈を感じる。二人は足元を見る。かしげた頭がくっつき、何かが一致したと感じて二人の心もくっついた。
次の小さな波は二人には感じられなかったようだ。
*
二人は松林の中にあるベンチに座り、靴が履けるようになるまで足を乾かしていた。
「服濡れちゃったわね」
「すぐ乾くさ」
「時間までに乾くかしら」
「足さえ乾けばいいよ。そうすれば靴が履ける。服が濡れているなんて誰も気がつかないさ」
「そうね、きっと気付かないわ」
二人は分かれたグループの生徒達と決めた時間に決めた場所で落ち合う約束になっている。
「彼とはどうしてるの」
「時々会ってるわ、でもなるべく二人きりで会わないようにしてるの。他のカップルを呼び集めてテニスとかしたり」
「そうなんだ。二人きりになった時には、加藤君は何か困るようなことは言わないの」
「言わないわ。まだそこまでの雰囲気じゃないの」
二人の会話は徐々に感覚のボールから論理のボールに変わっていく。
香織には公な加藤君という恋人と呼ばれる人がいる。だが香織にはそれは自分のある役目だと割り切っていた。彼女が本当に魅かれているのは五月だ。彼女に罪の意識は無かった。加藤君も鈍感ではない。自分の態度を長く見ていればそのうちその熱も下がるだろう。もしそうならなければけじめをつける覚悟はあった。今は誰も傷つけたくなかったのだ。加藤君には一夜の夢を見てもらって、現実に帰ってくれれば良い。そう彼女は思っていた。
「僕は君が悩んだり、悲しんだりするのが怖いんだよ」五月は心にも無いことを言った。
香織は微笑んで五月の方が自分より子供だなと思った。
「二人で抜け出したことが加藤君に知れたら彼は何て言うだろう」
香織はもしそうなったら彼を酷く裏切り傷つけることになるということを実感し少し夢が覚めた。仮に彼が何も言わずに自分から去ったとしても、それは同じ結果だ。しかし彼女は直ぐに夢の世界に戻った。そんなに深刻なことにはならないと知っていた。それほど彼は自分を愛していないことを知っていた。
***
二年生に進級した時、香織と五月、そして加藤君は同じクラスになった。香織と五月は列は離れていたが二人とも一番前の席だった。二人はふと横を見たとき初めて目が合った。若者の肌は正直だ。二人は互いにその潤った肌の下の心の表情を読み取り、相手が自分に魅かれていると直ぐに確信した。
二人は席替えが行われるまでの数日間、そのまなざしで遊びあった。
――視線が合う。香織は直ぐに視線を斜め上にそらした。その明らかな笑みを隠すことを忘れて。
――視線が合う。五月は無表情に視線をそらす。視線の先には何も無く意識は自分を見つめていることを香織はお見通しだ。
二人は言葉を交わすことは無かった。言葉以上のものをすでに交わしていた。毎日。毎時間。二人は行為を繰り返す。二人は既に完全に確信していた。二人は互いしか異性として見ていないことを確信していた。鳥かごに入ったつがいの小鳥のように物事は明らかだった。
*
香織は加藤君から交際を求められとき五月には一切断り無く承諾した。丁度皆がそういう事をし始める時期だった。自分にもそういう人が現れたことを意外とは思わなかった。香織に彼氏がいないという事は皆知っていたので、生返事をしてしまうと周りの生徒から交際するように促されるのが分かりきっていたので、彼女は彼の申し出をあっさり承諾した。
五月は香織と加藤君が交際しているという話を聞いて何も奪われた気はしなかった。むしろ香織が人気者になっていることを喜んだ。加藤君がそれで一時の幸福感に浸り、何も傷を負わないだろうことも大いに喜んだし、加藤君が受け入れられることは決して起こりえないことを彼は確信していた。
*
二人が初めて言葉を交わしたのは、化学の実験で同じ班になった4月下旬だった。先生が実験の手順を説明している間、四人が座っている実験机を挟んで二人は向かい合った席に居た。二人の意識は互いにあった。いよいよ実験をはじめる段になると香織は五月のいる側へ来た。
実験机にいた残りの二人には形だけの実験だった。香織と五月はままごとの様に実験をする。香織は感情を抑えられず静かにはしゃいでいた。五月は冷静を装った。五月は近づく香織の顔、時々触れ合う手、彼女の美しい身体の輪郭を感じながら沸き立つ心を抑えていた。二人の実験。二人で見つめ合う以外の事をする始めての実験。
四人で教科書通りの手順で進める化学の実験。香織と五月の確信に満ちた実験。それらは法則によって当然に成功した。それらは共に芳香族を生成して終わった。
***
松林の中をさわやかな潮風がいきわたる。二人の足は乾いていた。二人は足の砂を払い落とし靴下と靴を履いた。約束の時間までまだ少し時間があった。
五月は周りを見渡した。近くに人がいないことを確かめると、身をゆっくり横に倒し、香織のひざに頭をゆだねた。香織は左手で彼の頭をふれるように撫で、右手で五月の肩を抱いた。
二人は大昔からの全ての恋人達が願ったように、この空間が永遠に続けばと思った。二人の空間はこの海に浸ったように、これからも色々なものに浸るだろう。それが続く限り二人は飽きることを知らない。
それが続く限りは。――二人の波が続く限りは。
二人はそれをよく知っている。知っているからこそ、できるだけ長く長く続くように限界まで速度を下げているのだった。