1984年6月
「ほらナッちゃん、そろそろ起きて朝ご飯食べなさい、遅刻するよ」
「んんー、もう朝か……。はーいおばさん 」
あれ私、久々にハッサクの家に泊ったんだっけ?
「誰がオバサンだって⁉」
ガラッとふすまが開けられ、ちょっと不機嫌な声を浴びせられた。
眠気マナコでぼやけていたピントがだんだん合ってくる。
そこに立っているのは……え⁉
私は頭から布団をかぶり直し、寝起きのボンヤリした頭で考える。
今そこにいる人、写真のお母さんにそっくりだ。
「ほら、早く起きなさい。本当に寝坊スケなんだから」
なにかがおかしい。だいたい私は寝起きがいい方で、お父さんに起こされることも滅多にない。
布団から恐る恐る顔を出す。
そして、その人をまじまじと見る。
「……お、お母さんなの⁉ 写真よりちょっと齢とってるけど?」
「こらこら、なに朝から失礼な事ばかり言ってるのよ! ほら、早く起きなってば!」
ぷりぶりしながらお母さん? は、ふすまをピシャッと閉め、スリッパをパタパタさせて私の部屋を離れた。
布団をどかして上体を起こす。これは敷布団だ。しかも部屋は和室で畳張り。
私の部屋は、フローリングの洋室のはずだ。で、いつもベッドで寝ている。
ここはドコ? 私はダレ?
こんな状況の時に発せられるお約束の言葉だけど、やっぱりそうつぶやくしかない。
だって、夕べは普通に寝て…………いや違う!
確か昨日は放課後にハッサクと一緒に『ノスタワールド』に行って、日本の昭和のゾーンに行って……あれ、それからどうしたんだっけ? ……ひょっとして、ココはまだ、あのアトラクション、メタバース空間の中?
目のまわりを触ってみたけど、ゴーグルはつけていない。だいたいこの部屋、あまりにもリアルすぎる。適当に散らかってるし、勉強机の上には教科書やなんかが無造作に置かれているし。まるで私の仕業みたいに。着ているパジャマはいつもと違って、あまり趣味のいい柄ではない。
立ち上がって勉強机の横のカレンダーを見ると……6月? え、1984年⁉ やっぱりここはメタバース空間?
このままここにいても、なにも解決しなさそうなので、お母さん? の命令に従ってキッチンに向かう。
廊下を歩きながらキョロキョロ見回す。明らかに私が住んでいる団地の間取りとは違う。
テレビの音が聞こえてくる方に向かい、恐る恐るその部屋に入った。テーブル席にお父さんが座っていて新聞を読んでいる。ウチ、新聞ってとってたっけ? すでにワイシャツにネクタイ姿だ。
「ほら、早く食べちゃいなさい。あとお弁当、忘れないのよ」
背を向け洗い物をしている女性が急かす。
あまり人に自分の行動を急かされたことがないので、なんか調子狂う。
「い、いただきます」
サバの塩焼き、野菜の煮物とナスのみそ汁の朝ごはんを食べる……それは、記憶のどこかにしまわれていた、ほっとする味。
「食べ終わったら食器を流しに持ってきてね」
そう言ってお茶をテーブルに置いてくれたその人は、どう見てもお母さんだ。
「じゃあ、行ってくる。甘夏もさっさと準備するんだぞ」
お父さんは新聞をたたみ、キッチンを出て行った。
急かされるがままに、私も食べるピッチを上げた。
「ごちそうさま……朝ごはん作ってくれてありがとう……お母さん」
「これはびっくり! いつもそれくらい感謝の気持ちを伝えてくれると張り合いが出るんだけどね」
おどけてそう言った。
私は食器を片づけ、自分の部屋に戻る。
なにがどうなっているのかわからないけど、今はこの流れに身を任せるしかない。いつもは私とお父さんが朝ごはんを交代で作っているので、助かるといえば助かるし。
改めて部屋の中をもう一度見回す。
だいたい今日は六月の何日で、今何時だ?
あっ、スマホは?
慌てて布団をめくって探す。だいたい朝起きるといつも布団の中に埋もれている。
ない……部屋中探し回ってもない。充電ケーブルさえない。
勉強机の上に液晶の時計があった。
6月18日、AM7時32分 月曜日
私は机の正面に貼ってある時間割を見ながら、本だなや引き出しなど、あちこちを捜索して教科書とノートを探し出し、学生カバンに詰めた。カバンはリュック型ではなくて、ショルダーバッグだ。
制服はどこだ? 部屋の隅のハンガーラックにぶら下がっているのは、いつものブレザーとスカートではなく、ジャンパースカートとボレロ。その隣のハンガーには、白いブラウスとループ帯がかかっている。
着てみると、サイズがぴったりだ。
洗面所で自分の歯ブラシの見当をつけ、歯を磨いていると、お母さんが洗濯機を回しに来た。
鏡に映った顔はやっぱりお母さんだ。
「お母さん……だよね?」
歯ブラシで少しフガフガ気味に声をかける。
「甘夏、あんた今日はホント変よ? 具合悪いの?」
お母さんは鏡の中の私を見つめ、あきれ顔で聞いてくる。
いやちょっと眠いだけ、と笑顔でごまかした。
やっぱり、お母さんだ。
〇
なにはともあれ、学校に行くことにした。
玄関のドアを開けると、そこから見える景色はいつもと違っていた。
目線が気のせいか低い。ここは、三階くらいか。
そして、視界に入る建物は、少し古っぽく、階数も少ない。
赤羽台には『まちとくらしのミュージアム』というのがあって、昔の団地の建物が何棟か展示されている。
それと同じような建物が見渡す限りズラリと並んでいる。
その眺めに呆然としながら、わが家の隣りの隣りに向かう。
チャイムを押そうとしたが、表札を見て指を止めた。ハッサクの苗字、『今井』ではなく、川崎。同じフロアのドアを見て回ったが、ハッサクの家の表札は無かった。彼はここにはいない?
階段で地上に降り、入口にずらりと並んだ郵便受けで『今井』を探したけれど、やっぱり見当たらない。仕方がないので、玄関を出て学校に行ってみることにした。でも、建物のレイアウトも通路も、私が知っているものとは全然違っているので、どっちに行けばいいのかわからない。
そこに、私と同じ制服を着た子が通りがかった。慌てて彼女の後を追う。
少し湿った風が木々を揺らす。
妙に静かだ。なぜだかすぐわかった。上空をジェット機が飛んでいない。2020年ごろから羽田空港の飛行ルートが変わったとかで、ひっきりなしにジェット音が聞こえていたのに、それがない。
学校に向かう制服姿の数が多くなってきた。そんな中、団地の敷地から一般道に出るあたりに一人の男の子が立っている。
ハッサク!
私は思わず走り出す。
彼に近づくと、手を上げてくれた。
ハッサクの制服もいつもと違う。学生服?……詰襟だっけ?
「おはよう、アマナツ」
「おはよう、ハッサク……それ、似合ってるね」
彼の顔を見たら、なんか首とか肩とかが軽くなった。涙が出そう。
「ああ、学ランね。部屋の中を探しまくったけど、これしかなかった……アマナツは、なんか髪、伸びてない?」
「そうなのよ」
洗面所の鏡に映ったのは、確かに私だった。でも、肩まで髪がかかっていた。しょうがないので置いてあったドライヤーとブラシでウエーブをかけてきた。手入れがめんどうだったからショートにしていたのに。
どちらからともなく、学校に向かって歩き出す。
「ねえ、夕べからのこと、覚えてる?……ていうか、今私の隣におられる方は、一緒にノスタワールドに行ったハッサク様だよね?」
「ハッサク様……うん、確かに行ったよ。あのあとのことは覚えてないよ。目が覚めたらこんなことになっていた」
「やっぱ私と同じか」
あい変わらず早歩きの彼を呼び止める。
「ねえ、ハッサクはどこ住んでるの?」
振り返り、向かって左端の建物を指さす。
「M号棟の四階」
「そう……うちは確かC号棟だったかな。そこの三階だから、だいぶ離れちゃったね」
それでもハッサクは、私と一緒にこの世界に迷い込んで、しかも赤羽台に住んでくれている。それだけでも心強い。
「ねえ、私たちって、なんなんだろう?」
「はははっ、それってぼくの口ぐせみたいだね」
少し笑ってそう言うと、彼はしばらく黙って、なにかを考えているようだったけど、やがて口を開いた。
「もしこれが、夢やメタバースの空間じゃなければ、考えられるのは二つ」
「二つ?」
「うん……一つは、なにかがきっかけになって、1980年代にタイムトラベルしてしまった」
タイムトラベルってアニメとかで聞いたことがある。
「確かに。カレンダーや時計を見ても、今は1984年みたいだし、家や景色も昔っぽいし……で、もう一つは?」
「パラレルワールドかな」
「なにそれ?」
「ぼくたちが暮らしている世界と並行して存在する、少し違う世界」
「そんなものがあるの? でもここはやっぱり昔の世界のような気がするけど」
「そうとも言えないよ。もし、ただ過去にタイムトラベルしただけなら、自分の家族や友達はいないか、いても元の世界の年齢よりもずっと若いだろうし」
「確かにそうね。……あのさ、私んちね、家族のことで大きな違いがあったよ」
「……ぼくのうちも、そう。どう違ってた?」
「お母さんがいた」
「え⁉」
「ハッサクの家は?」
彼は黙り込んでしまい、言葉を発するのに時間がかかった。
「妹がいないんだ」
「そんな……まさか、ミカンちゃんが!」
「うん。父さんと母さんに『あれ、ミカンは?』って聞いても、二人は顔を見合わせて、うちに子供はお前しかいないよって言うんだ」
「そ、そんな……」
「だからさ、ぼくたちは、タイムトラベルしながらパラレルワールドに迷い込んでしまったんじゃないかって思うんだ」
そう言ってハッサクはショルダーバッグのベルトをぎゅっと握りしめた。
二人、無言で歩いていたら、私とハッサクの背中を誰かがボン、ボンと叩いた。
「「「おっはよう!」」」
アケとトモとヒカリだ。
トモとヒカリは、ノスタワールドで見たような『聖子ちゃんカット』、アケはポニーテール。三人とも前の世界の時の髪型と違うけど、名札で名前を確かめたから間違いない。
少し遅れてカズヤも合流した。
馴染みのメンバーが揃って、さっきまで感じていた不安はだいぶ和らいだ。
ミカンちゃんのことは、気がかりだけど。
〇
中学校に着いて驚いたのは、学校名が違っていたこと。場所は同じだけど、校門には『赤羽山中学校』と表示されていた。確か、私が通っていた松ヶ丘中は、赤羽山中と、もう一つの中学が合併してできたはずだ。つまり、私たちは合併前の中学に通学していることになる。私とハッサクとアケとトモとヒカリは同じクラス。カズヤだけは隣のクラスだ。クラスの子はほとんど前の世界と変わっていなかったが、何人か知らない子がいたり、知っていた子がいなかったりした。先生もそんなに差はなかった。
休み時間や昼休み、私とハッサクはクラスメイトの会話にあいづちを打ったり、恐るおそる話に加わった。『アマナツもハッサクもさ、今日なんか変じゃない?』と連発されたものの、それ以上怪しまれることはなかった。
以下、クラスメイトの会話集。
「おい、『8時だョ!全員集合』見たか?」
「お前まだそんなの見てんの? やっぱりこれからは『オレたちひょうきん族』だろう?」
「そうかあ? で、すごかったんだよ。生放送中に停電になっちゃって……それでも真っ暗闇の中、ドリフのメンバー、アドリブで続けてたんだぜ。そのうち懐中電灯つけてさ……あの光、忘れらんないよ」
「なんかさ、『かいじん二十面相』からの脅迫状と毒が入ったお菓子が見つかったんだって。怖いね」
「えー、チョコやキャラメル買えないじゃん」
「そしたら、『グリコじゃんけん』どうなっちゃうんだろね」
「なに、グリコじゃんけんって?」
「えー! やったことないの? 『グリコ、パイナップル、チョコレイト』っていうの」
「あ、小さい時やってた」
「『風の谷のナウシカ』、まだやってるところあるらしいよ、絶対見に行った方がいいと思うな」
「そうかあ? だって、アニメの映画でしょ」
「やー、確かにアニメだけど、ド迫力だったよ」
「あー土曜の夜はオールナイトニッポンを聴いてたから今日まで引きずってる。毎週このパターンだなあ」
「鶴光かー、いいなあ。オレは弟と一緒の部屋だから聞けないよ」
「そう言えば、昼の校内放送でさ、委員のヒカリ、中山みゆきになりきってるよな、リクエストの読み方とか、ギャグの入れ方とか」
「ねえねえ、タマとC組のシュンスケ、どうやら交換日記始めたらしいよ」
「えー、なんで知ってんのよ?」
「だってさ、シュンスケ、ウチのクラスにそっと入ってきてタマの机に可愛いノート入れてたもん」
「なんだ、あんたの目撃情報じゃない! それ、あっちこっちで喋らないでそっとしといてやんなよ」
「さすが、両想いしている子は余裕あって優しいね……ところでマキはどうやって彼と連絡とってんのよ、塾で知り合った男の子なんでしょ? まさか文通とか?」
「んなわけないじゃん! アタシも塾で交換日記を渡してるよ……あと電話かなあ。でも最近アニキも彼女ができたらしくてさ、長電話するなって文句言われてムッとした」
テレビ、映画、社会の事件など、今日一日だけで、いろいろな情報をゲットすることができた。ノスタワールドの昭和ゾーンでも、この時代についていろいろと知ることができたけど、さすが中学生の『生の声』はリアルで充実してる。なんと言っても一番貴重なのは、コミュニケーションのしかたについてだ。スマホが無い中で、これからハッサクと連絡をうまく連絡をとりあえるかどうかは、死活問題と言っていい。どうやらこの世界でも私とハッサクは幼なじみで、いっしょにいても冷やかされたりしなさそうなので、それは助かる。
放課後、私はショルダーバッグの中にある財布を確かめた。千円札は伊藤博文という社会の教科書に出てくるひげもじゃの人だったけど、硬貨は今と同じみたい。
ここでふと疑問に思う。このお金は私のもの? そもそも私(らしき人)はもともとこの世界にいた? 家族もクラスメイトも私の存在になんの疑問もないみたいだし、だいたい私の制服には『小日向 甘夏』という名札がついている。ハッサクの『パラレルワールド』説が正しいなら、私はもともとここに存在していることになる、ということは、『この世界にいる私』と鉢合わせたりしない?……と延々悩んでいてもしょうがない。要は、自分の財布の中にあるお金を使っていいかどうかという問題だ。まあ、この際、いいことにしよう。
「ねえハッサク、ちょっと買い物したいから、赤羽駅の方までつきあってくれない?」
「うん、いいよ。この街がどんな様子なのか見ておきたいし」
赤羽駅前は、今のように広いロータリーも、アピレやBivioなんかも無く、低い建物ばかりだ。駅は東側に通り抜けられるコンコースもなく、駅の反対側に行くのはちょっと遠回りになる。改札口には『赤羽線のりば』という表示がある。確か大宮や渋谷なんかにつながって埼京線になる前の名前だ。『JR』のロゴマークはどこにも見当たらない。たしかJRって昔は国鉄だったっけ?
駅員さんにショッピングビルや駅の東側への行き方を聞いて、イトーヨーカドーに向かった。文具売り場でハッサクの好みを聞きながらノートを買う。淡い黄色で光沢の強いB5版のノートを買った。
「なんか飲んでかない?」
私はハッサクと少し話をしておきたかった。
「あの、ぼく、財布を家に置いてきたみたいで……」
「いいよ、おごる……じゃなくて貸しとくから」
イト―ヨーカドーに行くときに見つけたマクドナルドに寄る。マックシェイクのM、二百円を二つ注文し(今よりちょっと安いくらいか)、混んでいる店内でなんとか空席を見つけて座った。私たちの他に制服の姿は認められず、ひょっとしたら下校時の買い食いは禁止されているのかも知れない。
「やっぱスマホがないと不便だな」
ズズッとイチゴ味のシェイクをすすってハッサクがつぶやいた。
「へえ! コミュ量多すぎだって言ってた君でも、そう思うの?」
「そりゃそうだろ、店の場所も探せないし……アマナツともっと話をしたい。でも、気軽に電話やLINEができない」
「……お世辞でも嬉しいこと言ってくれてありがと……それでなんだけど、これ書いてもらっていい?」
バッグの中からさっき買ったばかりの黄色いノートを取り出し、テーブルの上に置く。
「クラスで誰かが言ってた、交換日記ってやつ?」
「そう」
「でもこれ、つきあってるカップルが交換するんじゃないの?」
私はムッとする。
「つきあってるかどうかは置いといて、この世界に来たばかりの私たちは情報交換が必要なんでしょ? だから、自分のまわりで起きたこと、相手に知っておいてもらいたいことをかわりばんこに書くの」
「なるほど、それはやっておいた方がいいな」
「まずはハッサクに渡しておくから、書いといて。明日渡してくれる? ……渡しにくかったら私の机の中に入れてくれればいいから」
「わかった」
「あ、それから家の電話番号を調べて、それも書いといて」
「わかった」
「それから……思うんだけど、この世界にハッサクも私も、元々存在してたみたいじゃない? 家族もいるし、友達とも普通に会話してるし、いったいどうなってるのかな?」
「うん、ぼくもそれ、不思議に思ったけど、わからないな。ぼくたちがここに来たことによって、元々いた子が別の世界にはじきだされちゃったとか」
「え! それ、ひどくない?」
「ぼくたちが自体が、元々ここにいた子たちと同化してるとか」
「それはそれで、ちょっと気持ち悪い」
それから私達は、朝起きてから家であったこと、学校でクラスメイトと話して気になったことなどを情報交換した。
〇
「ただいまー」
家のドアに鍵がかかってなかった。不用心だ。
「あらおかえり、今日は遅かったのね」
やっぱりお母さんがいた。
おかえり、と言ってくれた。
「うん、ちょっとハッサクと文房具を買いに行ってて」
「誰、ハッサクさんって、男の子?」
「え! ああ、クラスの友達。男子よ」
「そうなの。あまり寄り道しないで帰って来るのよ、それとも部活でも始めたら?」
「んー、もう二年生なんだし、部活はいい」
どうやらこの世界では、うちとハッサクの家は、家族ぐるみのつきあい、というわけではないらしい。住んでいる建物の棟は離れているし……それに、ミカンちゃんはいないみたいだし。
家に帰ると落ち着く間もなく、お弁当箱はすぐに出しなさいとか、たまには洗濯物を取り込むのを手伝いなさいとか、部屋はちゃんと片づけなさいとか、ごはんの前にお風呂に入っちゃいなさいとか、お母さんからいろいろと注文があった。
ちょっとウザくてちょっと面倒だけど、おかあさんがいるってこういうことなんだなって思えた。そのウザさ、面倒くささが今は嬉しい。
ご飯を食べて宿題を済ませたら、やることがなくなった。いつもならスマホをいじってインスタとかTikTokとかを見たりメッセを送ったりしているのに。
真夜中に目が覚めた。蛍光灯のスモールランプの明かりで、液晶の時計は一時少し前と表示されているのを確かめた。
ふとクラスの子たちの会話を思い出した。
タンスの脇に転がっていたラジオを拾い上げ、電源プラグを差し込んでスイッチを入れる。
表示が『AM』になっていることを確かめ、ダイヤル式のつまみを回す。
ガガー、ピーツ というノイズが止み、女性の声が聞こえた。
『お元気ですか? 中山みゆきです』
簡単なコメントが加えられ、軽快な音楽に変わった。この曲、聞いたことある。『オールナイトニッポン』のオープニング曲だ。こんな時代からずっと変わってないのか。
中山みゆきさんと言えば、確かNHKのドキュメンタリー番組でオープニングとエンディングを歌っている人だ。
ちょっと怖そうでとっつきいくいイメージがあったが、スピーカーからは明るく気さくな声が聞こえてくる。
何枚かリスナーからのハガキが読み上げられた。ダイエットの話。自転車で転んでひどい目にあった話。わりと明るめの悩みの話から、ブスだということでイジメにあっている話まで。中高生の悩みって今も昔も変わんないんだな。
深刻な悩みには、しっかり向き合い、優しく力強い言葉をかけてくれている。みゆきさん、いい人なんだ。
私の今の悩みを投書したら、どんなふうに答えてくれるだろうか。
えっ、悩み?
私、今……なにか悩んでる?
わけのわからない世界に迷いこんでしまった。そこはスマホもなくてちょっと不便な場所だけど、お母さんがいる。もちろんお父さんもいる。クラスメイトもいる。……そしてハッサクがいる。ミカンちゃんが気がかりだけど。
私は、『戻れる方法があるならすぐにでも元の世界に戻りたい』と思っているんだろうか。まだ一日しか経っていないので、よくわからない。でも、絶望とか恐怖心はまったく無い。少しの間くらいならここにいてもいいんじゃないかな、とも思う。
みゆきさんの心地よい喋りをBGMに、そんなことを思いながらいつの間にか寝てしまった。
〇
翌日。
ハッサクは団地の敷地のはずれ、昨日と同じ場所で待っていた。
おはよう、とあいさつを交わすと彼はバッグから黄色いノートを取り出し、私に差し出す。
「後で読んで」
「わかった」
と言い終わるや否や、またも私とハッサクの背中がボン、ボンと叩かれた。
アケとトモとヒカリ、そしてカズヤとも合流し、学校に向かう。
二限目が終わったところで私は次の授業の教科書やノートを用意し、黄色いノートを広げた。
ハッサクはというと、クラスの男子たちと一緒になって、最近話題になっているエリマキトカゲの走り方を真似して教室の中を駆けまわったり、『おまえはもう死んでいる』『ひでぶっ!!』『たわば!!』と少年ジャンプの北斗の拳ごっこにつき合わされていた。
私は開いたノートに目を落とす。
――――
6月19日(火曜)
ハッサクからアマナツへ
このノート、作ってくれてありがとう。
確かにこれ、便利かもね。持ち運べるし、ぱっと開いてすぐに見られるし。
ミカンのこと、父さんが話してくれた。
ずっと今までだまってたんだって。だから、どうしてミカンのこと知ってるのか? って聞かれた。
たしかに、ぼくには妹ができる予定だったそうだ。
赤んぼうができたことがわかってすぐに、ハッサクの妹だから蜜柑がいいねって、父さんと母さんで名前を決めたそうだ。
でも生まれてこれなかった。
流産だって。
ぼくはまだ小さかったから覚えてないんだろうって父さんは言ってた。
母さんも父さんもずっと忘れられない、忘れちゃいけないけど、お前は気にするなって言われた。
だから、この世界にはミカンはいない。
元々いなかったらのだから、アマナツも気にしないでいいよ。
――――
私が顔を上げると、ハッサクがこっちをチラッと見て、少し寂しそうに微笑んだ。
再びノートに視線を戻す。
よく見ると、そのページの紙が少しでこぼこしている。サインペンで書かれた文字がにじんでいる。
多分、ハッサクの涙の跡だろう。
その上に私の涙も落ちる。
私はハッサクがつづった文章に、なんて返事をしたらいいのかわからなかった。
ノートを二晩預かり、翌々日の放課後にハッサクの机の中にノートを入れた。
こう書いて。
――――
6月21日 木曜日
甘夏からハッサクへ
ミカンちゃんのこと、教えてくれてありがとう。
ハッサクも、お母さんもお父さんもつらいよね。
パラレルワールドって、こういうことなんだ。残酷な世界。
でも、あっちの世界では、ミカンちゃんが元気でいてくれてるはずだから。
そして、いつか帰ってまた会うことができればいいな。
あ、そうだ。
気分転換ってわけじゃないけどさ、
今度の日曜、クラスの子が言ってた、風の谷のナウシカ、観に行かない?
土曜の午後でもいいよ。
昔の中学って週休二日じゃなかったなんて、知らなかったよ、トホホ。
もしよかったら、今でも上映している映画館、探しておくから。
――――
書いてしまって、少し後悔した。
『いつか帰ってまた会うことができればいいな』
……これは私の本心なんだろうか?
本当に帰りたいと思っているんだろうか?
〇
その日曜。
私はハッサクと赤羽駅で待ち合わせ、新宿の映画館に向かった。本屋で前もって『ぴあ』を買い、『風の谷のナウシカ』を上映している映画館を探した。この時代、まだシネコンは無かった。
赤羽線を池袋で降り、車両全体が緑色の山手線に乗り換える。J R じゃなくて、国鉄。新宿で電車を降り、東口から新宿三丁目に向かって歩く。東口にはアルタというビルがあって、多くの若い人が待ち合わせをしながら頭上のビジョンを眺めていた。クラスの友達によると、ここで『笑っていいとも』というお昼の人気番組がライブ配信されているらしい。
私も釣られて大きなビジョンを眺めていたら、先に歩き始めていたハッサクが数歩先から「おーい、アマナツ、行くよ」と声をかけられた。私は慌てチョコチョコ追いかける。
ハッサクはコーラ、私はオレンジジュース、それに二人で割り勘でポップコーンを買って客席に向かう。指定席ではないので少し早めに入ったけど、割といい席に座れた。
私はアニメをあまり観る方じゃない。スタジオジブリの作品は、千と千尋の神隠しと崖の上のポニョをテレビで観たくらい。
風の谷のナウシカを見て驚いた。アニメでこんなに壮大で迫力あるシーンが描けるなんて。
暗闇の中でスクリーンを見つめるハッサクの横顔をチラチラと眺める。ついつい誘ってしまったけど、彼は映画に集中できてるのだろうか。楽しめているのだろうか。
ポップコーンを取ろうとした私の手に、ハッサクの手が重なった。彼はそのまま私の手を軽く握った……ような気がするけど、気のせいかも。
「やー、やっぱ映画館で見るとすごい迫力だね! オウムも巨神兵も」
帰りの山手線の中、彼はそう感想を漏らした。
「え! ナウシカ、観たことあるの?」
「当り前じゃん……と言っても動画配信でだけど。ジブリの作品は、もちろんカンストだよ」
「さすがアニヲタね……じゃあ、ほかの映画の方がよかったかな?」
「いやいや、大きな映画館でナウシカが観られるなんて、そんなチャンス滅多にないからね」
そう言って微笑んだあと、私を見つめてボソッと言った。
「あとさ、ナウシカってみんなに愛されて幸せそうだったけど、それでも孤独っていうか、さびしそうな姫様だなって思えた」
「そう?」
「うん、なぜだか」
「じゃあさ、私が『さびしい姫様』になっていたら、アスベルみたいに助けにきてくれるかな?」
「え⁉」
「……かな?」
私は意地悪く催促する。
「あ、うん。もちろん……でも、ナウシカとアスベルって結局最後は結ばれるのかな?」
「それはどうでもいいの!」
思いのほかハッサクは元気そうだった。
赤羽に着いたら、私の住んでいるC号棟の前まで送ってくれた。
そこに偶然!
お母さんが買い物から帰ってきた。
「……あの、お母さん、紹介する。同じクラスの今井ハッサク君……一緒に映画を観てきたの」
「こんにちは、きみがハッサク君か」
「は、初めまして……」
「映画のデート、楽しかったかしら?」
ニヤリとしながら私とハッサクを交互に見るお母さん。
「「え⁉」」
答えに困るハッサクと私。
そうか、全然気にしてなかったけど私たち、映画の初デートに行ってたんだ。