2017年9月
「さいしょは グー、じゃんけん、ぽん」
「ぱいなっぷる」
「じゃんけん、ぽん……あ、負けた」
「じゃんけん、ぽん、やった! ち、よ、こ、れ、い、と」
九月の夕暮れはまだ熱く、生き残りのセミがチチチと鳴いている。
赤羽台トンネルの脇、大きな団地の街につながる階段で、一人の男の子が遊んでいた。
「ハッサク……くん?」
階段をゆっくりと上って来た女性が立ち止まり、男の子に声をかけた。
夏の名残りの温かい風がさっと吹き、彼女の紺のワンピースを揺らす。
「ん、だあれ? おばさん」
「おっ、おばさん⁉……あっ……おばさんはね、前にこの団地に住んでたのよ。ぼくはここで遊んでるの?」
「うん、ママがもうすぐ帰って来るから、待ってるんだ」
「そうなんだ……『グリコのじゃんけんゲーム』、一人でやってたんだ」
「一人じゃないよ」
「え?」
女性は階段を見上げたが、その子以外、子供の姿はない。
「そうなの?……誰と遊んでたのかな?」
「んー、わかんない」
「あの、もしかして、 女の子のお友達?」
「いないよ、そんな子」
「……そうなんだ」
「おばさん、あのさ、いっしょにやらない?」
「私と? ……いいけど」
二人は、階段の一番下まで戻り、じゃんけんを始める。
「さいしょは グー、じゃんけん ぽん!」
グリコのゲームを三回やって、三回とも男の子が勝った。
階段の一番上でガッツポーズする男の子。
「やっぱ強いね! ハッサク」
「そうだ、おばさん、なんでボクの名前、知ってるの?」
「……い、いやなんとなく……勘かな」
「カン?」
「あ、そうだ。勝ったご褒美に、これをあげるね」
そう言って女性はバッグからキーホルダーを取り出し、男の子に手渡す。
「ありがとう……これ、なーに?」
「コアラ。エリマキしてるから、『エリマキコアラ』かな」
「へんなの」
「……これをね、君に返しに来たんだ」
「え?」
「ううん、なんでもない……ああ、そんなに汗かいて」
女性はハンドタオルを取り出し、男の子の顔や首筋を拭く。
「あっママ、お帰り!」
いつの間にか、階段を上がりきったところで女性が佇んでいる。片手に大きなレジ袋をぶら下げ、もう片方の手は小さな女の子に占領されている。
男の子が駆け寄り、抱きつく。
「ち、ちょっとハッサク、重いじゃない、暑いじゃない」
「にい、ジャマ!」
その子の妹は眉を吊り上げ、兄の手を振り払う。
母親は、紺のワンピースの女性を怪訝な表情で見つめる。
「失礼ですが、あなたは?」
「……」
返答に困ったのか、下を向く。代わりに男の子が答えた。
「あのね、いっしょにグリコじゃんけんやってたんだ。ボクが全部勝ったけどね」
「あの、ごめんなさい、失礼します」
女性は、少し口元をゆがめながらも微笑んで会釈し、階段を下り始めた。
「おばさん、バイバーイ!」
「うん……またね」
振り返り、軽く手を振った。
三人の親子は、団地に向かって歩き出す。
「あの階段で遊ばないでって、いつも言ってるでしょ。下は車通りが多いし……」
「えー、ママを迎えに来ただけだよ」
「それに、知らない人に声かけられても、相手にしちゃだめよ。最近は女の人だって怪しいんだから」
「あのおばさん、ボクのこと知ってるみたいだったよ?」
「……それ、ますます怪しいでしょ! 気をつけなさい」
母親に見せると、きっと取り上げられるに違いないと思い、男の子は手に持っていたキーホルダーを、そっとポケットの中にしまった。
夕ご飯の後。
お風呂に入る時、半ズボンを脱ぐと、キーホルダーが転がり落ちた。ハッサクはその存在をすっかり忘れていた。
寝る前。買ってもらったばかりの学習机にそれを置く。
顔はコアラだが、首のまわりにぐるりとマフラーが巻かれていて、しかもシッポが生えている。
二本の足とシッポで簡単に立った。
「ねーおにい、それ、ちょうだい」
いつの間に部屋に忍び込んでいたのか、妹の蜜柑が隣りにいた。
「やだ、あげないよ」
「いじわる! そんなキモいの、いらない!」
ミカンはキーホルダーの動物をチョンとつついて倒した。
「こら!」
ハッサクはげんこつでコツンと妹の頭を叩く。
「ママー! にいが叩いたー!」
大声で叫びながらミカンは部屋を出て行った。