夢枕
最近家族と会話らしい会話を全くしていない。
夫も、高校生になる息子も、中学生になった娘も。
朝起きた時におはようと言っても誰も返してくれない。前はみんなちゃんと返してくれたのに。
食事の前のいただきますの声は、夫はともかく息子と娘はそれなりに大きな声で言っていたのに、今ではボソボソとギリギリ聞き取れるくらいの声量で呟くだけ。
帰ってきてもただいまと言ってくれないし、おかえりの言葉も無視される。
家の中での会話は本当に必要最低限のものになってしまって。
なんとか少しでも前のように楽しくみんなと話したいと思ってあれこれ話題を振ってみるも、どれもこれも無視されるだけだった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
どうしてこんなことになっているのだろう。
少し前までは、多少の反抗期はありつつもちゃんと子どもたちは話してくれていた。おはようも、ただいまも、ありがとうも、言ってくれていたのに。
夫は元々無口な方であったけれど、今はさらに口数が少なくなった。一日声を聞かない日すらある程だ。前は軽い世間話などはしていたのに。
あんなにも和やかだった家の中が、あんなにも音に溢れていたはずの日々が、もうどこにも無かった。
それが悲しくて悲しくて、泣きながら訴えかけてみても誰も返事をしてくれない。誰もこちらを見てくれない。
自分が何かをしてしまったのかとこれまでの行動を思い返すけれど、こうなってしまうような原因に心当たりが無く、途方に暮れていた。
ある日、仕事や学校で自分以外誰もいなくなってしまった静かな部屋に耐えられなくて、何も持たずに外へと飛び出した。
ふらふらとあてもなく歩き、辿り着いた家から少し離れた公園のベンチに座ってぼんやりと空を見上げる。
梅雨が明けて、晴れ渡った夏の雲一つ無い真っ青な空を見ていたらなんだか無性に泣けてきた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。何がいけなかったんだろう。ぐるぐると何度も何度も同じことを考えて、結局答えが分からずただただ涙をこぼす。
「お隣いいですか?」
声がした。
すっと心の内に直接響いてくるような、不思議な声が。
顔を覆っていた手をのけて、視線を上げた先に感情の伺えない目でこちらを見ている女性と目が合った。
女性がゆっくりと首を傾げる。「お隣、座ってもいいですか?」先程聞こえた声と全く同じだった。
「……どうぞ」どうしてか断る気になれなくて、小さく頷く。
女性は失礼しますと一声かけてきてから、ゆっくりとした動作で自分の隣に座った。
そうして特に何を話すこともなく、二人揃ってぼんやりと空を見上げる。
ひどく静かで穏やかな時間が流れていた。こんなにも心穏やかな時を過ごしたのはいつ以来だろうと思ってしまうくらいに、穏やかで優しい時間だった。
だから、だろうか。
自然と口が動いて、ぽつりぽつりと最近家族と全く会話ができていないことを話した。
隣の彼女は時折相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
久しぶりに、本当に久しぶりに誰かと話せたのが嬉しくて、彼女と以外まともに話せていなかったことを痛感して悲しくなって。
笑ったり泣いたりしながら、これまでのことを堰き止めていたものを全て吐き出すように話す。
自分でも訳がわからないくらい感情がめちゃくちゃで、口から言葉が溢れて止まらなくて、話し終えた頃には日がだいぶ西に傾いていた。
「もう一度家族と話したいんですか?」
「話したいです……話したいんです! でも、でも、夫も子どもたちもわたしのことがみ、見えてないみたいに振るまって、いない者みたいに扱って……! 話したくても話せなくてっ、」
話したい。でも、話せない。
どれも自分の話を聞いてくれない。誰も自分の声を聞こうとしてくれない。
どうして、どうして、どうして、どうして!
苦しい、寂しい、悲しい、辛い、憎たらしい、嗚呼……。
――あぁ、そうだ。憎たらしい。恨めしい。
憎たらしくてたまらない!! 恨めしくてたまらない!!
こんなにもこんなにも自分は悲しんでいるのに、辛い思いをしているのに、家族は誰も見向きもしない!!
どす黒い感情が次から次へと湧き上がってくる。
衝動に任せて立ち上がった。何かがぼとぼとと粘着質な音を立てながら落ちていく。
視界が真っ赤に染まる。折れ曲がった両足を動かして進む。
もう少しで公園から出るところで「ねえ」と後ろから声をかけられた。
湧き上がり続けていたどす黒い感情が、すっと波が引くように静まった。
思い出してしまった。全て。そしてさぁっと血の気が引く感覚。
自分は今、なにをしようと、
「とりあえず旦那さんの尻を蹴っ飛ばしてきたら?」
「……え?」
*
二年前、妻が飲酒運転をしていた車に轢かれて亡くなった。
百キロ以上のスピードが出ていらしく衝撃はかなりのものだったようで、あまりにもその姿は変わり果ててしまっていた。
家の中で誰よりもお喋りだった彼女。
料理上手で、手芸が趣味で、花が咲くように笑う。
そんな妻がいなくなってしまった家からは、かつてのような明るい雰囲気は消えた。
サッカーが大好きで、部活に熱心に打ち込んでいたはずの息子は妻が亡くなって以来サッカー部を退部し、あんなにも体を動かすことが大好きだったのに今ではあまり家から出なくなり、あんなにもたくさんいた友人たちと遊ばなくなってしまった。
妻に似てお喋りでお洒落が大好きだった娘は、前のように喋らなくなり、笑顔もほとんど見せなくなってしまった。好きだったはずの化粧も、よく妻と一緒に作っていたお菓子も作らなくなって、家事を手伝ってくれるが会話がほとんどない。
そんな二人に父親である自分は。
――母親が死んでしまって、暗い絶望の中にいる子どもたちを支えなければいけないはずの大人は、情けないことに二人に慰めの言葉一つ言えやしない。
夜、寝室で随分と広くなってしまったベッドの上で一人寝転がる。
目を瞑る度、脳裏を過るのはあの日のこと。
妻の誕生日前、「お母さんのプレゼントを三人で選ぼう!」と言って三人でデパートに行って。それぞれプレゼントを選んで、帰りによく行く家の近所の美味しいケーキ屋さんで誕生日ケーキを注文して。
お母さん喜んでくれるねといいねと笑いながらプレゼントの入った袋と、ケーキ屋さんで買った四人分のプリンが入った袋をそれぞれ持って、家に帰って。
いつも夕飯を作る時間になっても、買い物に行った妻は帰ってこず。
心配になって電話を入れようとした時、警察から電話がかかってきた。
受け入れ難い現実を、伝えてきた。
遺影の中で彼女は笑っていた。いつも通りの、見慣れた花が咲くような笑顔。
けれどもう二度とその笑顔を向けられることは、ない。
葬式の後から薬が手放せなくなった。
ふとした瞬間、死にたくて死にたくてたまらなくなる。
子どもたちを残して自分まで向こうに行ってしまう訳にはいかないからと、なんとか耐えているけれどそれもいつまでもつだろう。
せめて、夢に彼女が出てきたらいいのに。
そう何度も願うけれど、薬のせいなのか夢を見ることなくいつも朝を迎える。
今日も同じだと思っていた。
薬を飲んで、眠気に誘われるままにベッドに入って、目を瞑ると気がつけば朝が来る。
いつも通りの繰り返し。いつも通り、妻が隣にいない現実が突きつけられる。
「もう! しっかりしなさいよ、あなた!」
声が、聞こえた。懐かしい声。
もう思い出とビデオの中にしか残っていないそれに、思わず起き上がった。
「……し、しお……り?」
「そうよ。あなたの妻の二階堂詩織です」
目の前に妻がいた。
記憶の中にある、彼女の姿が目の前にある。
ただふわふわと宙を浮いていて、その体は少し透けているけれど。
それでも確かに彼女だった。
会いたくて会いたくてたまらなかった。もう一度あの花が咲くような笑顔を見たかった。初恋の相手であり、最愛の人。
「どうして……」今まで一度もその姿を夢で見ることは叶わなかったのに。
思わずこぼしてしまった疑問に彼女は苦笑する。
「わたしね、つい昨日自分が死んだことを思い出したな。それまでずっとふらふら幽霊として家の中にいたんだけどね、だからこそ夢枕に立つってことも難しかったみたいで」
「……ずっと家にいた、のか?」
「ええ。あの日からずっとよ。もうとっくの昔に死んじゃったのにわかってなくて、生きてた時と同じようにみんなに話しかけてたわ」
「それ、は、」
あの日からずっと家の中にいたというのなら。
死んでしまう前と変わらず、話しかけてくれていたというのなら。
とても、寂しく悲しい思いをさせていたのではないだろうか。
あんなにも明るかった家はひどく暗く澱んで、誰も笑顔を浮かべるどころかまともに話すらしなくて。
食事を家族揃って食べることはなくなり、寝る時間になるまでリビングで思い思いに過ごしていたのに三人とも部屋にこもってばかりになって。
どれだけ、心配をかけただろう。どれだけ不安にさせただろう。
想像するだけで胸の奥が強く痛んだ。
「……すまない! すまなかった!」強い罪悪感に謝罪の言葉を口にし、頭を下げた。
妻が死んだことを自覚していなかったとはいえ、今の今まで成仏できなかったのはきっと自分たちが心配をかけていたからだ。
否、そうではなく。父親として、あまりにも自分が頼りなく不甲斐なかったからだ。
初めて近しい肉親を亡くして悲嘆に暮れる子どもたちを支えようとせず、静かに壊れていく家を見ているだけだった。
それは父親としての役目を放棄していたのと同じ。
確かに自分も悲しかった。辛かった。けれど、ただ悲しみに暮れるのではなく。絶望の中、呆然と日々を過ごすのではなく。
大切な家族を、愛した人と作り上げたものを、守るために動くべきだった。
「すまない、すまない……こんな、情けない夫で、すまない……」
謝るしか、できなかった。
謝罪の言葉以外、何を言えば良いのか分からなかった。
だから自分はダメなのだと、更に自責の念に駆られる。どうして自分はこうなのだと。
いっそ、あの時死ぬのが自分であれば。
明るい笑顔を浮かべて、綺麗に掃除した家でいつも家族の帰りを待ってくれていた彼女ではなく、お喋りが苦手で笑顔を浮かべるのも苦手な自分が、代わりに。
「ふざけないで!!」
パンッ! と、頬を強い力で叩かれた。
唖然としながら妻を見る。目に涙を溜めた彼女は、顔を真っ赤にして怒りの表情を浮かべていた。
初めて見る顔だった。
「わたしは子どもたちのことも、あなたのことも大好きなの! 幸せになってほしいし、できれば百歳くらいまで長生きしてほしい! それなのに、代わりに死ねばよかったなんて言わないでよ!」
わっと泣き出した彼女をたまらず抱きしめた。
何度もすまないすまないと泣いて謝りながら。温度の感じられないその体を強く、強く。
「ひどいことを言った罰よ、あなた! たくさん美味しいもの食べて、たくさん楽しいことをして、たくさん幸せになって、健康に気をつけながら長生きすること! いいわね!」
「ああ、ああ……! もちろん、もちろん! たくさん美味しいものを食べて、たくさん楽しいことをして、たくさん思い出を作って、いつか必ず君に伝えてに行くよ!」
お互い泣きながら笑って約束をする。
そして徐々に白んでいく世界の中、誓いの口付けをかわした。
朝、目が覚める。
いつも通りの朝。いつも通りの妻がいなくなってからの朝。
けれど、心の奥に溜まっていた澱は少しだけ軽くなっていた。
「おはよう」
ベッドサイドに置いてある写真立て。
笑顔を浮かべる妻に向かって久しぶりに挨拶をした。
着替えを終えてリビングに行く。既に子どもたちが椅子に座っていて、テーブルの上には三人分の朝食が並べられているがまだ二人が食べた様子はない。
どうしたのだろうと思いつつも、「おはよう」と二人に声をかける。
二人揃って俯けていた顔を勢いよく上げて、顔を見合わせたと思ったら今にも泣き出しそうな、しかし嬉しそうな笑みを浮かべた。
「「おはよう、お父さん!」」
同時に声を上げて、驚いたように二人が見つめ合う。
なんだか、二人共少しだけ前のように戻ったような明るい雰囲気を纏っている。
「ど、どうした二人とも? 今日はすごく元気じゃないか」
「いや、その……」
「えっと……」
「……もしかして、母さんの夢を見たのか?」
もしやと思い尋ねれば、びっくりしたように目を瞬かせこくこくと頷いた。
「話したんだ。話せたんだよ、お母さんと。夢の中だけど」
「それで、心配かけてばっかでいられないってなってさ……」
「そうか……そう、か……」
滲んだ涙を拭って、椅子に座りご飯を食べようと二人を促す。
そして三人揃っていただきますと手を合わせ、少し冷めてしまったが美味しい朝ご飯を食べた。
片付けをして、鞄を持って三人一緒に玄関を出る。
「行ってきます!」
前のように揃って我が家に向かって手を振った。
『いってらっしゃい!』
花が咲くような明るい笑顔を浮かべる彼女が、手を振り返してくれた気がした。
「母親の愛って偉大なんだなぁ」
そんなことは全く思っていなさそうな顔で呟いて、笑顔で歩いて行く家族たちと、その様子に安心した顔をして消えていく母親を見送る。
「仕事終わったから帰るね」と、号泣しているお迎えの方に手を振って家に帰った。




