そして、人になった 3
「たぶん元々魅入られやすい質っていうか、変に持ってるっていうか……そういう感じなんだよね」
冬休みに入り、世間は二日後に迫ったクリスマスで明るく賑やかな雰囲気なのに、栗原の置かれた状況は全く明るくなかった。
何故なら数日前に、目の前の見えるクラスメイトから「幽霊に食べられて死ぬ可能性高いよ」なんて言われてしまったからだ。
幽霊に食べれて死んでしまうなんて言われたら、普通ならなんか変なことを言われたなくらいで終わるのに、事実そうなってしまう可能性があることを身をもって体験してしまったから、全くこれっぽっちも笑えない。
しかもまともに対処できそうな人物は、今目の前で呑気にこの喫茶店で人気のランチセットを食べている、他人の不幸に対してどこまでも興味無さげな不動涼子だ。
いや、興味無さげではなく実際興味は無いのだろう。
助けてくれたのは単なる気まぐれだ。
偶々目に入って、偶々手の届く範囲にいたから手を差し伸べただけ。
今こうして相談に乗ってくれているのも、気まぐれとはいえ一度手を出したならば、ちゃんと最後まで助けるというポリシーを持っていてくれたためだ。
でなければ、ほぼ赤の他人であるクラスメイトのことを無償で助けてなんてくれないだろう。
「食べられないためにはどうしたらいいの?」
「最初の時に自分で欲しい物選ばせてみたり、髪切ってみたりしてみたけど、たぶん足りんないんだろうね。だからもうちょい頑張るしかないって感じ?」
「どいうこと?」
「君の後ろでさ、ずっとヒステリックに喚いてるのがいるんだよねぇ。『奏ちゃんは女の子なんだから!!』って」
「っ、!?」
勢いよく後ろを振り向いた。当たり前だがそこには誰もいない。そもそも後ろは壁で、誰かが立っていられるスペースなんてない。
それでも彼女にその人の存在を示唆されて、さあっと体から血の気が引いていく。
今の自分を見たらどう思うのだろう?
今の自分を見たらどんな反応をするのだろう?
どうしてと泣き喚くのか、手を振り上げるのか、お父さんと一緒に間違ったことをしていると詰ってくるのか。
触れた髪は前の時の様に長くなく、男の子の様に短い。
今着ている服は、家から持って来た女の子らしい可愛いワンピースでも、フリルの付いたものでもなくて。
今の自分の姿を見て、ちゃんと女の子だと分かる人はどれだけいるだろう?
そんな疑問を抱いてしまうくらい、見た目はどこからどう見ても男の子のもので。
お母さんの娘としては、まったく正しくない姿をしていて。
『奏ちゃんは女の子なのよ!? それなのに、どうして男の子みたいなものを好きになるの!?』
――いやだ、やめて、やめてよ。
おこらないで。なぐらないで。なかないで。
ちゃんとするから。ちゃんと、まちがったところはなおすから。おかあさんたちのいうとおりにちゃんとするから。
おんなのこらしく、するから……おんなのこらしく、なってみせるから。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ、
「あー、こめんごめん。まさかそこまでダメだなんて思わなかったんだわ」
「………………ぁ、」
さっきまでちゃんと椅子に座っていたはずなのに、どうしてかテーブルの下に潜り込んで蹲ってしまっていて。
心底申し訳なさそうな顔をした不動が、よしよしと頭を撫でてくる。「ごめんねー、もう謝らなくてもいいからねー」と。たぶん慰めてくれている。
店に他の客がいなくてよかった。
こんな姿を誰かに見られてしまっては、外を出歩けなくなるところだった。
「お嬢ちゃんたち大丈夫かい?」
喫茶店の店長にはバッチリしっかり見られてしまっていた。
そっと両手で顔を覆い、この世の全てを呪う勢いで心の中でそっと呪詛を吐く。
不動だけならともかく、全く見知らぬ喫茶店の店長にこんな醜態を見られるとかどんな拷問だろう。
ちょっと軽く死にたくなった。
「思ってた以上に深刻だね栗原」
「ソウデスカ」
「とりあえずは少しずつ意識改革していくかーって思ってたけど、そんなんでどうにかできるレベルじゃねーわ。これだともうきっぱりすっぱり縁切っちゃった方が楽だよねぇ。そしたら少しはましになると思うし」
「ソウデスカ」
「大丈夫? おっぱい揉む?」
「ソウデスカ」
「こりゃだめだー」
喫茶店から出て、不動に手を引かれるままのっそりのっそり人通りの少ない寂れた商店街を歩く。
繋がれていない方の手で顔を隠して、心中で悶えまくっていた。
恥ずかしい。本当に恥ずかしくて恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
中学生にもなって、無意識にテーブルの下に潜り込むなんて。
前から時々そういうことをしていたけれど、家の中でしかやっていなかったのに、とうとう外でもやってしまった。
治さなければと思いはするけれど、気がついたら机の下に潜り込んでいるのでどう直したらいいのか分からない。
家でご飯を食べている時にもうっかりしてしまうことがあるので治したいのに。
叔父さんたちからなんとも言えない顔を向けられるから、幽霊に食べられない様にすることよりもこっちの方がちょっと本当にどうにかしたい。
「栗原ー」
「ソウデスネ」
「栗原はさー、何が好き? わたしはお菓子とー、寝ることとー、ひなたぼっこ」
どこかぼんやりとしていた不動の言葉が不意にちゃんと頭に入ってきた。
好きな、もの。自分の好きな。
女の子らしく、チョコレートとかケーキとかプリンとか。あと、可愛い服を着たり、オシャレしたり。
お化粧もそのうちするようになるだろう。するようになって、きっと好きになって。
だってそれが女の子らしいから。女の子らしくて、正しいから。
「オシャレするのもいいけどさー、あんまり興味無いんだよねー。だって面倒だし、オシャレなんてしなくても特に困るようなことないし」
「わた、しは……オシャレするの、好きだけど……」
「ほんとに?」
顔を上げる。不動はこちらを見ようとせず、ただ前を見て歩いている。
「ほんとに君の好きなものはそれ? 女の子らしいっていわれてることが好き?」
「……………………そうだよ」
「大福は? 麦茶は? その短い髪は? 女の子らしいって感じじゃ無いから嫌い? 選んだあげた服も可愛く無いから嫌だった?」
「そ、れ……は……」
答えられなかった。
答えなきゃいけないのに。ちゃんと、女の子らしくないものは嫌いだって、ダメだって、言葉にしなければいけないのに。
喉の奥に言わなければいけない言葉がつっかえてしまって、どう頑張ってもそのまま喉に引っかかったまま出てきてくる様子が無い。
(……きらいじゃ、ない。いやじゃない。わたしは、私は……)
『女の子なんだから女の子らしくいなきゃダメよ!! せっかくお母さんができなかったことをさせてあげてるんだから!!』
ガンガン頭の中に響く声。
全てを否定する声。こうであれと望む声で、こうであれと命令する声。
従わなければ、望むように在らなければ、自分はいらない子どもになってしまう。
――お母さんからダメな子だと捨てられてしまう!
「逆に捨ててやったらいいよ。子どもを自分の第二の人生だなんて、馬鹿げたこと考えてる奴のことなんて。どうせ貴方のためっていう言葉は、結局自分本位の身勝手な言葉なんだからさ」
軽く握られていた手が、指と指を絡めてしっかりと繋がれる。それは所謂恋人繋ぎというやつで。
ただ手を握られていた時よりも、不動涼子という人の存在を強く意識させられる。
「もしも君がアレを捨てたところで一人になるわけじゃあないよ。叔父さんたちがいてくれるでしょ? 一応手を貸したんだからわたしも近くにいてあげる。だから必要無い重たいだけの荷物は全部捨てちゃってさ、好きに生きたらいいよ。好きなように生きてみたらいいよ」
繋がれた手から、伝えられる言葉から、じわじわと何か温かいものが伝わってくる。
勇気付けてくれるような、励ましてくれるような、何もかもを許してくれるような。
思わず泣いてしまいたくなるくらい、優しくて、穏やかで、とても温かいなにか。
「……いいのかな」
ぽろりと、剥がれ落ちる。
「……いっても、いいのかなぁ」
ぽろり、ぽろり。剥がれ落ちていく。
無理矢理貼り付け続けていたものが。
一つ一つ、ぽろりぽろりと。透明な雫と一緒に落ちていく。
「ほ、ほん……とうに、すき……すきなものいっても、いいかなぁ……」
「いいよ。全部言っていいよ。誰も君を怒らないし、殴らないし、叱らないから」
幼い子どもに語りかけるように、その口調はとても柔らかくて。
心の隙間にするりと入り込んできて。
「おひめさまよりね、ひーろーのがよかったの」
「うん」
「かわい、かわいいねっていわれるよりね、かっこういいねっていわれるのがよくて、かっこういいねっていわれてるもののがよくて」
「そっかそっか」
「かみも、かみもね、ながくておもいのよりみじ……みじかくて、かるいのがよくて、」
「楽だもんねぇ」
「わんぴーす、きらいなの。うごきにくくて、ふりるがいっぱいのもひらひらしてるのも、きらいなの。よごれたらってかんがえるとあそびにくいから、きらいなの」
「あー、わかる。綺麗な服とか着てるとちょっと遊びにくいよねー」
一度口にしてしまったら、もう止まらなかった。止められなかった。
本当は嫌で嫌で仕方なかった。
女の子らしくしなさい、女の子らしくしなきゃダメでしょと叱られるのが。怒られるのが。
嫌で嫌で堪らなくて、逃げ出したくて。
でも、そんなことしたらきっと捨てられてしまうから。いらない子だと、生きていけなくなるから。
言われた通りにしてきた。
望まれた通りにしてきた。
そうすることが正解だと信じていた。
そうしていればいつかちゃんと見てもらえると思っていた。
……そうしたら、愛してもらえると思っていた。
心のどこかで何もかも無駄なことだと気がついていたけれど、必死で気がついていないフリをしていた。
本当はちゃんと分かっていた。気がついていた。
お母さんは栗原奏のことを見ていない。お母さんが見ていたのは夢見た理想だって。
「すきだって、いってもらいたかったの。わたしのことを、すきだっていってほしかったの……!」
けれど、その願いは叶わない。絶対に。
だってあの人は栗原奏を見ることはないから。向き合うことはないから。
父親も同じ。祖父母も同じ。母親の理想を叶えろと強要してくるだけで、関心があるようで全くの無関心だから。
だから、だからこそ、叔父夫婦の元に自分は引き取られたのだと今になってちゃんと理解する。
きっとそうしてもらっていなかったら、自分はろくでもない末路を迎えていた。
きっと、幽霊に食べられるよりもずっとずっと悲惨な末路を。
「いっかい、いっかいだけで、いいから……すきだっていわれたかったなぁ……」
だから、この言葉を最後に決別を。
本当は、痛くて辛くて堪らないけれど。
苦しくて悲しくて堪らないけれど。
きっと、捨てたくなんてないけれど。
ここで変わらなければおそらく結末は変わらないから。
ずっとずっと、都合の良いお人形として生きていくことになるから。
好きなものを好きと言って笑える日々は、絶対に手に入れられないから。
「わたし、がんばりたい……!」
「うん。手伝うよ」
二つ返事で返ってきた言葉が、とても頼もしく感じた。




