そして、人になった 1
可愛いものより格好いいものが好き。
夢見るのは白馬の王子様に迎えられるお姫様ではなく、誰かのピンチに駆けつけて悪を倒す戦隊ヒーロー。
家で遊ぶよりも外で遊ぶ方が好き。
おままごとよりも、サッカーやドッジボールのような体をめいいっぱい動かす遊びの方がずっとずっと楽しい。
髪は背中まで長いのより、周りの男の子たちのように耳が見えるくらい短い方がいい。
長い髪は洗うのが大変で整えるのも一苦労。でも、短い髪なら洗うのも整えるのも楽だ。
服も可愛くて動き難いのより、楽で動きやすい服の方がいい。
でも、それではダメだった。
それではダメだと言われた。
女の子なんだから、ヒーローなんかよりお姫様に憧れる方が正しい。
女の子なんだから、大人しくお淑やかな子になるのが正しい。
女の子だから、髪を長く伸ばして可愛い服を着るのが正しい。
女の子なんだから。その一言で自分の考えも好きなものも全て否定された。
正しくないことなのだと、間違いなのだと。何度も叱られ、怒られた。
『やっぱり女の子はいいわねえ』
ピンク色のフリフリした服を着れば、お母さんはいつも上機嫌に笑ってくれた。
髪を三つ編みにされたりお団子にされたりしても、大人しく受け入れていれば、その笑顔が崩れてしまうことはない。
だから、これが正しいことなのだ。
こうしていることが正しいのだ。
言われるままに、望まれるままに、憧れたものを可愛いお姫様に変えた。
外で遊ぶよりも家の中でおままごとをしたり、折り紙で遊ぶようになって。
髪を伸ばしていっぱいアレンジしてもらって、フリルが付いた服を着せ替え人形のように黙って着て。
言われた通りにした。
言われた通りに憧れたものも、好きなものも変えた。変え続けた。
お母さんが望むものになろうと、望む通りの行動をしようとした。
別にピアノなんて習いたくなかったけれど、習いに行って。
生花なんて何がいいのかさっぱりだけれど、やれと言われたからやってみて。
履きたくもないバレエシューズに足を入れて、一体なんの役に立つか分からない着付けや茶道も続けて。
全部、全部――好きには、なれなかった。
自分の中の何かが少しずつ押し潰されていく。少しずつすり減っていく。
これはダメだと思った。思って、でもどうすればいいのか分からなかった。
お母さんの好きな『可愛い女の子』を否定するのはダメだった。
そんなことをすれば怒鳴られ、詰られ、どうしてと泣かれてしまう。
どうして、お母さんの言う通りにできないのと。
我慢しなければいけない。
声を上げてはいけない。
自分の憧れは、好きなものは間違いで。
お母さんだけじゃない。お父さんたちだって、それが正しいという顔をしている。
口を揃えて、お母さんの言う通りにしなさいと言う。
だからきっと、間違っているのは自分で。
正しいのはお母さんたちで。
『やっぱり⚫︎⚫︎レンジャーは格好いいよね! 特にレッド!』
なんで?
ただ、そう思った。
小学三年生になった時、やって来たその子は転校生だった。
男の子みたいな格好をして、男の子みたいに髪が短くて、男の子が憧れ好きになるようなものが好きで。
当時流行っていた特撮ヒーローの話をよくしていた。
それが、その子だけならよかった。
君はそういうのが好きなんだねと、他の女の子たちから言われているのならよかった。
『あたしもレッド好きー。格好いいし、一番強いし!』
『えー。アタシはブルーの方がカッコイイと思うけど』
『ブルーもいいね! 作戦立てて、怪人を一人でも倒すのはすごい!』
ねえ、なんで?
他の子たちは、好き勝手に女の子らしくないものを好きだと話す。格好いいと話す。
それはたぶん、転校生の子とは違う意味の格好いいだったのだろうけれど。それでも、普通に特撮ヒーローの話をしている。できている。
自分は少しでもそんな話したら怒られるのに。叱られてしまうのに。
なのに、誰も怒らない。叱らない。
そんな彼女たちの会話の中へと、クラスの男子たちも入っていく。
何故かそのことがひどく羨ましかった。どうしようもないくらい羨ましくて、妬ましくて。
そして、他の子たちがああやって普通に話すのならば。
普通に、自分と同じ意味ではなくても、他の女の子たちだって格好いいと言っているのならば。
学校が終わって家に帰るとすぐにお母さんに話した。
話して――思いっきり、顔を殴られた。
『なんでそんな女の子らしくないものを好きになろうとするの!? 奏ちゃんは女の子なんだから、そんなもの好きになっちゃダメだし、見るのもダメなのよ!?』
じんじんと痛む頬。
口の中は錆た鉄のような味がして、頭はぐらぐらと揺れて。
今まで見たことのないような、鬼みたいな顔をしているお母さんがまた手を振り上げる。
何度も叩かれて、怒鳴られて。
『奏ちゃんは可愛い女の子なんだから! 女の子らしくしなきゃダメじゃない!!』
涙を流して怒るお母さん。
自分はとてもまずいことをしたのだと、なんとなく理解する。
『せっかくお母さんができなかったことをさせてあげてるんだからっ!!』
ごめんなさいと謝った。
お母さんを傷つけてごめんなさい。
間違ったことをしようとしてごめんなさい。
間違ったことを言おうとしてごめんなさい。
『どうしてちゃんとできないの!? お母さんがどれだけ奏ちゃんのためにがんばってるかわからないの!?』
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
泣いて、怒鳴り続けるお母さんが怖くて。
ずっとずっと謝り続けた。白くて柔らかい手が振り上げられなくなるまで。
お母さんがもう泣かなくなるまで。
謝って、謝って、謝り続けて。
お父さんが帰ってきて、お母さんが泣いていることに怒って。そのことにも一生懸命ごめんなさいと、声が枯れて出なくなってしまうまで謝って。
『ちゃんとお母さんの言う通りにしないとダメだろう!』
お父さんにも怒られ、殴られる。
ものすごく痛かったけれど仕方がない。
だってお母さんの言う通りにできなかった自分が全部悪いから。
お母さんを傷つけてしまった自分が全部全部悪いから。
お母さんもお父さんも怒るのだ。怒って、頭や体を叩いてくる。
そうやって、二人の怒りが収まるまで耐え続けた。
ちゃんと謝り続けていれば、いつも通りの。優しい二人に戻るから。
いつも通り、優しく笑いかけて頭を撫でてくれる二人に戻るから。
声が枯れ果ててしまうまで、必死に謝り続けた。
*
ちゃぽんと音を立てて、魚が水面を飛び跳ねた。
ちゃぽんちゃぽん立て続けに三回。かなり大きい。鯉か何かだろうかと考えながら、ぼんやりと夕焼けに染まる川面を眺める。
おおよそ一年前。何やら大人たちの間で話し合いが行われ、自分は両親の元から離れ母方の叔父夫婦に一時的に引き取られることになった。
その関係で今は、生まれ故郷の東京から出てとんでも五歳児が活躍するアニメの舞台となっている埼玉の春日部市に住んでいる。
慣れた環境から離れてしまったせいか、自分でもよく分からないけれど転校してから学校に行くのがなんだかとてもしんどくなってしまって、不登校になり。
五年生の後半から卒業式までずっと学校には行かなかった。
流石にこれではダメだと中学に入学してからは不登校にならないよう、行きたくないと駄々をこねる弱い心に鞭打って、頑張って登校はしているけれどほとんど誰とも関わらず、一人で静かに過ごしている。
そんな状態だから当然友達なんていない。最初は話しかけてくれる子もいたが、反応が悪かったせいで用事が無い限りは話しかけてくるようなことはなかった。
下手したら虐めに発展してしまいかねない状況だけれど、幸いなことにそんな兆候は無い。
自分にはそんな兆候は無いが、二学期も終わりに近くなった頃に転校してきた新しいクラスメイトは、どうも虐めの対象になりそうになっていた。
というかたぶん既に対象になっている。最近、ひそひそとその子の陰口を叩く声が聞こえるようになってきたので。
直接的な被害が出るのも時間の問題だろう。
転校してきて間も無いのにどうしてそんなことになっているのか。
それは、その転校生の子が自分を見える人だと自称しているからだ。
怖い話をしている子たちに寄ってくるからやめておけと注意したり、特に曰くも何も無い場所なのに危ないのがいるから行くのをやめろと止めたり。
そういうことを平然と言うから、気味が悪いとか鬱陶しいとか、陰口を叩かれるようになっていった。
直接酷い言葉を浴びせかける子もいたようだけれど、全く堪えた様子は無く。
陰口も全く気にしていないどころか、「他人の悪口を楽しそうに話す人間は外見も中身もブスだねぇ」と、煽るようなことを言っていた。
たぶん本人にそんな気はこれっぽっちも無かったのだろうが。一切悪気の無さそうな、邪気の無い顔で言っていたので。
そんな具合だから他の子たちからその子は煙たがられていた。
関わり合いになりたくないと、先生以外その子に話しかける人はいない。
(私もあんな風に……)
けれど、そんな転校生の姿に憧れを抱いてしまっている自分がいた。
誰に対しても物怖じせずにはっきりと言葉を口にして、誰の言葉にも影響されることなくそこに立っている。
そんな姿が自分の目には妙に眩しく見えて、憧れるのと同時に少しの嫉妬も抱いていて、そんな己がどこかちっぽけな存在に思えて。
だから、なのか。
まともに話したことも無いのにその子のことが。
不動涼子という、栗原奏には無いものを持っている彼女のことが、憧れているけれど苦手でもあった。
「……かえろ」
そんな自分に対する自己嫌悪に思考が埋められそうになって。
軽く頭を振って暗い思考を無理矢理追い出した。そろそろ帰らなければ叔父さんたちを心配させてしまう。
ただでさえどうやら色々と迷惑をかけているらしいのに、これ以上余計な心配までかけさせたくはない。
慣れた帰り道を歩く。
夕焼けのせいで燃えるように空が赤かった。まるで赤い絵の具を垂らしたような、もしくは真っ赤な血で染め上げたような。
それを見ていると妙な胸騒ぎがする。自然と早歩きになって、少しして走り出した。
長い長い道を走る。走る。走る。
終わりが見えない。おかしい。もうとっくに、いつも曲がる交差点が見えているはずなのに。
ぞぞっと、背筋に悪寒が走った。
足を止めて周囲を見る。誰もいない。車も自転車も何も通らない。
得体の知れない恐怖に呼吸が荒くなっていく。
煩いくらいに心臓が早鐘を打って、本能がこれはまずいぞと警鐘を鳴らす。
ふと、背後に気配を感じた。
誰かいたのかとほんの少し安心して振り返ろうとして。
「前見てないと危ないよ」
「っ!?」
にゅっと後ろから伸びてきた手に目隠しされて、後ろに向けようとしていた顔を前に戻された。
耳元で聞こえたその声はよく知っているもの。
「ふ、不動……さん?」
「うん? うん。そう、不動だけどなんで名前知ってるの?」
「な、なんでって、クラスメイトだし……」
目隠ししていた手が離れて、つい先程自分が自己嫌悪に陥る原因となった相手――不動涼子が顔を覗き込んできた。
「んー?」不思議そうに、誰だコイツと言わんばかりに首を傾げる。
「ごめん。君のことわかんない」
「……ちょっと前に転校してきたばかりだからしょうがないよ」
「あ、クラスの子か。名前は?
「栗原」
「栗原ね、りょーかい」
こくんと頷いて、はいと手を差し出してきた。
意図が分からなくて差し出された手と、不動の顔を交互に見る。
二人揃って同じ方向に首を傾げた。
「あの……?」
「帰りたくないの?」
「帰りたいけど……この手は?」
「迷子になったら困るよね?」
「??」
「??」
お互いの頭の上を疑問符がふよふよ浮いている様子を何故か幻視する。
なんとなく理解する。自分もそうだけれど、目の前の彼女も結構人と話すことがどが付くくらい下手くそだと。
二人の間に変な沈黙が降りて、ひゅうっと風が吹いた。
生温くて、じっとりとした夏特有の暑い風。それを肌に感じた時、遠くからヒグラシのカナカナという声が聞こえはじめた。
――もう冬休みが目前となった、、寒い寒い冬の日だというのに。
落ち着いていた鼓動がまた早くなる。
息が苦しくなって、先程まで全然気にならなかった背後にいるナニカの気配が大きくなって、振り返らなければいけないという気持ちになる。
そんなことをすれば、どうしようもないくらい手遅れになると悟っているのに。
矛盾した心と思考。
金槌で叩かれるみたいに激しい頭痛に襲われて、しゃがみ込みそうになった時、ぎゅっと片手を握られた。
握られた手が強い力で引っ張られて、自然と足が前に出た。
最初はちょっと早歩きだったのが駆け足になって、そのうち全速力で足を動かして。
彼女に、不動に手を引かれるまま走る。ただ必死に、背後から来るナニカから逃げるように。
真っ赤に染まった黄昏の世界から、あるべき場所へと帰るために。
……気がつけば、夕日で真っ赤だった空はもう少しで日が沈みそうになっていて、藍色に染まった場所には星が瞬いている。
車の走行音が聞こえ、すぐ横を自転車が走り、信号待ちをしている人の姿がいくつも見えた。
「帰ってきた……」ぜぇぜぇと肩で息をしながら、どうしようもない安堵に包まれて、思わず泣きそうになる。
さっきまで手を引いて前を走っていた不動はぼんやりとしばしの間夜空を眺めて、腹の虫が盛大に鳴った。
思わず吹き出してしまう。
笑ってはいけないと、口元を手で押さえてどうにか笑い声を噛み殺そうとしたが、ぺちりと不満げな顔をした不動に軽く肩を叩かれて。
耐えきれずに声を上げて笑ってしまった。




