タイミングを逃した結果
秋はどこに行ってしまったのだろう……?
十月になっても暑過ぎて、十一月になってもまるで春のような温かさが続いている。
今年は秋が完全に行方不明だった。帰ってこい。
温暖化が深刻だという話を聞いたりしているが、こうも暑いとそりゃ深刻だなーと思う。
地球が熱出してるようなもんだ。もしくは熱中症になってる。とりあえずあんまりよくない状態。
ずっと変な気温が続いていたせいで、ちょっぴり体調も悪くなった。すぐ治ったけど。
こんなにも気温がおかしくて体がついていけないと、もういっそずっと部屋の中でゴロゴロだらだら過ごしていたい気分になる。でもまあ、そんなことは難しい。
お仕事しないと食べていけないし、そもそも家の中でじっとしているということ自体が苦手なので、一日中部屋に篭るということはあんまりなかったり。
栗原は原稿書くのによく篭ったりしてるけど。最近はなんか忙しいらしくて、あんまり会えてない。
メッセージアプリで連絡を取り合ってはいるけれど、遊びに行くようなことは温泉宿へ行ってから一回だけだ。
物書きの仕事なので締切とか色々あるだろうししゃーない。小説書いてるだけじゃなくて、翻訳の仕事をするためにちょっと今準備し始めるらしいし。
わたしと違って頭いいから栗原。中学と高校の成績もわたしより断然良かったし、高校は一応進学コースのクラスだったし。
それなのに大学行かなかったのは……うん。運が悪かったとしか。
実母がねぇ。ちょっとねぇ。まあ、人生色々あるってことだわな。
「はっくしゅん!」
いたずらされた。
ちょっとむずむずする鼻を押さえて、木々の間に隠れたモノたちを見る。
わたげのようなそれ等は、ふわふわ楽しげに舞い上がって風に流されどこかへ行ってしまう。
山の中だと変なものと遭遇することがよくある。有名どころだと狐とか狸だろうか。
そして人は何故あんな綿毛もどきを幸運の運び手と有り難がるのか。
事実幸運を運んできてくれるのかは知らない。知る気も無い。あれは下手に関わると幸運だけではなく厄を運んでくる。
まあ幸運運ぶ代わりにちょっとした試練乗り越えてね、くらいの感覚なのかも? 何かを得るために何かを成し遂げよというのは、昔からよくある話だ。
遠くから鳥の囀りが聞こえる。
遠いはずなのに近くて、近いはずなのに遠いような感じで。
ほーほけきょ。ぴっちゃんぴっちゃん。かっこうかっこう。ほーほー。てっぺんかけたか。ちゅんちゅん。かーかー。
聞いたことあるような声、聞いたことがあんまりないような。そんな幾つもの囀りが響く。
ぐちゃぐちゃに混ざって、騒がしいのに静か。静かだけどやっぱり騒がしい。変な感じ。
ちゅんちゅん。そこそこ。かーかー。ほーほー。そこにいる。ぴっちゃんぴっちゃん。てっぺんかけたか。うるさいのもってって。ほーほけきょ。やっほっほー!!
もっと上手く真似ろっていうか、人の言葉を話すならなんかそれらしく化けろというか。
あと最後のはたぶん誰か気持ちよく叫んでたんだな。馬鹿みたいに煩いからやめい。
獣道というか、ほぼ道じゃねえ道を行く。
登山道からは大きく外れていて、うっかりすれば遭難しそうなくらい緑が深くなる。
僅かに川の流れる音がした。慎重に、うっかりどこかで足を滑らせないよう気をつけながら、緩やかな斜面を降りた。
降りたところに小川があった。近寄ってみると、上流のためか結構水は綺麗そう。
澄んだ水面から川底が見えた。かなり浅い。小さな魚たちがわたしの影にびっくりして、びゃっと逃げていく。
この川に沿って下へと下っていく。
少しずつ川幅が広くなっていって、大人一人分の広さになった頃。
川の岸辺でぼんやりと座り込んでいる男がいた。
服はボロボロで、あちこちに土やら葉っぱが付いていてまるで急斜面でも転がり落ちてしまったような酷い有様だ。
ふと、男がこっちを見た。びっくりしたように右目を見開いて、口を開くけれど声が出ないらしい。
喉を摩って困ったような顔になって、どうしようって言わんばかりに私を見つめる。
そんなに見つめられたら穴が空いちゃう。
「何か持って帰ってほしいって?」
「!」
尋ねると、男は何故知っているのかと聞きたそうな感じで首を傾げた。
ぐきゅり、というか。ごきゅりというか。なんか微妙な音が聞こえたけど、痛みは無いっぽいからまあ大丈夫だな。
「あんまりにも煩いからどうにかしてくれって頼まれんだよ。んで、持って帰ってほしいものって何?」
「……! !!」
疑問は一旦棚上げしたのか、男は先っぽが無い左手首をばしばし目の前の地面に叩きつけて「ここだ!」と言わんばかりの行動をする。
男のすぐ横まで行ってしゃがみ込んで示された場所を見ると、陽の光を反射してきらりと光るペンダントがあった。
ロケットペンダントというやつだったか。
パカリと蓋が空いたそれの中、しわしわのくしゃくしゃになってしまった写真が。写っているのはこの男と、たぶん恋人っぽい女の人。
どちらも幸せそうに笑っていて、こんなことがなければその笑顔はきっと続いていたのだろうけれど、まあ現実なんてそんなもの。仕方がない。
ペンダントを拾い上げると、でしでし。今度はすぐ近くの地面を叩く。
なんだなんだとそちらに顔を向けると、なんかゴミがあった。
ばっちいなぁと思いつつも拾う。あ、これ紙か。
広げてみたが、所々血らしきもので汚れていて書かれている字が全く読めない。
「これも持って帰らないとダメ?」聞けば、こくこくと何度も頷かれた。ばっちいし、もうこんな状態じゃあ持って帰っても意味無いと思うけど、頼まれたしなぁ。
溜息を付いて、腰のポーチを開けて中から透明なビニールを出す。
あると便利なエチケット袋。これにペンダントと紙を入れて、またポーチに戻した。
「そういえば名前聞いてなかったね。こう、空中に字とか書けそう?」
尋ねれば一生懸命男は自分の名前を書いて、ついでに先程読めなかった紙に書かれていた字も書いてくれた。
解読にちょっと難儀したけど、どうにかこうにか理解できたのでほれほれと自分を指さす。
「目的地まで連れて行くから憑いて」
いいのかと問いかけるような顔をする男に頷くと、ちょっと肩に重みが。
足がどっかいった分軽くなったんかな。
とりあえず電波が通じる所まで行こう。
……山梨で警察の知り合いっていたっけな?
*
ピンポーンとチャイムが鳴った。
仏壇に置かれた写真から目を離し、暫しぼんやりとして。
もう一度聞こえたチャイムにのろのろと立ち上がった。
インターホンに映っているのは見知らぬ若い女性。
セールスか何かかと思いつつ出てみれば、「あ、立花修二さんの奥さんです?」
女性が口にした名前は、ほんの三ヶ月前に山中で行方不明となって、その二週間後に変わり果てた姿で見つかってしまった夫のものだった。
知り合いが訃報を聞いて手を合わせに来たのか。
そう思って少しお待ちくださいと言ってインターホンを切り、重い足取りで玄関へと向かう。
ドアを開ければ、女性がぺこりと頭を下げた。
「この度はご愁傷様です。彼の仏壇に手を合わせたいのですが、今お時間大丈夫でしょうか?」
「ええ、はい。わざわざありがとうございます」
感情の伺えない真っ黒な目に自分の酷く窶れた顔が映っている。
そのことが何故か嫌で、耐え難くて、そっと顔を晒して家の中に女性を上げて、仏壇の前まで連れて行った。
仏壇の前に座ると女性は少しの間手を合わせ、そして後ろにいた自分を振り返った。
「こちら、立花さんの遺品です。どうぞ」
「……ぇ?」
はいと軽い調子で手渡されたのは、夫がいつも肌身離さず身につけていたロケットペンダントとぐしゃぐしゃで汚れている一枚の紙。
「どうして」疑問が漏れる。どうして、夫が死ぬ時も持っていたはずのロケットペンダントを持っているのか。
それはもう見つからないと諦めた物であったのに。
「それと、その紙にはお腹の赤ちゃんの名前が書かれてます。『翔』だそうです。天翔るの翔ですね。なんか、自由に堂々と自分が飛びたい空を飛べるようにとかどうとか?」
「なんで、どうしてそんなことをあなたが……」
「頼まれたので。あと、ごめんなって。赤ちゃん見たかったって。すっごいボロボロ泣いてます」
彼女はやれやれといった様子で、自分の隣を見た。
――そこに、いるのだろうか。
趣味の登山に行くと、翌日には帰ってくると言いながら帰ってきてくれなかった嘘吐きが。
お土産を期待していろと笑って、冷たくなって戻ってきたあの大馬鹿者が。
「名前はもう決めてるんだ!」と、きらきらした笑顔でお腹にいる赤ちゃんへと話しかけていた、大好きだった人が。
「そこに、いるの?」
答えは返ってこない。姿も見えない。
それでもどうしてか、その場所にいるのだとわかって。
元気良く、まるで返事をするようにお腹の命が内から腹を蹴った。
じわじわと、視界が滲む。
ボヤけた視界に、みっともない顔をした見慣れた姿を見た気がして。
「名前決めたなら、ちゃんと帰ってきてから自分の口で教えなさいよこのバカ!!」
力一杯、腹の底から叫ぶ。
母と一緒に抗議するように、腹が何度も蹴られた。
葬式の時も、終わった後も、今の今までちっとも泣けなかったのに。
バカバカと、死んだ人に向かって罵倒を叫びながらわんわん泣いて、泣いて。
「おかえりなさい……!」
言いたかった言葉を。言えなかった言葉を。
ようやく、彼に伝えられた。
『ただいま。ごめんなぁ……ほんとに、ごめん……』
情けない声。よく知った、大好きな声。
それが聞こえた気がして、夫が亡くなってから初めて百合子は心からの笑みを浮かべられた。
「あの、わたしまだ帰っちゃダメ……?」
感動のシーンの横で、空腹を伝えてくる腹を撫でる不動は帰るタイミングを逃してしまったことに気がついて、終始困った顔をしていた。
涙いっぱいの感動シーンはまだ終わってくれる気配が無かった。




