第8話 アリエスとの再会
やがて馬車は、月明かりを反射する城壁の巨大な影の前にたどり着いた。
城門の前では松明が揺れ、衛兵たちが行き来している。夜更けにも関わらず、門前の空気には張り詰めた警戒感が漂っていた。
門を守る衛兵の一人が、近づいてくる馬車をじっと見つめ、眉をひそめる。
「……この紋章、フェルナー商会か」
もう一人の衛兵がうなずき、手を挙げて馬車を停止させた。
「失礼、念のため確認を」
御者台のバルドが、背筋を正して答える。
「フェルナー商会の馬車でございます。当主リュカ様がご同乗です」
衛兵は頷き、表情を和らげた。
「それは失礼いたしました。問題ありません。どうぞお通りください」
形式的な確認だけで、門は滑らかに開かれた。
馬車が再び動き出し、厚い鉄張りの門をくぐると――そこには、ウィンが今まで見たこともない光景が広がっていた。
石畳の通りは夜だというのに人で賑わい、店先には色鮮やかなランタンがいくつも吊るされている。
香辛料の匂いが漂い、焼き菓子の甘い香りと混じって、鼻腔をくすぐった。
通り沿いの露店では客引きの声が飛び交い、金貨や銀貨が触れ合う硬質な音が響く。
街灯の下、旅芸人らしき一団が楽器を奏で、子供たちがその周りではしゃいでいた。
「……これが……王都か……」
ウィンは無意識に窓枠を握りしめ、目を見開いた。心臓の鼓動が、初めて目にする世界に呼応するように高鳴る。
隣に座るミレイユは、そんな彼の反応を横目で見ていた。言葉をかけはしなかったが、その視線はずっと彼を追っている。胸の奥には、名もないざわめきが微かに揺れていた。
やがて賑わいを離れ、馬車は王都の中央部へと進む。大きな広場を抜け、やがて静かな街区へと入ると、周囲の建物は一段と背が高く、外壁も白く整えられていた。
門前で馬車が停まり、バルドが軽く手綱を引く。高くそびえる鉄製の門には、精緻な彫金でフェルナー家の紋章が刻まれている。両脇には衛兵が二人ずつ立ち、槍を胸の前に構えていた。
門が静かに開かれると、その奥には広大な中庭が広がっていた。幾何学模様に刈り込まれた植え込みに囲まれ、石畳の道が屋敷まで真っ直ぐに延びている。中央の噴水からは透明な水が流れ落ち、その水音が夜気の中に涼やかに響いていた。
奥にそびえる屋敷は三階建てで、白い石壁と黒い屋根が威厳を放つ。玄関前には数名の使用人が整列しており、ランタンの光に照らされながら主の帰りを待っていた。
ミレイユはその光景を見て、小さく安堵の息を漏らした。だが、その安堵はほんの一瞬で、瞳の奥には未だウィンを気にかける色と、説明のつかない小さな不安が消えずに残っていた。
屋敷の扉が開くと、磨き込まれた床に豪奢な絨毯が敷かれ、壁には見事な額縁に収められた油絵が飾られている。天井にはシャンデリアが輝き、揺れる炎の光が金の装飾を反射して煌めいていた。
使用人たちが客人の外套を受け取り、温かい湯の入った水盆を差し出す。旅の埃を洗い流すと、そのまま食堂へと案内された。
長いテーブルの中央には、香草を添えたロースト肉、バター香る焼きたてのパン、色鮮やかな根菜とハーブの温かなスープが並び、銀の食器がランタンの光を反射して輝いている。
「改めて礼を言わせてもらおう、ウィン君」
リュカは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「君がいなければ、私は……そして娘は、ここにはいなかった。心から感謝している」
「……助けになれて良かったです」
ウィンは少し照れたように笑い、視線を落とした。
食事が進む中、リュカは自然な口調でウィンの身の上を尋ねる。ウィンは「鍛冶屋で育った」とだけ話し、旅の理由はぼかした。リュカはそれ以上追及せず、その落ち着いた物腰と昼間の胆力に好感を抱く。
「王都に来た理由は?」
「……アカデミーに通っている知り合いに会いに来ました」
「そうか。それなら明日、バルドに案内させよう」
ウィンは姿勢を正して礼を述べた。
しかしその時、ミレイユが控えめに口を開く。
「……もしよければ……私が案内してもいいですか?」
驚いたリュカが目を見開く。「いや、それは――」と言いかけたが、娘の真剣な瞳を見て言葉を飲み込む。
短い沈黙の後、小さく息を吐き微笑した。
「……わかった。ただし、バルドも同行だ」
「はい!」
その返事は力強く、ミレイユの表情には隠せない喜びがあった。
**
――翌日。
王都の大通りを抜けた先、整然と並ぶ石造りの建物群の中でも、ひときわ存在感を放つ塔と広大な校舎がある。
「グラン・セレスタ」――王国随一の学術機関であり、優れた騎士や魔術師を数多く輩出してきた名門だ。
黒鉄の門の前に立つと、衛兵のような制服姿の守衛が、目を細めて馬車を見やった。
バルドが御者台から降り、簡潔に用件を告げる。
「フェルナー商会です。学生アリエス・ライトフット殿との面会を願いたい」
しばらくの確認の後、馬車は校内へと進む許可を得た。
敷地に足を踏み入れると、整備された石畳の道、樹齢百年を超える大木、そして校舎の壁面に刻まれた古代語の碑文が目に入る。
広場では生徒たちが模擬戦を行い、鍛えられた掛け声が澄んだ空気を震わせていた。
応接棟に案内されると、木の香り漂う重厚な扉が開かれ、落ち着いた色合いの客室に通された。
磨かれた机と深緑のソファ、壁には歴代の学長や著名な卒業生の肖像画が並び、荘厳な雰囲気にウィンは少し身構える。
やがて扉が開き、軽やかな足音が響いた。
現れたのは、栗色の髪を高く束ね、鋭い光を宿した瞳を持つ少女――アリエス。
勝気な笑みを浮かべ、迷いなくウィンへ駆け寄る。
「ウィン! 久しぶりね! 今日はどうしたのよ?」
その勢いに押され、ウィンは思わず笑みを返した。
「久しぶりだね、アリエス」
ウィンを抱きしめ、押し倒す勢いで再会を喜ぶアリエスだったが、ふと背後に視線を向け、ミレイユとバルドの存在に気づく。
「……あ、ごめんなさい。そちらの方は…?」
ウィンは軽く手を動かして紹介した。
「こっちはフェルナー商会のミレイユさんと、執事のバルドさんだ。王都まで案内してくれたんだ」
バルドは礼をとり、「お初にお目にかかります」と落ち着いた声で挨拶。ミレイユは控えめに会釈するが、その視線はウィンとアリエスの距離に留まり、胸の奥で小さなざわめきが波紋のように広がっていた。
ウィンは一瞬言葉を選び、二人へ視線を向けた。
「……申し訳ありません、アリエスと二人で話したくて。少し席を外してくれませんか?」
バルドは一礼し、静かに応じる。
「承知いたしました。ミレイユお嬢様、ご案内いたします」
ミレイユは頷き、部屋を後にする。その背中に、自分でも説明のつかない重さを抱えたまま。
**
重厚な扉が静かに閉じ、室内には二人だけが残された。
分厚いカーテン越しの光は柔らかく、磨かれた机の上でランプの炎が静かに揺れている。外のざわめきは遠く、ここだけが別の時間の流れにあるようだった。
ウィンはしばらく何も言わず、視線を机の縁に落とした。何度も口を開きかけては閉じ、そのたびに呼吸が浅くなる。
アリエスはそんな彼をじっと見つめ、焦れたように問いかけた。
「……ウィン、何かあったの?」
ゆっくりと顔を上げたウィンの瞳は、決意と痛みを宿していた。
「……アリエス。……村が……村が魔物に襲われたんだ。」
アリエスの眉がわずかに動く。その言葉は、予想外の刃のように胸に突き刺さった。
「……え?」
「俺は……この魔晶器の力でなんとか撃退できた。だけど……」
喉が詰まり、言葉が重く沈む。視線が床に落ち、拳が膝の上でわずかに震えた。
「……おじさん……いや、僕らの父さんが……死んだ。」
その瞬間、アリエスの瞳が大きく揺れ、血の気が引いていく。
「……は?嘘?……そんな……お父さんが……?」
立ち上がりかけた足がもつれ、膝から崩れる。涙が瞬く間に頬を伝い、呼吸が乱れた。
ウィンは迷わず立ち上がり、そっと肩を抱き寄せる。
「……アリエス……」
声に力はなかったが、その腕はしっかりと彼女を包み込んでいた。
アリエスはその胸に額を押し当て、嗚咽を漏らす。
「……なんで……なんでよ……! お父さんが……うそっ!」
背中を優しくさすりながら、ウィンは黙って彼女の涙を受け止めた。時間がどれほど経ったのか分からない。やがて、呼吸が少しずつ落ち着き、握っていたウィンの服から手が離れる。
ウィンは彼女をそっと離し、真剣な目で見つめた。
「……アリエス、落ち着いて聞いてほしい。……話はこれだけじゃないんだ」
まだ赤くなった目元を拭いながら、アリエスはじっと耳を傾ける。
ウィンは、あの夜に現れた謎の男のこと、そしてその男が黒幕である可能性が高いことを語った。
「……そいつは、おそらく騎士団の関係者だ。そして……アリエスの魔晶器も狙ってくるかもしれない」
言葉の最後には、はっきりとした警告がこもっていた。
「だから……今すぐ王国を離れた方がいい」
しかし、アリエスはまっすぐにウィンを見返し、涙の跡を残したまま強く首を振る。
「……逃げる? 冗談じゃない!」
アリエスは机に手をつき、勢いよく立ち上がった。涙の熱が怒りの熱へと変わる。
「お父さんを殺した相手よ。どこにいようが必ず追ってくる。だったら……こちらから探し出して、お父さんの仇を討ってやるわ!」
その瞳に、先ほどまでの脆さはもうなかった。
「それに、王都の方が警備は厚いし、手練れも多い。アカデミーには騎士団との繋がりもある。ここでなら、犯人を突き止められるかもしれない」
ウィンは言葉を失う。だがアリエスは一歩踏み込み、口角を上げた。
「そうだ、来週、一般選抜試験がある。ウィンもアカデミーを受験しなさいよ。一緒にお父さんの仇を探しましょう?」
…ウィンは仇討ちなど考えていなかった。とにかく、アリエスを守りたいだけだ。
仇討ちなど危険極まりない事に関わって欲しくはない。
だが、アリエスは一度こう決めたら、周りの言うことは全く耳に入らない事も知っていた。
ウィンは短く目を閉じ、息を整えた。
「……わかった。自信はないけど、考えてみるよ」