第5話 旅立ち
朝霧の立ちこめる谷に、微かな風の音が漂っていた。
焦げた木々と崩れた石垣の間を縫い、ウィンはアルバートを背負い、ただひたすらに歩いていた。
すでに温もりを失ったその身体が、信じられないほど重く感じられる。
「父」と呼んだことはなかった。
けれど、ウィンにとって彼は、紛れもなく父そのものだった。
「……ついた」
たどり着いたのは、村のはずれにある小さな泉――《癒しの水源》。
古くから村人たちに信仰されるその水は、エーテルに満ち、癒しの力を宿すと伝えられている。
ダニエルもここで一命を取りとめたはずだ。
ウィンは一縷の望みに縋り、泉に膝をついてアルバートを静かに水に浸した。
「お願いだ……戻ってきてよ……」
祈るように、必死に名を呼んだ。だが奇跡は訪れない。
水面はただ淡く揺れるばかりで、何の応えも返してはくれなかった。
嗚咽を噛み殺していたその時――背後からかすれた声が届く。
「……ウィン……?」
振り返れば、そこにはダニエルがいた。
まだ足取りは覚束ないが、顔には確かな生気が戻っている。
彼はよろめきながら膝をつき、俯いたままぽつりと言った。
「……助けてくれて、ありがとう。お前がいなきゃ……俺、もう……」
俯きながら、絞り出すように言葉を続ける。
「それ……アルバートさんだよな。さっきの叫び声……やっぱり、あの魔物に……」
ウィンは静かに頷いた。
「……魔物は死んだよ。だけど……」
「……死んじゃったのか?」
その声に、ウィンは何も言わずそっと目を伏せた。
重い沈黙の後、ダニエルが呟く。
「……お墓、作んなきゃ。アルバートさん、ここに……埋めよう。俺も手伝う」
二人は泉のそばに小さな墓を築いた。
黙々と土を掘り、石を積み上げる。
墓標には、焦げた剣の柄を突き立てた。
それは数多の剣を打ち鍛えた男の生涯を象徴する印のように見えた。
ウィンはその前に花を手向け、拳を固く握りしめる。
夜明けが白み始めたころ、村へと戻った。
焼け焦げた地面の上にも、確かに生き残った人々の姿があった。
「俺、母ちゃん達探してくる!」
ダニエルは叫び、村の奥へと駆けていった。
ウィンは一人、崩れかけた自分の家へと戻る。
扉を開ければ、机の上には昨日と変わらぬ日常の痕跡、そして壁には――アルバートが鍛えたばかりの剣。
(……頼む、守ってやってくれねぇか。)
その声が、胸の奥で再び響く。
「……行かなきゃ」
視線は棚の上に置かれた一通の封筒へと向いた。
宛名は――「アリエス・ライトフット」
《グラン・セレスタ》王立学術院への推薦状だ。
アルバート唯一の血縁。
彼女にも、同じ危険が迫っているかもしれない。
「アリエスが……危ない」
ウィンは荷物をまとめ、旅用の外套を背負い、立てかけてある父の形見、完成したばかりの剣を腰に据えた。
左腕には、不思議な魔晶器が装着されている。
戦いの後、不思議な少女の声は沈黙を貫いている。
この魔晶器も、標的なのかもしれない。
家を出ようとしたそのとき――
「ウィン!」
駆け込んできたのはダニエルだった。
「家族は無事だった! みんな口を揃えて言ってる……アルバートが守ってくれたんだって! 重傷の人もほとんどいない!」
ウィンはこみ上げる涙を袖で拭った。
「リュークは……どこにもいなかった。逃げたんだと思う」
ダニエルはウィンの荷物に気づき、息を呑む。
「…お前、どこへ行くつもりなんだ?」
その問いに、ウィンはまっすぐに答える。
「都へ行く。アリエスが……村を襲った連中に狙われるかもしれない。」
「……え?なんでアリエスが?…あんな魔物相手に、お前に何ができんだよ?アルバートさんだってやられちゃったんだぞ?!」
ダニエルは必死に止めようとする。
「アリエスだって、手紙で呼び出せばいいじゃないか。父親が死んだって聞いたら飛んで戻ってくるさ。だから……村に残ってくれよ。アルバートさんがいなくなって、居心地悪いなら……俺が、味方になるから。」
その言葉に、ウィンは笑った。少しだけ、泣き笑いのように。
「ありがとう、ダニエル。けど……すぐにでも危険が及ぶ可能性だってあるんだ。……それに父さんとの約束なんだ。」
そういうと、ウィンは背を向ける。
「…まてよ!ウィン!…俺、お前に借り作ったままなんて嫌だからな!……絶対に無事で戻って来いよ!」
ウィンは振り向かず、左腕を掲げ、歩き出した。
魔晶器が、陽光を反射し眩く煌めいていた。
まだ見ぬ都、《グラン・セレスタ》へ――