青い箱のハーモニカと赤い箱のハーモニカ
――ガンッ!
小沢 美希は薄暗い父親の部屋で、ハーモニカを真上からゴミ箱へ叩き込んだ。紙で出来た青い箱ごと叩き込んだが、ブリキのゴミ箱からは金属同士がぶつかる大きな音が聞こえた。紙の箱は衝撃で破れてしまったのだろう。ゴミ箱はまだ微かに揺れている。中学一年生とは思えない凶暴な力。
ゴミ箱の揺れが収まるのと同じタイミングで、美希は我に返った。
自分のやったことが理解できず、恐怖を覚える。身体が震えたのは、二月の寒さのせいではない。
何やってんの? 私……。
先月、美希は父親を亡くした。映画のような突然死。三十七才の若さでの突然死。
――心筋梗塞? 脳卒中? ナントカ出血だったっけ?
父親、隆弘の死因を美希は思い出せない。
母親の咲子から聞いたはずだが、思い出せない。
美希は隆弘とのいい思い出がない。
だから死因の説明も真剣に聞いていない。
いつもタバコを喫っていて臭かった。
いつもお酒を飲んでいて臭かった。
理由は知らないが、一週間くらい帰ってこないことが何度もあった。
夫がいない一週間、咲子が全く普段と変わらないのが美希には不気味だった。食卓に並ぶ料理が三人前から二人前に減るだけ。
怒りも悲しみも、諦めさえも咲子から感じとることを美希は出来なかった。
「父親の死をたった一人の娘に説明しているとき」でさえも。
雑談の様に伝えられた父親の死因。
小沢家は咲子と美希の二人きりになってしまった。以前は祖父母、両親、美希の五人で生活していた二階建ての家に二人きり。その無駄に広い家に今、微かにカレーの匂いが漂っている。咲子が夕飯を準備している。
美希が、祖父母を亡くしたのは小学五年生のとき。祖母が病死した途端、祖父は衰弱し半年後には後を追っていた。
「嫁が死んだら、旦那は長くねえなあ」
葬儀のとき、叔父が小さく呟いた言葉を今でも忘れられない。
それからたった二年後に父親を亡くすなんて想像すらしていなかった。
隆弘の部屋はそのまま放置されている。咲子は隆弘の遺品を片付けるつもりはないらしい。遺品どころか机の上の灰皿に積まれた吸い殻さえ。
そもそも咲子がこの部屋に入っているのを見た記憶が、美希には殆どない。
スマートフォンの充電器が壊れなければ、美希もこの部屋に入ることはなかっただろう。隆弘が生前使っていた充電器が使えれば、貰ってしまおうと思っただけ。
なにも考えず、直感だけで開いた机の引き出し。
その奥に隠すようにコレがあった。青い箱。箱のサイズ、イラストから中身は簡単に分かる。
ハーモニカだ。
ただ、自分の反応の理由が美希は分からない。何故か、憎悪とも感じる激しい怒りに襲われた。
なんの迷いもなく、自分でも信じられない力でゴミ箱に叩き込んだ。
もう一つ、美希には分からないことがある。振り返り、引き出しの奥を再度覗く。
青い箱と同じサイズの赤い箱。中身は当然ハーモニカだろう。
この赤い箱のハーモニカには全く怒りが湧かない。それどころか、甘い癒しすら感じる。
――――なんで? なんでこんなに青だけ気に入らないの?
少しだけ落ち着いた美希は、ゴミ箱から青い箱のハーモニカを右手で拾った。触るだけで、どす黒いなにかが心に滲み出す。引き出しからは、赤い箱のハーモニカを左手で取りだし机の上に並べた。
箱の色と青い箱だけ角が破れていること以外、全く同じ。何も変わらない。自分の反応の違いの理由が何なのか分からない。
美希の中で、嫌悪感に好奇心が勝った。箱を開けてハーモニカを取り出すことにする。
まず、青い箱からハーモニカを出す。裏表のカバープレートにメッキが施され、銀色に輝いている。メッキ部に指紋一つ付いていない。先程の衝撃で角が少し変形しているが、未使用品なのは間違いないだろう。
ひっくり返して裏面を見る。そこで美希はカバープレートの端に刻み込まれた小さな文字を見つけた。
M A K I……。まき?
何故か再び、このハーモニカをゴミ箱に叩き込みたくなる。ハンマーか何かで、バラバラにしたいとさえ思った。
荒くなった呼吸を深呼吸で宥める。ここでこのハーモニカを壊してしまったら、分かるものも分からなくなってしまう。
美希は赤い箱を開いた。やはり中身は新品のハーモニカ。ひっくり返し、裏面を検める。
M I K I……。みき? 私?
「美希ー、ご飯よー」
台所の方から聞こえた咲子の声に、美希は飛び上がった。
……まずい。多分この状況はすごくまずい。
二つの箱と二つのハーモニカを開けっぱなしだった引き出しに放り込んだ。ハーモニカを箱に戻す時間も惜しい。
咲子に聞こえないように、静かに部屋から出て扉を閉める。「いつもの感じ」を意識して廊下から返事をする。
「今、行くー。お母さん、今日カレー?」
美希は台所へ向かった。
台所のテーブルに置かれたカレーを美希と咲子は椅子に座り、食べている。正面の咲子は、食事中に会話をすることを嫌う。台所にはテレビも無いため、スプーンが皿に当たる音だけが響き続ける。
美希はずっと同じことを考え続けている。
今、お母さんに「まきって誰?」って訊いたらどうなるんだろう?
美希は、「絶対に訊いてはいけない」と思う。根拠などない直感。
緊張しているのだろうか、さっきから下腹部に鈍い痛みが走ってきている。
美希は下を向いた。スプーンを持つ手が止まる。
「なに、ボーっとしてんの? さっさと食べちゃいなさい。お母さん、早く片付けたいんだから」
この咲子の言葉で、何故か美希の痛みがさらに強くなる。脳内で咲子の言葉が繰り返された。
さっさと食べちゃいなさい。お母さん、早く片付けたいんだから
さっさと食べちゃいなさい。お母さん、早く片付けたいんだから
さっさと済ませて帰って下さい。私には今後の準備もあるんです
ある情景が浮かび、美希はハッとする。顔を上げ、咲子の顔をまっすぐ見る。
「なによ?」
「ううん……、ごめんなさい」
美希が咲子の言葉に浮かべた情景は隆弘の通夜。美希は咲子の隣に座らされていた。焼香を終えた親戚たちがかけてくる言葉はほぼ同じ。
「大丈夫?」
「元気だしてね」
「なにかあったら何でも言ってね」
美希は内心、父親が死んだのに悲しむことが出来ない自分を責められているように感じていた。居心地がわるくて仕方がなかった。
親戚たちの励ましも途切れた頃、痩せた女性が静かに現れた。美希と同世代に見える少女を連れている。母娘らしい。
女性は咲子の真っ正面に正座した。少女の手を軽く引っ張り、隣に座らせる。美希の正面。
二組の母娘が向き合った。四人の女たち。
痩せた女性が深く頭を下げる。
「私なんかにまで、お知らせ頂いて感謝しております。この度は……」
「いいから、さっさと済ませて帰って下さい。私には今後の準備もあるんです」
咲子が冷たく切り捨てた。「私には」をわざと強く言った咲子に、美希は何か醜い感情をみた。
不意に美希はただならぬ気配を感じ、視線を痩せた女性から正面に戻す。
少女がこちらを睨みつけている。すさまじい憎悪を感じる。
何故自分がそんな眼で見られないといけないのか、美希は分からない。
無言で女性が立ち上がった。少女に声をかける。
「まーちゃん、行くよ」
少女も無言で立ち上がる。美希を睨んだまま。
二人は焼香をし、そのまま去って行く。誰とも言葉は交わさない。
「またボーっとしてるわよ」
咲子の不機嫌そうな声に美希は我に返る。
美希は返事さえ出来ない。
自分が殆ど直感で辿り着いた答えが、恐ろしくてたまらない。
「あの女の人と子供」って……。
「まーちゃん」って……。
「MAKI」って…………。
父親の、「男」の醜悪さを理解してしまった気がして、胃液とカレーが込み上がってきた。
「……お母さん」
「なによ」
「ううん。なんでもない」
美希は、腹部にどすりと重さを感じた。
あの二つのハーモニカは、お母さんが見つける前に捨てないといけない。
一瞬そう考えたが、諦めた。「そんな生ぬるいことじゃない」と考え直した。
多分、とっくの昔に見つけてる。私にも「まき」にも渡すことを許さないで責め続けている。お父さんを。今も。
――――――――
翌朝、美希は初潮を迎えた。
男どもが畏れすら感じる「女の勘」の欠片を身につけた。
男どもが恐れすら感じる「嫉妬」の欠片を身につけた。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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