第七話
部屋に残されてからも、しばらくの間アニタは立ち尽くしていた。
トスイはもう帰ってこないのだろうか。いや、荷物はある。夜中まで出かける用事があるといっていたから、きっとそれが終わったらこの部屋に帰ってくるだろう。帰ってくるのは……嫌だ。帰ってきて欲しくない。顔を見たくない。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「……ぅ、うゔ、ゔー……!」
瞬間、こみ上げてくる嗚咽を必死に抑える。嫌だ。こんなところで泣きたくないのに。嫌だ。もう嫌だ。全部が嫌だ。もう頑張れない。
「……っ、かえり、たい……帰り、たいよ……父さん、母さん、……みんな……会いたい……!」
未来に、自分が元いた時代に帰りたい。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
訳の分からないうちに過去に飛ばされて、誘拐されて、殺されかけて、今度は王都を目指すことになって、でもそれで帰れる保証はない。
もしこれが夢ならいい加減醒めてほしい。もう充分辛い目に遭っただろう。まだ駄目なのか。死ぬまで終わらないのか。
「……死ぬまで……」
死ぬまで終わらない。なら、死ねば終わる? 死ねば目が覚めて、何もかも元通りなのか。もしかして、未来へ帰ることができるのか?
ちょうど部屋にあるただ一つの窓が目に入る。まるで光に集まる羽虫のように、アニタはふらふらとそれに近づいた。
窓を開けた途端、ぶわりと風が勢いよく吹き込んでくる。下に視線を落とすと、黒々とした地面が目に入った。宿の手前にある茂みは少し距離があるところに植えられている。つまりこの窓の真下は固い地面が剥き出しになっているということだ。高さも十分過ぎるほどあるし、落ちれば絶対にただでは済まないだろう。
しばらく地面をじっと見る。どれくらいそうしていたのかは分からない。
その後はズルズルと、気が抜けたように床に座り込んだ。窓枠に置かれたままの両手は、痛いくらいにそれを強く握っていた。
「……死ねないよ。そんなこと、できない」
死ぬのは怖い。死にたくなんかない。たとえ死ぬのが未来に帰る方法だとしても、きっと別の方法を探すだろう。アニタはそういう人間だった。
大体、何のためにトスイにあんなハッタリをかましてまで生き残ったと思っているのだ。
「…………」
トスイがさっき言ったことは、全部その通りだった。
正直野宿なんて絶対に嫌だったし、早くお風呂に入って身体を清めたかった。だからトスイが大金を出したあの時は驚いたし気になったけれど、止めなかった。この部屋に泊まれなくなるのが嫌だったから。
だけど、この部屋に来てからつい不安になった。あの大金が盗んだりしたものだったらどうしよう。もしそうなら、知らなかったとはいえ自分も共犯になるのではないか。そう考えると後ろめたくて仕方なくなった。彼の言う通り自分は薄っぺらい偽善者だった。
今のアニタは全部が中途半端だ。王都行きを取り付けた時も、あの時は上手くやったと確かに思っていたのだ。だが実際フタを開けてみると、あの男におんぶに抱っこの状態だ。旅の用意も馬も宿も金も、すべてトスイに頼りきっている。
ただ、それをちっとも悪いことと思っていない自分もいることをアニタは自覚していた。自分はあの男に勘違いで誘拐されて果ては殺されかけた被害者だ。その自分が加害者である彼に施しを受けるのは当然のことなのだと主張する自分がいる。
でもきっと、それでは駄目なのだ。まずは自分で立たなければ。他人に頼るのはその後だ。
「……絶対に、無事に帰ってやるんだから」
袖で強めに涙を拭う。少し湿ったその瞳には、大きな決意が宿っていた。
◇
――カタン
扉が小さく開く音が聞こえて、アニタは顔を上げた。膝を抱えてうずくまっていた状態だった身を起こす。アニタが立ち上がると、冷ややかな声が降ってきた。
「まだ起きてたんだ? てっきり泣き寝入りでもしてるかと思ってた」
「話があるんです」
「俺は無いけど」
「聞いて。そのためにずっと待っていたんです」
男が近づいてくる。彼が持っている明かりが眩しくて、アニタは目を眇めた。橙色に照らされた彼女を見た男は少し意外そうな顔する。
「なに、風呂にも入らなかったの? あんなに身体を清めたいって気にしてたのに」
「だから、貴方に話があるからずっと待ってたんです」
「…………」
「お願いだから聞いて。大事なことなの」
「……つまんない言い訳だけはやめなよ」
「はい」
とりあえずは話を聞いてもらえるらしい。だが、あまり長々と話している余裕はないだろう。この男のことだから、いつ話を聞いてくれなくなるか分からない。早速アニタは口を開いた。
「まず、貴方に二つ謝らないといけないことがあります。ひとつは……さっきのことです。あの大金がどんなものであったとしても、貴方が一文無しの私の分まで宿代を出してくれた事実は変わりません。それに感謝もせず、失礼な事をしてごめんなさい。貴方が出してくれた私の分のお金は、必ず返します」
「返す? どうやって? 君、金持ってないじゃん」
「これから働いて稼ぎます」
「は?」
「あと、もうひとつ謝らないといけないことがあります。私、本当は城で働いて五年目の掃除婦なんかじゃありません。今年入ったばかりの新人で、城のこともまだ全然知らない。きっと貴方が欲しい未来の情報も持ってない。今まで嘘を吐いていてごめんなさい」
「……ちょ、」
「だから、未来の情報を教える代わりに無事に王都へ連れて行くっていう交換条件も破棄して欲しいんです」
「ちょっと待ちなって。いきなり何? 気でも狂った?」
アニタは至って正常だ。先に大事なことを全部言っただけなのに。ここまでトスイが狼狽えているのを初めて見た。彼は乱暴に頭を掻きむしった後、心底面倒臭そうな溜息を吐いた。
「はー……頭痛い。こっちはただでさえ外で頭使ってきて疲れてんだからさァ……」
「水でも飲んだらどうですか」
「どの口が言ってんの」
思い切り凄まれてアニタは口をつぐむ。たまたま備え付けの水差しが目に入ったから言ってみただけなのに。
「それでまず何。ここのバカ高い宿代を俺に返すって? しかも働いて?」
「……今の私は、確かに貴方の言った通りの薄っぺらい偽善者です。貴方にだけ大金を出させておきながら、私が一銭も出さず偉そうに口を挟んだのも、とんだ筋違いでした」
自分で自分をろくでもない人間だと認めるのは、何とも心地の悪い思いがする。
真っ当でない金でイイ思いをするのが嫌なくせに、いざその金を使う時には自分の為に見て見ぬふりした卑怯な人間だと認めるのは苦しい。
でも、アニタの行動全部が間違っているわけじゃない。真っ当でないお金でイイ思いをすることに後ろめたさを感じることは、アニタにとっては正しいことだった。
確実に間違っていたといえるのは、見て見ぬふりをしたことと、今のアニタとトスイの力関係だ。
己の正しさを主張する時には、相手と同じ土俵に立たなきゃ意味がない。そのためには、トスイにだけ出させた今のままでは駄目だ。
「あのお金は私が真っ当に働いて稼いで、必ずお返しします」
「……そんなん本気で信じてもらえると思ってんの? たった今自分を薄っぺらい最低な偽善者ですって認めたくせに? 何なら嘘まで吐いてたし」
トスイが言う嘘とは、アニタが先ほど白状したものだろう。己の経歴を偽り、お前の欲しい未来の情報を知っているとハッタリをかましたアレだ。
「やっと正直に話せてさぞ清々しい気分なんだろうけどさァ。君分かってる? それを話すってことは自分には生かすメリットがないって俺に言ってるのと同じだよ」
そんなもの嫌でも分かっている。あの時だって何とか殺されたくなくて、今の自分に生かす価値があると証明したくて、あんな真似をしたのだ。
「それは分かってます。でもきっと、ハナから貴方は私を殺すつもりもないし、殺せもしないんじゃないんですか?」
「へぇ、何でそう思ったの?」
「前回とは違うこの状況と今まで見てきた貴方の性格から、そう思いました」
前回は男と二人だけの密室だったのに対し、今回いるのは宿屋だ。あれだけ受付で目立つ行動をしたのだ、自分たちの顔を宿屋の主人は鮮明に覚えているだろう。それに建物の構造上、騒いで大きな物音を立てれば下の階にもそれは聞こえる。
なにより、人を殺した後の部屋で痕跡を消すのはそこまで容易ではないとアニタは思う。これは掃除婦の経験からの推測だ。小さな鼻血ひとつでも染みになると中々落ちないし、ナマ物の処理は気をつけないとすぐに臭いが漏れて先輩に叱られる。
要するに、この場所はアニタを殺すのに向いていないのだ。彼女を殺したことが明るみに出れば、真っ先に疑われるのはトスイなのだから。誰かに追われながらする旅は、さぞかしやりにくいだろう。この嫌になるほど目敏く用心深い男がそんなことに気づかない筈がない。
「私が貴方なら、こんな宿屋なんかじゃなくて、もっと人目につかないところで殺そうと思います。……それこそ、野宿とかでもして」
「……すごいね君、本当につい昨日まで剣向けられて震えてた女と同じ人?」
「同じです。残念ながら」
アニタだって、出来ることならこんな物騒なやりとりを平然と交わすような女にはなりたくなかった。剣を向けられて震えていたら、すぐに誰かが助けに来てくれる安全な場所にずっと居たかった。目の前の男が自分をここで殺すかどうかではなくて、今日の晩ご飯はどうするかで頭を悩ませていたかった。
でも、この過去の世界はそれを許してくれない。嫌でも強くならなくては、きっと無事に未来には帰れない。
「それで、交換条件は破棄してもらえるんですか」
「破棄したらどうなるの?」
「新たな交換条件を提案します」
「え、また取引するんだ」
トスイの瞳に興味深そうな色が宿る。意外だったのだろう。アニタだって意外だ。今までなら「もう自分には利用価値もないだろうから捨て置いてくれ」と頼んだだろうから。
「私に王都へ行くための術を教えてください」
「王都へ行くための術? 何か前と微妙に違うね」
「貴方が持っている旅の知識や技術を私も身につけたいんです」
具体的には旅支度の要点、移動用の馬の手配、安全な道の情報、良心的な宿の選択などが挙げられる。何事も無く安全に旅をするのは容易では無い。生まれてから一度も王都から出たことのないアニタにとって、どれも一朝一夕で身につけられるものでは無い。だからこそ、それらを指南する役が必要だと考えた。
「仮にその術を身につけたとして、その後はどうするわけ?」
「私一人で王都に向かいます。それで何とか未来に帰る方法を見つけて、帰ります」
「ふぅん。俺に何もかも頼りきりだった今までの状態は駄目と判断したわけか。なかなか良い選択だね」
「ありがとうございます」
「いや、別に褒めてないんだけど。……まあいいや、それで交換条件は?」
「それは、」
「――っ!」
「えっ? トスイさん?」
いきなり目の前で起きた変化に、アニタは目を丸くする。何やらトスイの様子がおかしい。
アニタが交換条件を言い渡す前に、突然表情が大きく歪んだのだ。そのまま彼は勢いよく扉の方を振り返る。その拍子に、酒と煙草の匂いと、わずかに焦げた臭いがアニタの鼻まで漂ってきた。……焦げた臭い?
酒と煙草はまだ分かる。恐らくこれはトスイのものだ。さっきまで出かけていたし、酒を提供する店か何かにいたのだろう。だが、この何かが焦げたような嫌な臭いは何だ。それに先程から何となく、部屋が煙たいような気がする。
「……まさか」
頭によぎった最悪の事態に、アニタは慌てて窓に駆け寄り開け放つ。それと同時に、外――正確にはすぐ下を覗き込んでアニタは息を飲んだ。
先程まで真っ暗だったはずの地面が、炎に照らされて赤赤と色づいていたからだ。
「火事! 火事ですトスイさん! 下の階が燃えてます!」