第三話
扉の先の部屋は、至って普通のものだった。広すぎず狭すぎずで、まだ少し見ただけだが生活に必要そうなものは大方揃えられている気がする。しかし、その部屋にアニタはどことなく違和感を覚えていた。
……そうだ、窓が無いのだ。この部屋には。
「何そんなところで突っ立ってんの。こっちだよ」
「……はい」
とりあえずは男の言うことに従う。促されるまま、アニタはテーブル越しに男と向かい合って座った。
こちらが大人しく席に着いたことに満足しているのか、男は相変わらず薄笑いを浮かべている。
彼が慣れた手つきでお茶の用意を始めるのを、アニタは食い入るように見つめた。
「あのさ、そんなに警戒しなくても毒なんか入れないよ」
「……いえ、手際がいいなと思って見てただけです」
「ふぅん? まぁそれでいいや。紅茶でいい? 飲める?」
「はい」
「ミルクと砂糖は?」
「お願いします」
「量は……うーん。適当でいいか」
「…………」
「はい、どーぞ」
細やかなのか雑なのかよく分からない匙加減で淹れられた紅茶がアニタの前に差し出される。始めから終わりまで見ていたが、変なものは入れられてなかった。たぶん。
アニタはごくりを唾を呑む。今まで特に意識していなかったはずなのに、急に喉の渇きを覚える。それが芳しい紅茶の香りに誘われたものなのか、緊張によるものなのかは分からない。
震える指先をぎゅっと握りこんだ後、アニタは恐々とカップを口に運んだ。
「!」
「はは、すごい顔。そんなに美味しかった? 俺、淹れるの上手でしょ」
「…………はい」
「あ、しかめ面に戻っちゃった。君って結構顔に出やすいよね。分かりやすくて便利だけど」
便利。人に向かって便利とは。全くもって嬉しくない褒め言葉に、アニタの顔は自然と引き攣る。男がそれを気にする様子は微塵もない。
その時ふと、アニタは何かに気づいた。向かい合う男の後ろ、壁に立てかけられたあるものを見つけのだ。
「私の箒……」
「ああ、あれねー。気絶させた後も君がなかなか手放そうとしなかったから持ってきたんだ。それに色々と気になることもあるし」
「気になること?」
「一見するとただの箒なんだけどさ、柄の端の方に変わった細工がされてたんだよね」
細工と言われてピンときた。あの箒には王城の備品であることを示す特別な印と番号が入っているのだ。
いくら掃除用の箒といえど、王城で取り扱われている以上一級品であることには間違いない。あの箒は小汚いが、そこらの市場で出回っているものよりはよっぽど質が良い。そのため、盗難対策として五年前から王城の備品には目印と管理番号、それから定期交換のための製造日が付けられることになっていた。
アニタの記憶が正しければ、あの箒を含む時の石の部屋の掃除用具はつい最近新しく交換されたばかりの筈だ。従って、箒に記されている製造日も今年のものになる。
「印と番号のことですか」
「……そう。あれは確か、少し前から王城で使われてるものだったよね。備品の管理とか盗難対策だっけ? たかが箒一本にお城も大変だ」
「少し前?」
男の発言でひっかかる所があって、アニタは訝しげな顔する。それを見た男がすかさず尋ねた。
「ん? どうかした?」
「備品の管理が始まったのは、もう五年も前だと思いますよ」
「そうかな? 俺はつい最近始まったって聞いたけど」
「いえ、確かに五年前です」
これは城に勤めるアニタが間違っているはずがない。それもつい最近、新人教育の時に先輩に教わったばかりだ。話を聞いて、掃除道具とはいえ一級品のものを扱える誇りと緊張を感じたのを確かに覚えている。
アニタがそう自信ありげに答えると、男の目がスッと細められた。
「ねぇ、今って王国歴何年?」
「は? いきなり何を、」
「いいから。教えなよ」
有無を言わせない声に、アニタは大人しく従うしかなかった。
「……今は、王国歴325年ですけど」
「ん〜、そう? 今は王国歴320年だと思うけどな」
「え?」
「ほら、この新聞見てみなよ」
意味がよく分からないまま、差し出された新聞を受け取る。どうやら地方紙のようで、タイトルの横にはハッキリ「320年」と日付が刷られている。
驚いて固まるアニタの正面から、軽やかで、それでいて冷たく淡白な男の声が聞こえてくる。
「君ってさァ、どこから来たの?」
「ど、どこからって……」
そんなの決まっている。王都にある王城からだ。アニタは生まれてから今までずっと城下に住んでいたし、そこから出たこともない。ないはずなのに。
どうして自分は見慣れない路地裏に居たのだろう。どうしてこんな見ず知らずの男と向かい合って、紅茶を飲んでいるのだろう。仕事は?城は?同僚は?家族は?
今まで何となく考えないようにしていた現実が、容赦なくアニタの喉を絞めあげてくる。
「…………」
新聞を見つめたまま、アニタは黙り込む。
対する男はというと、そんな反応は予想通りなのか、何でもないように会話を続けていく。
「最初はさ、隠密か何かかと思ったんだよね」
男が発したのは、あまりにもアニタと不釣り合いな言葉だった。固まっていたアニタの顔も、流石に驚きに染まる。
「……隠密?」
「そ。だってその服、王城の掃除婦のでしょ? そういう類の人間が変装して使用人になりすますのは常套手段だよ」
自分とは縁のない世界の常套手段を語られてもいまいちピンとこない。第一、アニタは城の隠密などではなく本物の城の掃除婦だ。それも最近やっと独り立ちしたばかりの新人の。
「それで、隠密なら密書の一つや二つ持っているだろうとアタリをつけて、奪ってやるつもりで声をかけたんだけど」
「う、奪う……」
勘違いで未遂とはいえ、王城の隠密から密書を奪おうとするとは何事だ。明らかに堅気ではない人の発想を聞かされて、アニタの顔が歪む。
密書なんて善良な一般市民として生きていれば縁のない代物である。そんなものを一体何の為に使うつもりなのか。それは怖くて訊けなかった。代わりに話の続きを黙って聞くことにする。
「けど、いくら服の中探しても密書どころか武器のひとつも出てこないし、持ち物は箒だけだし? そもそも、そんな格好であの場所に居ること自体おかしいし。いやァ、ちょっと考えたら分かることなのにね」
そう言った男は「やっぱ酒の飲み過ぎは良くないな」と他人事みたいにケタケタと笑う。どうやら初めて出会ったあの時、一応男は酒に酔って冷静さを欠いてはいたようだ。もう少し可愛げのある酔い方をしてほしい。
それより、男の発言の中でひとつ聞き捨てならないことがアニタにはあった。
「ま、待ってください。服の中を探したってどういうことですか? まさか脱がしたんじゃ……」
「うん、全部脱がしたけど? 武器隠し持ってたらどうすんの。危ないじゃん」
「そっそっそっ、それはそうですけど!」
思いきり抗議しようと思っていたのだが、けろりとした顔で、さも当たり前のように言われると気が削がれる。確かに武器を隠し持っていては危ない。チェックするのは当然だ。
男が縄抜けしたアニタを再び拘束することなく、こうして呑気に紅茶を飲ませているのも、彼女が丸腰だという保証があるからこそだろう。
だが、そう簡単に割り切れるものでもない。赤くなったり青くなったり忙しそうなアニタに対して、男は悪びれる風もない。
「大丈夫だよ。脱がして調べただけで、やましいことは何もしてないから」
「……脱がすだけでも充分やましいと思います」
「はは、心外だなァ。俺にも選ぶ権利ってものがあるよ」
「…………」
どうやら言外に「お前など相手にしない」と告げられているようだ。別にそれは構わないのだが、何だか無性に目の前の男の足を踏んづけてやりたくなった。流石にそれは出来ないので心の中で罵倒するだけに留めておく。
変態最低男は話を続ける。
「それで、君は隠密じゃなくて城の掃除婦ってことは分かったけど。気になるところが無くなったわけじゃないんだよね。例えば君のその格好。仮に王城から遠く離れたこの街まで旅をしてきたとしても、服が綺麗すぎるし荷物がほとんど無いのもおかしい」
「えっ⁉︎ ここ王都じゃないんですか⁉︎」
さらりと教えられた事実に驚愕する。確かに裏路地で起きた時に見慣れない街並みだと感じたが、それは普段通らないような場所だからだと思っていた。まさか王都ですらないとは。
目を丸くするアニタを男は意外そうに見た。
「なに、そこからなの? ここはカルタダだよ。南部都市カルタダ」
南部都市カルタダ。名前だけは何となく聞いたことがある。王国の南に位置する貿易都市のはずだ。城下から出たことも出るつもりもなかったアニタは、残念ながらそれ以外の情報はほとんど知らない。
「あの、ここから王都まで行くとしたらどのくらいかかりますか?」
「馬を使っても何日もかかる距離だからね。ただでさえひ弱そうな君の足だといつになるか……うーん、半月で着ければ良い方じゃない?」
「は、半月ですか」
「それに君の場合、ただ王都に行けば良いってだけじゃなさそうだけどね」
ちらりと、男が箒の方に視線を走らせる。
そうだ。その問題が残っていた。時空を行き来できるという伝説を持つ時の石が放った強烈な光。目が覚めたら居た王城からはるかに離れた南部都市。自分の記憶と微妙に食い違う男の発言。五年前の日付が記された新聞。
以上のことから推察するに、自分はおそらく……
「……い、おーい。聞いてる?」
「え? あ、え?」
ずぶずぶと思考の沼にはまっていたところで、急に現実に引き戻されて一瞬アニタは混乱する。ハッとして正面を見ると、男は紅茶を飲んでしげしげと此方を観察していた。
「君すごい度胸だねぇ。仮にも自分を誘拐した相手の前でそんなに無防備でいられるなんて。そんなに俺の側は居心地良かった?」
……嫌味だ。顔は笑っているが、これは完全に嫌味だ。だが、これは男の言わんとしていることが正しいのでアニタはぐうの音も出なかった。今は人生最大の非常事態だというのに、気が緩みすぎている。まずは目の前のことに集中しなければ。精一杯のしかめ面を作ったアニタは、話の先を促した。
「それで、何のお話だったんですか」
「そろそろこのお茶会もお開きにしようかって話をしてたんだよ」
「……お開き?」
「ん。名残惜しいけど、ずっとこうしてる訳にもいかないんだよね。俺も行かなきゃならない場所があるし。ほら、君も立って」
「…………」
先に席を立った男にならって、アニタも席を立つ。
何故だろう。男が話している内容は全て何の変哲もないものなのに、ものすごく嫌な予感がする。背中をゆったりと伝っていく一筋の汗が、やけに冷たく鮮明に感じられた。
「君と話せて楽しかったよ。あの変な箒を信じてみて良かったかも」
「?」
「流石に最初考えた時は余りに馬鹿らし過ぎたけど。でも君が嘘を吐いてる様子はないし、そうじゃないと色々説明しきれないし? 今は、もしそうだったら面白いなって思ってるよ」
男は流れるように自然な動作で己の腰へと手をやった。その手があるものに触れると、穏やかだったはずの男の表情が、何とも残念そうなものに変わる。
「今更、君が本当に未来から来たかどうかなんて考えても、仕方がないんだけどね」
男の手には、抜き身の剣が握られていた。