第二話
身体が痛い。それに何か変な臭いがする。ぼんやりとした意識の中、アニタが始めに感じたのはそれだった。
おかしい。王城はこんな臭いがしただろうか。こんな、何かが腐ったような……、
「――っ!」
まどろみの中、強烈な違和感を覚えたアニタは飛び起きた。目を開けると辺りが暗くて驚く。さっきまでは確かに昼だったはずなのに。
それに、アニタが居る場所は室内ですらなかった。見慣れぬ建物同士の間、細くて薄暗い路地にポツンと独り。地面の石畳は血と鉄が混じったみたいな不気味な色をしている。身体が痛かったのは、硬いこの場所に横になっていたからのようだ。
「ここって、どこ……? なにこれ……?」
アニタの問いは当然のものだった。何なんだこれは。つい先程まで、確かに時の石の部屋にいたはずなのに。そこでいつも通り掃除をしようとして物置に近づいて。箒を手にしたところで……謎の白い光に包まれたのだ。その後から記憶がない。自分はおかしな夢でも見ているのだろうか。
だがそれにしては臭いも感触も鮮明で、やけに現実的だ。加えて、起きてからずっと手元にある箒が気になった。それが意識を手放す直前に持っていたものと瓜二つだったからだ。
いやでも、こんなもの夢に決まっている。さすがに職務中に居眠りするのは駄目だ。早く目覚めなければ。そう思ったアニタは急いで自身の頬をつねる。
「あ、あれ? 痛い……」
何度つねっても痛い。場所の問題なのかと腕や脚もつねってみるが皆すべて痛い。つねられた箇所が痛みを訴えるたび、これは現実なのだと無情に告げられている気がした。
途端にアニタの胸に恐怖と不安が突き抜ける。一体どういうことなのか。何だってこんな暗くて汚い裏路地に放置されなければならないのだ。どこからともなくやってくる腐敗臭が憎らしくて仕方がない。
勝手に滲んでくる涙を決して流すまいと、アニタが箒を待つ手に力を込めたその刹那。
「ん〜? こんなとこに掃除婦さんがいる」
背後から突然声をかけられる。当然アニタの肩は大きく跳ねる。それは、この薄汚れた場所にそぐわない軽やかな声だった。
唯一の武器である箒を胸に抱き寄せて、アニタはおそるおそる振り返ってみる。
声が低いことから予想はしていたが、アニタの後ろには男がひとり立っていた。顔は暗くてよく見えない。それにだいぶ酒臭い。……もしかすると酔っている?
「あ〜? もしかして俺の汚部屋をどうにかするために、とうとう女神様が遣わしてくれたんだァ?」
「は?」
「おお、神よ! 感謝します! ついさっきまで神なんかクソ喰らえと思ってましたが撤回します!」
男は訳の分からないことを喚いている。そのままアニタに近づき肩を抱くと、ぐいっと強い力で彼女を連れて歩き出した。もちろんアニタも黙って大人しく連行されるわけにもいかず、身体をねじって抵抗する。
「ちょっと! 離して!」
「――いいから。黙って付いて来なよ」
「え?」
耳元で囁かれたその声は随分と冴えていた。さっきまでの、フニャフニャとみっともない酔っ払いが出したものとはとても思えない。呆気にとられるアニタをよそに、男はさらに続ける。
「後ろに男が三人いる。さっきまで君を見ながら売るとか剥ぐとか言ってたけど、知り合い?」
聞かされた物騒な単語に血の気がサッと引く。勢いよく首を横に振ると、男が少し笑った気配がした。
彼の吐く息からは酒の香りがプンプンする。相当呑んでいると思うのだが、先程と打って変わって酔っ払っているようには全く見えなかった。
「いや〜、それにしても驚いたよ。随分と綺麗で身なりのいい死体だなと思って見てたら突然動き出すんだからさァ」
「死体って……私のことですか?」
「そー。ここら辺は死体がごろごろ転がっててもあんま驚かれないの。あとちょっと起きるのが遅かったら追い剥ぎに遭ってたかもね」
「…………」
「あ、でも近づいたら流石に生きてるって分かるか」
男の発言ひとつひとつが、アニタにはどこか遠くの非現実的なものである気がしてならない。けれど、これはきっと冗談ではない。平然と語られているそれは、紛れもない事実なのだろう。
勝手に震えはじめる身体を叱咤して、アニタは男の方を真っ直ぐ見据える。
「貴方は誰ですか?」
「誰って、可愛い掃除婦さんを拾った幸運な男だよ」
「真面目に答えてください。それに、どうして見ず知らずの私を助けてくれるんですか?」
「ん〜。助ける、ねぇ。君の中の助けるの定義がどんなもんか知らないけど……」
そこで男が言葉を切る。ちょうどその時、薄暗かった路地を抜けて、ようやく月明かりが届く道へと出た。青白い月の光に、男の顔が照らされる。
灰色がかった銀髪に隠れた、昏く濃い紫の瞳と目が合った。その表情には、まるで弱った虫を喜んで殺す子供みたいな残虐さと仄暗さが感じられた。
「俺としては、お前を助けたつもりはないよ」
刺すような鋭い声とともに、鳩尾に鈍い衝撃が走る。
気づいた時にはもう遅い。己の迂闊さを後悔しながら、アニタの意識は再び途絶えた。
◇
「う……ん……?」
鳩尾に不快感を覚えて、アニタは覚醒した。無意識に身じろぎしようとしたが、身体が上手く動かせない。どうやら後ろ手に縄で縛られているようだった。口にも布が噛ませられている。
ここが何処なのか知りたくて、なんとか頭を動かし周囲を見回す。窓もないので、残念ながら屋内ということしか分からない。アニタが今寝かせられているのはベッドのようだ。
(……私、さっきから意識失いすぎじゃない?)
ひとしきり状況を確認したところで、アニタはそんなことを考える。本来ならばもっと焦ったり怯えたりする状況なのは分かっている。だが、その反応は既に先程の汚い裏路地でやった。度重なる異常事態に、アニタは一周回って冷静になっていた。
「はへはひはへんはー……?」
一応噛んだ布越しに呼びかけてみるが、もちろん返事はない。周囲に誰もいないこと確認したアニタは、今度は己の手を縛っている縄に意識を集中させた。何とか縄を抜けられないか試してみる。
(あれ? 意外とゆるい……これなら何とかいけそう)
昔、もしもの時のためにと伯母の旦那さん――つまり血の繋がりは無いが伯父――から縄の抜け方を教わったことがある。その時の伯父の顔があまりにも必死で真剣だったので勧められるがまま習ったが、まさか本当に使う時が来るとは。
縄から無事逃れた後は、噛まされていた布も外す。よだれがべっとり浸透していた。汚い。
「へぇ、縄抜け出来るんだ」
「ぎゃああああ!」
「声でか」
いきなり聞こえた背後の声にアニタの心臓はこれでもかと跳ね上がった。
完全に油断していた。ワタワタと慌てた拍子にアニタはベッドから転げ落ちる。そのまま追い討ちをかけるかのように、床に思い切り身体を打ち付けた。驚きと痛みで満身創痍なアニタに、若干引いた声が降ってくる。
「うわ、すごい音。痛そー」
「だ、誰のせいだと……!」
思わず文句を言いかけて、アニタは我にかえった。それから竦む足を何とか動かして、声の主と距離を取る。アニタの視線の先には例の銀髪の男がいた。その顔に貼り付けられた薄っぺらい笑みには、奴の底意地の悪さが滲み出ている……ような気がしなくもない。
「君ってさァ、よく分かんない子だよね。縄抜けはするくせに、ベッドから転げ落ちるような間抜けだし」
「……縄抜けは、伯父が騎士なので護身用に教えてもらっただけです」
「ふーん。でも縄だけ抜けても外に出られなかったら意味ないよね」
「そんなことないと思います。手が使えるのと使えないのでは大違いです。……何かされても、反撃できますし」
「何かされても反撃、ねぇ?」
男はヒョイと片眉をあげてアニタの言葉を復唱する。その余裕そうな表情が腹立たしいし、恐ろしい。けれど、簡単に潰されるつもりもない。できるだけ毅然とした態度に見えるように、アニタは背筋を伸ばした。
「へぇ。弱そうなのに、意外と気丈なタイプなんだね。もっと泣き叫んだり喚いたりするかと思った」
「……そんなことしません」
「なんで?」
「嫌いな人の前で泣きたくないだけです」
「……ふぅん。つまんない理由」
「…………」
人に尋ねておいて失礼な男である。アニタは無意識にお仕着せのスカートをキツく握った。路地に寝ていたせいか、エプロンが少し汚れている。
「そうだ、こっちおいでよ。お茶でもしながらゆっくり話そう」
自分の言いたいことだけ言った後、男はさっさと奥の扉へと消えていってしまう。周りを見回しても出入口はその扉ひとつしかない。どうやら従う他に道はなさそうだ。
「……大丈夫。きっと何とかなる」
小さく自分にそう言い聞かせる。
男の目的はまだ分からないが、アニタを殺すつもりならもうとっくに殺しているはずだ。お茶に誘う必要もない。少なくとも今すぐ命の危険があるわけではないはずだ。
冷静に状況を分析したアニタは、その足で扉へと向かった。