その後の小話
本編後のある日の二人。大体イチャついてるだけです。
アニタは王城の使用人宿舎、トスイは城下で一人暮らししてる家があります。
――今だ、今このタイミングで言うしかない。
二人で出掛けた休みの日の帰り道。そう心の中で意気込んだアニタは、何気ない世間話を装って口を開いた。
「……そういえば、トスイさんの家ってこの近くですよね」
王城へと続く夜の通りを歩きながら、アニタは右隣の男をちらりと盗み見る。どうやら声は平静を保てていたようで、男がこちらを訝しむ様子はない。どうかこのまま自然な流れで話が進みますようにと祈りながら、アニタは続ける。
「前にこの通りから一本はずれた所にあるって言ってませんでした?」
「そうだね。ここからなら歩いてすぐ」
「あの、それじゃあ少しだけ寄らせてもらえませんか?」
「…………は?」
飄々と前を向いていたトスイが、途端に怪訝な顔をしてアニタを見た。……しまった、今の切り出しは不自然だったか。そう考えて、アニタの背中に冷や汗が伝う。
だが、ここでそう簡単に引き下がるわけにもいかない。
アニタはわざと男と目を合わせないようにした。「ここがトスイさんの生活圏内なんですね〜」と当たり障りのないことを言って、とりあえず周辺をきょろきょろと見回しておく。必殺気づかないフリである。
「ほらトスイさんが住んでる場所、一度ちゃんと知っておきたいなって思ってたんです。病気とか怪我とか、何かあった時のために」
「…………」
「トスイさんがもし熱を出したりしたら、お見舞いにも来られますし」
「…………」
「……あの、中には入らず、外からどの家か教えてくれるだけでいいんです。……駄目ですか?」
トスイは何も言わない。眉間にシワを寄せたまま、穴を開くほどアニタを見つめている。流石にそこまで見つめられると視線を合わせないわけにもいかなくて、アニタはとうとう男の方を見た。
そして目が合ったその瞬間、濃い紫色がキツネみたいに弓形に細まる。
「……知ってる? 君ってさァ、嘘を吐くとき左目の方だけ瞬きの回数が異様なほど多くなる」
「⁉︎」
「まあ、嘘だけど」
「⁉︎」
「俺がいちいちそんなの数えてるわけないでしょ」
「バカだね」と男は何とも愉快そうに笑う。その腹立たしい表情を見て、自分は上手いことカマをかけられたのだとアニタは悟った。……く、悔しい。今更この男相手に嘘をつき通せるなどとは思っていないが、いくら何でもバレ方がダサすぎる。
「それで何? 君は俺の部屋に寄りたいらしいけど」
「…………はい」
「それは君が今日一日やたら思い詰めた顔してたのと関係あるわけ」
「えっ……私、そんな顔してました?」
「してた」
食い気味に肯定されてしまった。思わずアニタが自分の顔を両手で押さえていると、上からいつもの素気無い声が降ってきた。
「ま、いいや。事情は家で聞くから」
「え、」
「行くんでしょ、家」
アニタがうんともすんとも言う前に、正面から男の手が伸びてくる。そのまま彼女の手をかすめ取ったかと思うと、手を引いて歩き出す。
その方向はもちろん王城の使用人宿舎ではなく――トスイの家だった。
◇
――バタン
扉が閉まる音を背にして、アニタは少し息を飲んだ。一方で隣に居る男は慣れた様子で奥に進んでいく。当然だ、ここは彼の家なのだから。
「何そんなところで突っ立ってんの。こっちだよ」
「は、はい!」
「ふ、声でか」
威勢の良すぎるアニタの返事に男がおかしそうに笑う。ゆったりと歩き出す男の後ろに、慌ててアニタも続いた。
部屋に到着すると、ベッド脇にある椅子に腰掛けるよう促された。どうやらこの部屋に椅子はこの一脚だけらしい。
トスイはどうするのだろうかと思っていると、彼はベッドに腰掛けた。ちょうどアニタと向かい合わせになる位置だ。
ほどよく引き締まった男の長い両足と、ゆったりとしたスカートに包まれた女の両足が、触れそうで触れないギリギリの近さで膝を突き合わせている。
アニタは俯いたまま、その光景をぼうっと眺めていた。数秒の沈黙の後、正面の男が口を開く。
「それで? 何があったわけ」
ゆっくりと顔上げると、トスイの瞳がこちらを射抜いていた。その真剣な瞳の奥に確かな心配の色を見つけて、アニタは申し訳なくなってしまう。
「あの、ここまで連れてきてもらっておいて言うのも何ですけど……別に、大したことではないんです」
「君にとっては大したことだから、あんな暗い顔してたんじゃないの」
「それは……」
「いいから、さっさと話してみな」
ぶっきらぼうな口調のくせに、声にひとつも棘がない。その事実にどこか安堵して、ようやくアニタは口を開いた。
「昨夜、夢を見たんです」
それは、あの時に状況がよく似た夢だった。
気がついたらアニタの左腕にべっとりと血がついていて。トスイがどこにも居なくて。アニタは必死になってそこら中を探す。その捜索は朝までかかり、やっとのことで見つけた彼は血塗れで倒れていて。息を確認したところで……そこで飛び起きたので終わりだ。
「たかが夢だって分かってます。でも、でも考えてしまうんです。……あの夢は、私たちに充分あり得た未来だった。もしどこかでボタンを掛け違えていたら、きっと――」
「アニタ」
ふいに名を呼ばれ、アニタは口をつぐんだ。
彼女が膝に置いていた手のひらに男の手が被さる。爪が食い込むほどキツく握り締められていた彼女の拳を、男は丁寧に解いていく。そのままするりと互いの指と指が絡まった。
「……落ち着きなよ。俺は別に死んでない。前にも言ったけど、人のこと勝手に殺さないでくれる」
トスイは不満げな顔をして、繋いだままのアニタの手の甲に唇を寄せた。それから手を解いて指先に、手のひらに、手首に。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音がアニタの手のあらゆる場所に落とされていく。
まるで此方に見せつけるみたいに突然行われたそれに、アニタは激しく動揺した。たちまち顔が真っ赤に染まる。
「!!! な、な、な……!」
「自分で言ったくせに忘れてるみたいだから、教えといてあげるよ」
「と、トスイさ、」
「俺は死んでない。君が生かした。――俺のこれからの未来は、君がぐっちゃぐちゃにするんでしょ」
そう言い捨てて、トスイは目の前の女を引き寄せた。あっという間に女は唇を塞がれて、ときどき柔く食まれて、翻弄される。やっと解放されたと思ったら、今度は頬に、瞼に、耳に、首筋に、またあの音が移動していく。
そして、それが鎖骨あたりにまで来たところでようやく止まった。
「……ねぇ、大丈夫?」
「っ、こ、これが、大丈夫なように見えますか……⁉︎」
「見えない」
ハァハァと何とか息を整えようとするアニタの様子を、トスイは面白おかしそうに眺める。とはいえ流石にこれ以上何かするつもりもないので、力が入らずもたれかかってくる女を、ゆるく抱きしめる程度に留めた。
トスイの腕の中にすっぽりと収まった女が、困惑気味に口を開く。
「わたし、さっきまでお悩み相談をしてたんですよね? それがどうしてこんなことに……?」
「さぁね、君が勝手に俺のこと殺すからじゃないの」
「あれはそんなつもりで言ったんじゃないです」
アニタの声に少しだけ拗ねた気配が混じる。
肩の上で切り揃えられた茶髪が、彼女が俯いた拍子に揺れた。その様子をじっと見つめたまま、トスイは口を開く。
「……悪かったね、気づいてやれなくて」
「何のことですか」
「……不安なんでしょ。君はまだ、俺がいつ居なくなってもおかしくないって思ってる」
「…………」
「いきなり俺の部屋に寄りたいなんて言い出したのも、その関係じゃないの」
「…………」
「アニタ」
「……っ、そうですよ、全部当たりです。私……本当はまだ怖いんです。貴方と別れるたび、もう二度と会えないんじゃないかって、すごく怖くなる時がある。誰にも何も言わずに、居なくなってしまうんじゃないかって」
震える声でアニタはとうとう白状した。してしまった。
過去の世界にいた時の自分はあんなに強くて逞しかったはずなのに。それなのに、戻ってきてからの自分は、むしろ前より弱くて臆病になってしまった。
「部屋に来たかったのは、少しでもトスイさんが居なくならない確証が欲しかったからです。ここで貴方は暮らしていて、ここに貴方は帰ってくるんだって分かれば、きっと安心できるはずだって思ったから」
「……で、安心できたわけ」
「……………小指の先くらいは」
「は、強欲な女だね」
小馬鹿にしたように笑う男の肩に、アニタは抗議の意志を込めたグーパンを軽くお見舞いしてやる。しかし男は微塵も気にした様子はなく。ただアニタを抱きしめる力をほんの少しだけ強くした。
「大体さァ、今さら俺がいなくなるかもしれないから不安とか、よく言うよ。散々人のこと待たせておいて」
「え?」
「……五年も待った女、今さら俺が大人しく離すとでも思ってんの?」
「!」
耳元で低く凄まれて、アニタは目を見開く。
それは彼の確かな執着が滲む、脅しにも聞こえる物騒な物言いだった。……なのにどうしてだろうか。その言葉を聞くと、アニタはひどく安心してしまった。
だから男の背中に腕を回し、耳元で挑むように言い返す。
「……だったら、せいぜい一生繋ぎとめておいてくださいね」
そう笑って、アニタは男の耳にキスを落とした。