幕間小話
時系列は第十四話と最終話の間です。
――ああ、しくじったのか。
目覚めてから最初に浮かんだ言葉はそれだった。
満足に動かせずに横たわる身体も、ひどく痛む利き腕も、カラカラに渇いた喉でする呼吸も、すべてが不愉快で仕方がない。
けれど、それらは今この瞬間もトスイが生きていることを実感させるものでもある。
少しだけ顎をひいて、目線を下に向けてみる。その視線の先にある己の腹には、包帯が巻いてあった。ついでに左肩、右太腿にも。利き腕に至っては、肩から指の先まで巻かれている。
「…………」
一瞬だけ躊躇った後、利き手に力を込めてみた。
……手指が自分の思った通りに動いたのを確認して、そっと息を吐く。どうやら、自分はまだ剣を握ることは出来るらしい。
「アイヤー! 目が覚めたカ!」
ふと、足元からそんな声が聞こえた。おそらく今居るこの部屋――病室の入り口がその辺にあるのだろうと見当をつける。
誰が来たのかは顔を見ずとも分かった。口調に癖がありすぎる。
「……ぁ、グッ、ゴホゴホ!」
「ホラ、水飲みナ!」
返事をするため声を出そうとしても、上手くいかずに咽せてしまった。差し出された水を、身体を起こして受け取る。動いた拍子に身体のあちこちが悲鳴を上げたが、すべて無視して水を飲んだ。
「……店長、」
「ハイヨ。何?」
「あの夜から、どのくらい経ちましたか」
「三日ダネ」
「三日……」
今、状況はどうなっているのだろうか。
意識を失う前に騎士団が到着したのは見た。となると、ナゼールを捕らえることは出来たのか? それともまた逃げ仰せたのか? 私兵団はどうなった?
気になることは山ほどあった。それなのに、何故か一番に脳裏をかすめていったのは、あの生意気な彼女の顔だった。
「……アニタは?」
あの夜、アニタが騎士団に知らせてくれたことは分かっている。だが、予想よりも到着が早かったことが気になった。彼女は後先考えずに行動するきらいがある。こちらが想定していないような、危ない橋を渡ってはいないだろうな。
そんな懸念を抱いたトスイの問いかけに、店長は眉を下げて答える。
「三つ編みムスメは……本当にいなくなっちゃったんだヨ」
「本当に、とは?」
「あのネ……」
店長の口から、トスイ救出のためのアニタの行動が語られる。
アニタが己の三つ編みをナイフで切り落としたこと。それを「自分が人質になっている証拠にする」と言い出したこと。何かを書きつけた紙を、街の宿にいる騎士に届けるよう頼まれたこと。
のちにその紙はアニタ直筆の脅迫状で、届けた相手は彼女の伯父であったと分かったこと。事情聴取を受けて帰った翌朝、アニタの姿が忽然と消えていたこと。
トスイが想定していた以上の、斜め上の行動ばかりを聞かされた。
「アト、店の奥の机にコレがあったヨ」
そう言った店長は、とある一枚の紙切れを差し出した。
◇
それから、しばらく経った後。
陽はもうとっくに落ちて、病室の中は薄暗くなっていた。トスイ以外の人間は誰も部屋にいない。ベッド脇にあるランプだけが、ちらちらとその存在を主張している。
紙切れをトスイに渡した後、店長は長居は無用だとすぐに去ってしまった。こちらの身体を気遣ってくれたのだろう。
それから騎士団の人間もやって来て、軽い事情聴取も受けた。聴取役の騎士がアニタの伯父だったことには驚かなかった。まあ当然といえば当然だろう。おかげでナゼールや私兵団がどうなったのかも、ある程度は聞けたので助かった。
『……あの時、力になってやれなくて悪かったな』
そう言って、彼が頭を撫でてきたのも甘んじて受け入れた。一応、彼には世話になった恩がある。次やったら張っ倒すが。
ベッドに横たわったまま、手にした紙切れをランプにかざす。
ぼんやり照らされたそれは、トスイがアニタにやった紙束の一部だ。完璧に仕上げたはずの地図の上に、とある一文が書き殴ってある。
死にかけのミミズが這った跡のような、乱雑で汚い下手くそな字だった。それでも辛うじて、『325年』『4日』という文字は読める。これは恐らく、彼女がやって来た時代と日付を表す数字だ。
「…………」
……アニタが消えた理由については、トスイはすぐに思い至った。彼女は無事に未来に帰ったのだろう。
いきなり現れて、散々人のことを掻き乱して、そしてまたいきなり消えてしまった。
確かに存在して今まで側にいた痕跡はあるのに、もうこの世の何処にも居ない。
もちろん、王都に行けばこの時代の彼女は居る。けれど違うのだ。たとえ姿かたちは同じでも、向こうはトスイを知らないし、トスイが知っている彼女でもない。
今この瞬間、己が求めてやまない女はこの世界のどこを探してもいないのだと、悟る。
「……あーあ、クソ……」
思わず悪態をつく。本当に、どこまでも腹の立つ女だ。
挙げ句の果てに何だこの汚い文字の紙切れは。こんなもの、「五年後に会いに来い」と言っているも同然だ。トスイが今まで見向きもしていなかった未来の先で、あの女は待っている。
あと五年は生きないと、自身が知るアニタには永遠に会えない。
「……ほんと最悪」
眉根を寄せて、もう一度悪態をつく。
それから心底大きな溜息も吐いて、トスイは悪筆の解読を始めたのだった。