最終話
最初に感じたのは、堅い床の感触だった。
それから、こもった部屋特有の生ぬるい空気。少し埃っぽいそれは王城の掃除婦にとっては馴染みのあるもので、今のアニタにはとても懐かしいものだ。
「…………う、」
瞼を少し震わせ、アニタは目を開けた。ゆっくりと上半身だけ起こして辺りを見渡してみる。
見覚えのある部屋の装飾に、ごちゃごちゃした展示物、その展示室にある長椅子、掃除道具が散らばったままの物置、それから中央にあるガラスケース。
視界に入ってくるそれら全てが、ここは時の石の部屋だと主張している。
「……帰ってきた……」
ただ呆然と、部屋の中央にある台座を見つめる。その上にある白い石はもう光っていない。まるで今までのことは長い長い夢だとでも言うかのように、何の変哲もない石として其処にある。
ふいに、アニタの視界がぐにゃりと歪む。そのままぼやけたかと思えば、すぐに鮮明になる。けれど、またすぐにぐにゃりと歪む。
俯くと、ぽたぽた落ちる雫が床の木目を湿らせる。濡れた頬にあたる毛先は、どれも短くてバラバラだった。
「っ、わたっ、わたし、未来に帰ってきちゃった……!」
帰ってきた。帰ってきてしまった。トスイの無事を確認もせずに。店長の帰りを待たずに。伯父が動いたのかも分からずに。あれほど帰りたかったはずの未来に今いるのに、涙が止まらない。悔しくて悔しくてたまらない。
どうしよう。どうしよう。あの時どうすればよかった?また時の石で過去に戻る?そんなこと出来るのか?方法が分からない。でも早く、早く何とかしないと。そうしないと、
「トスイさん、トスイさんが死んじゃう……」
「……あのさァ、勝手に殺さないでくれる」
ふと誰かの声がした。
それを聞いた瞬間、混乱と焦りで滅茶苦茶になっていたアニタの思考は止まる。それからゆっくりと顔をあげて、声が聞こえてきた先――部屋の入り口へと視線をやった。
入り口には一人の黒髪の騎士が立っていた。涙で視界が悪いせいで、顔はまだよく見えない。けれどその仕草、歩き方や声色は、過去の世界でアニタが散々隣で見聞きしてきたものと、とてもよく似ている。
黒髪の騎士はアニタの前までやって来ると、しゃがんで此方の顔を覗き込んできた。一見すると黒色にも見えるその瞳は、近くで見ると濃い紫色をしていた。
「やっと髪型変えたんだ、アニタ」
そう言って、随分と短くなったアニタの髪を撫でる手は、とびきり優しいものだった。
◇
己の髪に伸ばされた手は、そのまま留まり続けている。いつかの野宿の夜のように、毛先を軽くいじって遊んだり、適当に梳いたりしている。
「ねぇ、ちょっと。聞いてんの?」
「…………」
目の前の、無愛想なこの男は果たして本物の彼なのだろうか。もしかしてこれはアニタがショックのあまり見ている夢、
「っ⁉︎ 痛っ! いたたたたっ!」
「目が覚めた? 残念なことに夢じゃないよ」
「さっ、覚めました! 覚めたから頬をつねらないで!」
髪を撫でていた筈の手がいつの間にやら頬に移動して、思いっきり抓ってきた。この無慈悲で容赦の無い仕打ちは間違いなくトスイだ。幻でも夢でもない、現実のトスイだ。
「……本当に、トスイさんは生きてるんですよね?」
「死んでたら君は今誰と話してるわけ」
「……トスイさんのそっくりさんとか」
「はァ? バカじゃないの」
「トスイさん!! その絶妙に腹立つ物言いはトスイさんです!!」
「うわっ! ちょ、」
興奮のあまり勢いよく抱き着いたアニタを、トスイは何とか受けとめる。しゃがんでいて、不安定な体勢だったにもかかわらず倒れなかったのは流石の体幹である。
「あっぶないな……!」
「……ぅ、実体がある……生きてる……ズッ……」
「竜にでも体当たりされたかと思ったんだけど」
「……ヒッ、ゔ、トスイさんが、生きてる……」
「…………」
「ヒック、……ぅ、ドズイざん……」
「誰それ」
アニタの濁点多めな呼び掛けにドズイがつっけんどんな返事をする。アニタが鼻をズビズビいわせていると「汚い」と嫌そうな声も出された。そのくせ、アニタを抱き締める腕はちっともゆるまなくて、逆に強くなる有様だ。
「……君さァ、嫌いな人の前で泣きたくないんじゃなかったの」
「嫌いでしたよ」
「過去形」
「今も嫌いです」
「……あっそ」
「人を呼びつけておいて、わざと部屋を空ける無礼な男は嫌いです」
「…………」
「全然事情とか教えてくれなくて、いきなり姿を消して、心配をかけさせるような男はもっと嫌いです」
「…………」
「トスイさんなんか嫌いです。……大嫌い」
そう言って、アニタは自分を抱き締めている嫌いな男の肩に顔をうずめた。
嫌いだ、こんな男。自分勝手で、変に秘密主義で、捻くれていて、性悪で最低だ。それに何より、言動と行動がまったく一致していないのが嫌いだ。まるで今のアニタみたいに。
「……ちゃんと話してください。何があったのか」
「……ん」
顔の横でトスイが小さく頷く気配がする。そして次の瞬間、突如としてアニタの身体がふわりと浮いた。いや、浮いたというのは少々語弊がある。正確にはトスイが彼女を抱いたまま立ち上がったのだ。
咄嗟に男の身体にしがみつく。
「え? なに? トスイさん?」
「別に長椅子まで君を運ぶだけだから静かにして」
「は、運ぶって……もしかして貴方は私が歩行できることをご存知でない?」
「うるさいよ」
渾身の煽りを一蹴され、ほぼ強制抱っこ状態で展示室の長椅子まで運ばれる。そりゃ床でずっと話し込むより椅子に座った方がいいのは分かるが、言ってくれれば普通に歩くのに。
そんな風にアニタが戸惑っていると、今度は長椅子に横向きで座らされた。ちょうど横に座ったトスイに背を向ける形だ。ちょっと予想外で新しい会話様式に、アニタはまたもや面食らう。
「……何ですかこの体勢。私、人の話を聞く時は顔を見たいタイプなんですけど」
「あっそ。じゃあ俺は髪切りながら話したいタイプ」
「髪?」
「君の後ろ髪、毛先がガタガタすぎるから揃えるよ。じっとしてな」
「え、今? いま髪切るんですか⁉︎」
「そー。それでまず、あの刺青男の事なんだけど、」
「この状態で話し始めるんですか⁉︎」
いや自由すぎやしないか。確かにちゃんと話してくれとも言ったし、無理矢理切ったせいでガッタガタの毛先を整えてくれるのも有り難いのだが、その二つを同時進行でするんじゃない。というか髪を切るための鋏をいつの間に用意した。
こちらが無抵抗なのを良いことに、トスイの傍若無人な会話様式は続く。
「もう気づいてると思うけど、フリエラの街で見たあの黒い蛇の刺青男は俺の知り合いじゃない」
少々違和感が拭えないが、話始めてしまったものは仕方がない。アニタも大人しくカットモデルに徹して耳を傾けることにした。シャキシャキ小気味良い音が後ろから聞こえる。
「あの男はナゼールが金の力でかき集めた私兵団の一員だよ。あの黒い蛇の刺青は、その印」
ナゼールは、トスイの親の仇の名前だ。裏では有名な大商人で、彼の両親を殺すよう指示した親玉でもある。その仇と黒い蛇の刺青が関係あるということは……
「昔トスイさんが見た、同じ刺青を右足首にしてる人間っていうのは、」
「俺の両親を殺して、使用人も殺した犯人――つまり下っ端の実行犯だね。もう死んでるって言ったのは、俺が探し出したから。自分はナゼールに雇われた私兵で、指示されたから殺っただけだって、ずっと喚いてたよ」
「…………」
「そこからは基本的に、黒蛇の刺青のある奴を追ってたかな。カルタダに居たのも王都を目指したのも、そいつらに吐かせた情報とか噂を参考にしてたね」
どうやらアニタが過去の世界から帰る直前に立てた仮説は概ね合っていたらしい。足首にある刺青をどうやって見たのかはもう聞かないことにした。おそらくアニタが予想した通りの状況だろうし、聞いても嫌なことを思い出させるだけだ。
「トスイさんがあの時に一旦別行動をとったのも、刺青男から少しでも手掛かりを集めようとしてたんですか」
「まあ手掛かりどころか大当たりだったけどね」
大当たりとは、果たして。アニタが首を少し捻ると、後ろの男は淡々と説明を続けてくれた。
曰く、五年前のあの時、実は王都でも水面下でナゼールを捕らえる動きが騎士団の方であったという。それを目敏く察知した小賢しい仇敵は、はるばるフリエラの街まで逃げてきていた。そしてその逃げてきたという情報とその居処を、私兵の一人である刺青男からトスイが聞き出したという流れだ。
つまり、アニタ達が街に入った時点で、ナゼールも王都ではなくフリエラの街に潜伏していたことになる。
「そこで、それを知った俺は早速ナゼールを殺しに行こうと思ったんだけど」
「言い方」
仇討ち決行の表現がカジュアル物騒すぎやしないか。
「そもそもそんな簡単に辿り着ける相手なんですか?ナゼールは王都でも騎士団から逃げ切ったんですよね」
「そこが厄介だったんだよね。万全を期すよう時間かけてたら逃げられるし、かといって無策で突っ込んで行くわけにもいかない。……で、当時の俺が苦し紛れに思いついた策が君も知っての通り、」
「事情一切話さず姿を消し、私を誰もいない部屋に呼びつけ、あの不義理な紙束を見つけさせることで私を万が一の保険にした愚策のことですか」
「急に言葉の圧すごいな」
「うるさいです。こちとらまだ怒ってんですよ。どれだけ心配したと思ってるんですか」
「…………」
「トスイさんの馬鹿やろう」
「…………」
「なんか言ったらどうなんですか」
「……俯かないで。切りにくい」
「……くそやろうじゃないですか……」
アニタの悪態に、文句も弁明も謝罪も無い。代わりに伸びてきた男の手が俯いたアニタの頭に置かれて、再び前を向かせる。その拍子に首筋を撫でた後ろ髪が少しくすぐったかった。
「……君に、髪なんか切らせるつもりじゃなかった」
「え?」
それは一体どういうことだ。思わずトスイの方を振り返ろうとしても、「まだ終わってないよ」と頭を前に戻されてしまった。
いつかの野宿の時みたいに、アニタが彼の顔を見るのを拒まれているような気がする。
「君はあの紙束に書いてあった通りに騎士団に知らせるだけでよかった。その後は安全なところで全部が終わるのを待ってるだけ。俺が君にかけた保険は、それだけだった」
「でも、ただ知らせるだけじゃ説得するのに時間がかかって、トスイさんに何かあったら助からないじゃないですか」
「……別に助からなくていいんだよ。俺はナゼールが殺せれば、その後はどうなってもよかったんだから」
「それは、どういう……」
「親玉が狙われたら、当然周りはその犯人を始末しようと躍起になるし混乱も起きる。そうやって俺が注意を引きつけてる間に、君の知らせを受けた騎士団が到着、っていう感じにするつもりだったんだよね」
「待って、待ってください! つまり、貴方は囮になったってことですか? しかも死ぬつもりで?」
「そうだよ。……それが、俺が選んだ未来の報いだと思ってたから」
「……なんですかそれ、意味わかんない」
アニタの声が震える。前にもどこかで同じように声が震えているのを聞いた。過去の世界で、この男に抱きしめられていた時だ。
トスイは「どんな汚い手を使ってもナゼールを見つけ出して、必ず殺してやる未来」を選んだと告げていた。じゃあその後は?もしその未来が実現したら、トスイはどうするつもりだった?
五年後の未来でアニタと接点が無いことが心底良かったと、一体どんな顔で言っていたのだろう。この男は自分の未来を今までどんな風に思い描いて生きてきたのだろう。
「……トスイさん」
「なに」
「過去で私の箒バキボキに折ったとき、貴方が言ったこと覚えてますか」
「覚えてるけど」
「あの心底腹立つ挑発、たった今乗って差し上げます」
「は?」
シャキン、という鋏の音ともに男の動きが止まる。その隙をついて、アニタはくるりと後ろを振り返った。そのまま利き手で鋏を奪って、もう片方の手で目の前の男の胸ぐらを掴む。
グッと男の顔を引き寄せると、大きく見開かれた濃い紫と目が合った。
「貴方がどんな不幸で惨めな未来をお望みか知りませんけど。そんなの全部、私がぐちゃぐちゃに変えてやりますよ」
そう言って、アニタは目の前の唇を奪ってやった。
勢いをつけすぎて歯があたったが構うものか。せいぜい痛がれ、ざまあみろ。
「言いましたよね。こちとらまだ怒ってるんです。貴方は私が一体何のために髪まで切って、誰のためにあんなわんわんみっともなく泣いたと思ってんですか」
「…………」
「こんな健気でいじらしい女の前でよくもまあ、助からなくてもいいなんて言えましたね」
「…………」
「なんか言えバカ」
「……下手くそ」
「な――」
なんて言い草だこのやろう。そう抗議しようとしたのに出来なかった。あっという間に男の顔が迫ってきて、言葉を紡ぐ暇もなかったからだ。
散々翻弄していったのち、ようやく男が離れる。対する女の肩は上下していて、息も絶え絶えだった。それでも意地と勝ち気さだけは健在で、向かいの男を真っ直ぐ睨みつけていた。
その顔を見た男が嘲るような声を出す。
「ふ、すごい顔。真っ赤」
「……貴方だって今まで見たことない顔してますよ」
「どんな顔?」
「笑ってるのに、泣いてます」
そっと手を伸ばし、ひとつふたつと濃い紫色から零れ落ちていく涙を親指で拭ってやる。この男は随分と静かで可笑しな泣き方をするなとアニタは思う。
トスイはしばらく何も言わず、されるがままだった。最初に浮かべていたはずの此方を小馬鹿にするような腹の立つ笑みはもう消えて、濡れた睫毛だけが僅かに震えている。
「……本当に、君はつくづく不愉快な女だよ。君のすべてが、何もかもが気に入らない」
そう言って、トスイは己の頬に添えられていた手を取った。筋張った指としなやかな指がするりと絡まって、互いにきつく握り合う。
「そうやって変に気が強くて、無駄に口が立って、見苦しいほど諦めなくて、鬱陶しいくらい真っ直ぐ見据えてくる所が気に入らない」
「…………」
「何より気に入らないのは、君がもうとっくに俺の未来を変えてることだよ」
「……え?」
「なに驚いた顔してんの? よく考えたら分かるでしょ。俺がこの場にいることがその証明なんだから」
「と、トスイさんがこの場にいることが、私が未来を変えたことの証明?」
トスイの発言の意味を上手く咀嚼できなくて、思わず同じような内容をそのまま口に出してしまう。
いまいちアニタが理解できていないのを向こうも察したようで、面倒くさそうな顔を隠しもしない。
「仕方ないから教えてあげるよ。君が未来に帰った後何があったのか」
やれやれ、といった様子で肩をすくめる男の態度が癪に障る。だが確かに未来へ帰った後に何があったのかはアニタも気になるので、ここは大人しく話を聞くことに徹する。
「まず最初に言っておくと、ナゼールはもうとっくに死んでるよ」
「え? それじゃあ、」
「俺が殺したんじゃない。騎士団に捕まって、罪を裁かれて処刑されたんだ。今から三年前にね」
ナゼールは三年前に処刑された。トスイに殺されることなく。それが意味することは……
「俺はさ、仇討ちに失敗したんだ。ナゼールの元に辿り着く前に大勢の私兵を相手にして、呆気なく倒れてそれで終わり」
ただ淡々と、何の感情もなく男は事実を語る。
その横に座るアニタは、無意識に己の二の腕に触れていた。その袖にはまだ血の痕が付着している。これはアニタの血ではない。
「……貴方、刺青男に怪我を負わされてたんじゃないですか。しかも利き腕の方」
「さァ? どうだったかな」
「仇討ちに行く前の時点で、衣服に滲み出るほど大量の血を流してたんじゃないですか」
そんな身体で、仇討ちどころか大勢を相手に戦うなんて無茶にも程がある。
アニタの声に非難の色が滲み出る。それを聞いた男は、どこか遠くを見るように目を細めた。
「まー、君の言いたいことは分かるよ。そうやって無茶した結果があのザマだ」
「…………」
「それで、とどめを刺されそうになった寸のところで、いきなりその場に怒り狂った厳ついオッサンが乗り込んで来たんだよね」
「えぇ……?」
いきなり話が急旋回したので、アニタは大いに困惑してしまった。一言一句カオスなのやめろ。
「……伯父ですか?」
「ものすごい剣幕で“俺の姪を人質にとるなんざ、いい度胸してんなクソ野郎共!”って叫んでたけど」
「伯父ですね」
「へぇ。君の伯父さんって職業はガラの悪いごろつきだったりする?」
「騎士です。王城の騎士」
というか伯父のことはトスイも知っているだろう。フリエラの街で一緒に伯父の姿を目撃したはずだ。分かりきったことを聞くんじゃない。
兎にも角にも、伯父がその場に現れたということは、アニタの偽人質作戦が成功したと考えていいのだろうか。
「それからもう驚きの連続。君は何故かナゼールに拉致されたことになってるし、君の伯父さんは部下と一緒に私兵団を壊滅状態にさせるし、店長は本当に君がいなくなったって慌ててるし。全部君の作戦?」
「ぜ、全部というわけでは……」
特に後半ふたつは全くの想定外である。
「まあ君が拉致されたってのは、それからすぐに誤情報だって結論に落ち着いてたよ。君の伯父さんはあまり納得いってない感じだったけどね」
王都にいるアニタの安否が確認されたこと。尋問したナゼールと私兵団員複数の「そんな人質は知らない」という証言が一致したこと。この二点と周辺状況を鑑みて、アニタ拉致情報は誤りとされたらしい。アニタ直筆の脅迫状と切り落とした三つ編みも、結局はよく似せた偽物として処理されたという。
「脅迫状を届けさせた店長にも下手に中身を教えなかったのも良かったね。本当に知らないから、振る舞いがすごく自然だった。勿論あの人が器用なのもあるけど」
そんな騙した手法に対するフィードバックは要らない。
その他にも、死にかけだったトスイは何とか診療所に運び込まれて一命を取り留めたこと、療養中に店長から三つ編み切断事件をはじめとしたアニタの一連の行動を聞いたこと、王都から来た伯父の任務もやはりナゼールを捕らえることであったこと等々、事の顛末を細かにトスイは教えてくれた。
それは有難いのだが、少々詳しすぎるような気もする。特に気になるのが、騎士団の内部事情までしっかり把握している事だ。
「なんかさっきから、やたら騎士団側の事情詳しくないですか?」
「今更それ言うの? この格好見ればすぐに分かるでしょ」
「か、格好って、」
アニタの視線の先には、騎士服を着た男が居る。
そう、騎士服だ。今まで服装を気にするどころじゃなかったので触れていなかったが、何故かトスイは王城の騎士服を身につけていた。ついでにいえば髪の色も銀から黒に変わっている。
これは一体どういうことか。数秒考えた後、アニタは口を開いた。
「……騎士の変装、ですか?」
「違うよバカ。この流れでどうしてそうなるわけ」
「だって、髪色とか違いますし」
「髪は染めてるだけ。地毛は任務のとき目立つから」
「じゃあ本当に、今のトスイさんは王城の騎士になったんですか? お城に忍び込むための嘘とかではなく?」
「そういうこと」
「似合わない……」
「ぶっ飛ばすよ」
思わず素直な感想を漏らすと、じろりと鋭い視線が飛んできた。底意地の悪さが窺えるその顔は、とても騎士がするものとは思えない。
「大体、俺があんなに完璧に仕上げてあげたコレに、こんな下手くそでこの世の終わりみたいな字を書いたのも腹立つんだよね」
「あ、それは――」
彼が懐から取り出したのは、見覚えのある一枚の紙だった。紙上には綺麗な字で書かれた文章や王都までの詳細な地図があって、その上からフニャフニャの汚い字が乱雑に書き殴られている。それは死にかけのミミズが這った跡のようで、とてつもなく読みにくい。
ぱっと見て読み取れたのは『王国歴325年』と『……の月4日』という文字だった。潰れて読めなくなっている他のところを補えば、ちょうどアニタが過去に飛ばされた日の日付になる。
これは間違いなく、アニタが未来に帰る直前に記したものだ。文字が強烈に汚いのは、恐ろしいほどの睡魔で朦朧としていたからだ。あの時何とか手がかりを残そうと足掻いて足掻いて、そして掴んだのがペンとトスイが残した紙束だったのだ。
「まったく、字が絶望的に汚すぎて解読に数ヶ月を要したよ。何度燃やそうと思ったことか」
でもそんなことを言いながら、トスイは五年間ずっと持っててくれていた。そこに記された日付にアニタが過去に行くと分かって、この数日間アニタの帰りをずっと待って…………いや、待て待て。
「あの、今は一体いつですか? 私が過去に行ってからどれくらい経ってますか? 数日? 数週間?」
「数日も数週間も経ってないよ。君がこの部屋に入ってから、五分と経たずに帰ってきた」
「えっ、そんなに短いんですか⁉︎」
ごふん。五分て。間違いなくアニタは三日以上過去の世界で過ごしていたのに。どうやら時間の流れが随分と違うらしい。失踪扱いなどにならないのはものすごく有難いが、今のアニタの格好をどう説明すればいい。三つ編みをバッサリ切った髪に、左袖に血がついた旅装。ものの数分で変わり過ぎである。
慌てて服装や髪を気にし出したアニタに、トスイも何やらピンと来たらしい。ずっと繋いだままだった手を離して立ち上がった。
「トスイさん?」
「すぐ戻るから、ちょっと待ってな」
「あ、はい」
「ん」
何が何だか分からないが、とりあえず素直に返事はしておく。それを聞いて少しだけ満足そうに相槌を返したトスイは、そのままスタスタと部屋を出て行ってしまった。
残されたアニタはというと、何だかじっとしていられなくて、何となく部屋を練り歩くことにした。
(そういえば、箒どうしよう……)
自然とアニタの視線は掃除道具が散らばったままの物置に移る。一緒に過去に飛ばされたあの相棒は、真っ二つに折られて燃やされたためもういない。壊れたと伝えようにも、箒自体が無くなっていては不自然だ。
一体どう言い訳すればいいのやら。アニタが頭を抱えていると、トスイが戻って来た。その手にはお仕着せらしき黒い布と、何故か箒が握られている。
「えっ、どうしたんですかその箒」
「そこの物置に入れといて。一本足りないでしょ」
それはそうなのだが。とりあえず受け取った箒を見てみると、バキボキになったあの箒とそっくりだった。目印も管理番号も製造日も物置にあるものと一致している。あの箒と違う点といえば、こちらの方が綺麗で掃きやすそうなところである。
「どうしてトスイさんがコレを?」
「事前にすり替えといたんだよ。こんな箒一本でも、一応王城のものだから失くしたら面倒なことになる」
「す、すり替え……?」
「君が過去に持っていった箒は王城の備品でも何でもなくて、俺が用意した偽物だってこと。俺が印を写して、管理番号も製造日も、全部俺の字で書いた。で、それを過去の俺が見たらどうなると思う?」
「……身に覚えのない自分の筆跡を不審に思って、その箒の持ち主を調べあげようとするでしょうね」
「そういうこと。あとは君も知っての通り」
待て待て待て。つまり、トスイがアニタの未来から来た話をすんなり受け入れていたのは、あのバキボキにされた箒のおかげということか?
確かに言われてみれば、あんな自分しか信じていなかったような捻くれた男が、あの荒唐無稽な話を素直に信じたのもおかしかった。
「え? え? いやでも……」
「混乱してるとこ悪いけど、これお仕着せね。着替えな」
「え、あ、どうも」
「終わったら声を掛けて。扉の前にいるから」
トスイはもうこれ以上箒について話をする気はないらしい。テキパキとお仕着せをこちらに渡すと、再び部屋を出て行ってしまった。
取り残されたアニタも、とりあえず箒の件は上司に怒られずに済みそうで解決!ということにした。必殺思考放棄である。
それにしても、箒の偽物に予備のお仕着せに、何だか段取りと準備がよすぎやしないか。何ならさっきの髪を切る鋏だってそうだ。切った髪も上手いこと布に集めて床に落ちないようにしているから、器用なものである。
一応向こうはアニタが今日この日に過去に行くのを知っていたのだから、ある程度用意がいいのは変じゃない。だがこうも入念に隙のない準備を見せられると、少し期待してしまう。アニタとこうして会うのを今か今かと待ち侘びてくれていたのではないかと。
そんなことを考えながら、着替えを終わったことを外に伝える。すると部屋に入ってくるなり、トスイは怪訝そうな顔をした。
「何ニヤけてんの? みっともないからやめなよ」
……やっぱりアニタの考え過ぎかもしれない。
「そういえば、トスイさんって前に時の石の部屋に来たことあるんですよね?」
「あー、なんか言ったねそんなこと」
思い出すのは、旅をし始めたばかりの頃に馬上で交わした会話だ。
トスイは彼女が王都を目指す理由を時の石であることを当て、実際に城で時の石を目にしたことがあるとも言っていた。あの時は一体いつ城に出入りしていたのか聞いてもはぐらかされてしまったはずだ。
今度こそ教えてもらえるだろうか。期待する表情のアニタとは対照的に、トスイは何だか微妙そうな顔をしている。
「わざわざ知るほどのことでもないよ」
「いいんです。教えてください」
「まあ別にいいけど。……前に、俺が騎士団の世話になったっていう話をしたのは覚えてる?」
「覚えてます。確か孤児院を紹介してくれたんですよね」
「その時保護された場所がちょうど王都の近くでさ、俺の相手してくれてたのは偶然任務で来てた王城の騎士だったわけ」
ということは、もしかしてトスイは王都にある孤児院に入る予定だったのだろうか。もし彼が孤児院に行って普通に暮らしていたなら、アニタとも何処かですれ違っていたのかもしれない。
「それで、駐屯所から孤児院に移る数日前にいきなりその騎士に呼び出されてさ。何故か王城に連れてかれて、この時の石に部屋に入るよう言われて。後はそのまま五分ほど待たされた」
「な、何故に?」
「……そうだなァ。今思えば、その人なりに両親が殺された俺にチャンスをくれようとしたのかもね」
「?」
「いつまで経っても部屋に居る俺を見て、“やっぱり駄目か”って言ってたし」
「???」
「ま、そこら辺は特に気にしなくていいよ。その後は時の石伝説のこととか、惚気話とか色々聞かされて、時間になってそれでお仕舞い」
「惚気話?」
「掃除婦だった奥さんとこの部屋を切っ掛けに出会ったんだってさ。厳つい顔でいきなり馴れ初め話なんか語るから、すごい気持ち悪かったな」
何だその破天荒な騎士は。いきなり孤児を時の石の部屋に連れて行き、そのまま厳つい顔で妻との馴れ初めを聞かせる。謎の行動すぎる。
「でも、今やその騎士の部下やってるんだから面白いよね」
「えっ⁉︎ 誰がですか⁉︎」
「誰って、俺しかいないでしょ。君が未来に帰った後、縁あって再会して拾ってもらったんだよ」
「いやどんな縁なんですか」
突っ込みを入れるアニタに、目の前の男は呆れたように息を吐いた。「何も分かってないなコイツ」と言わんばかりの溜め息だ。腹立つ。
「言っとくけど、これは君が繋いだ縁でもあるんだからね」
アニタが繋いだ縁とはこれ如何に。もう少し情報が欲しいところだが、「ちょっとは自分で考えなよ」と適当にあしらわれてしまった。
「……君さァ、そんなに察しが悪くて、食堂の肉の配給場所も分からないような間抜け具合でこの先やっていけるの?」
「お、お肉の配給場所……?」
突然のニューワード。……いや、そうでもない?
確か数日前――こちらの世界では一時間ほど前に、お肉の配給場所について会話を交わしたような。
「ああああ!! あの親切な騎士の人!」
「うるさいよ」
「あの人、トスイさんだったんですか⁉︎」
「やっと気づいたんだ。本当バカだよね」
慌てて正面にある顔を見ると、トスイの纏う雰囲気がガラリと変わった。濃い紫色の瞳はキツネみたいな目に見えるよう弓形に細められて、黒色に近くなっていた。
その穏やかな笑みから毒づく台詞が飛び出すと激しい違和感がある。だが、仕草や声色、表情は完璧で、完全にあの時の好青年にしか見えない。
「す、すごい……! トスイさんが笑ってるのに、全然胡散臭くないです! めちゃめちゃいい人そうに見えます!」
「喧嘩売ってる?」
「褒めてます褒めてます」
しれっとそう返すと、トスイが眉を顰めて睨みつけてくる。好青年が消えたのは残念だが、なんだかんだでこの仏頂面の方が見ると安心してしまうのは何故だろうか。
「トスイさん」
「なに」
愛想のかけらもない返事をする男の胸に、アニタは「えいや」と飛び込んだ。ぎゅっと背中に腕を回すと、すぐに抱き締め返されて、二人の間に隙間がなくなる。
「私を五年も待ってくれて、ありがとうございます」
「…………」
「お礼と言っては何ですが、」
そこで言葉を切って、視線を上にあげてみる。
真っ直ぐこちらを射抜く濃い紫色と目が合った。そこに熱が宿っているように見えるのは、きっとアニタの気のせいじゃない。
「貴方のこれからの未来、もっとぐちゃぐちゃにしてやりますから」
せいぜい覚悟しておくことですね。
そう言い捨てて、アニタは足をつま先立てた。