第十四話
ナイフが欲しい。
やや物騒で唐突なアニタのその要求に、店長は特別驚くことはなかった。小首を傾げて不思議そうな顔をする。
「ナイフ? 調理用のヤツならあるヨ。飯屋だからネ」
「それをお借りしたいんです。切るのは食材ではないんですけど……」
「肉も骨もスパッと一発でいけるヤツあるヨ」
「それは食材の話ですよね?」
少々言い方が物騒なのは気になるが、切れ味が良いのに越したことはない。それを持って来てもらうよう頼むと、店長は快諾してくれた。そのまま一階の厨房へと降りて行く。
一方アニタは、その間に別の作業に取り掛かる。必要なのは紙とペンだ。それは誰かさんが親切にも用意してくれていたので、有り難く使わせてもらうことにする。
机上の”王都まで行く術大全”を手に取り、最後の一枚だけ破り離す。それからペンで『この場所を騎士団に知らせて』という一文を塗りつぶした。
読める箇所が地図と場所の名前だけになったところで、とある人物宛ての文面を考えて行く。
(うーん……脅迫文って、どう書けばいいんだろ……)
当たり前だが、生まれてこのかた誰かを脅す文面などアニタは書いたことがない。なので、いまいち勝手が分からない。こんなことなら診療所で受けたトスイの冷血卑劣指導をもっと真面目に聞いておくんだった。まさか本当に脅しを必要とする場面が来るとは。
(とりあえず、無難に『お前の姪を拉致した。上の地図の場所に来い』にしようかな……)
あとは文字を少しだけ震わせて、文章を乱しておく。犯人に脅されて、無理やりアニタがこの文を書かされていると相手方が誤解してくれると助かるのだが。
「三つ編みムスメ、ナイフ持ってきたヨ」
ちょうど脅迫文が完成したところで、店長も帰って来た。よく研がれたナイフが一本、アニタの手元に渡る。
「ハイヨ。よく切れるから取り扱い注意ネ」
「はい。気をつけます」
アニタは受け取ったナイフを利き手に持つ。それから空いている方の手を後ろにやり、垂らした己の三つ編みを掴んで顔の横に持ってきた。そして、ちょうど首の横あたりの位置で毛束をザックリ切り落とす。
――あっという間に、散切りショートヘアの出来上がりである。
「ンエエエエ⁉︎⁉︎」
「わっ! びっくりした」
「アイヤー! アイヤー! アイヤー!」
「て、店長、落ち着いて」
店長が取り乱しすぎて「アイヤー!」しか言えなくなっている。
「三つ編みムスメが散切りムスメになったヨ!」
「散切り娘……」
「何で三つ編み切ったノ⁉︎ 気でも狂ったカ⁉︎」
アニタは至って正常だ。後ろで一つに結いていた三つ編みを切り落としたのも、考えがあってのことだ。まさか九歳の頃から変えていなかった髪型を今変えることになるとはアニタもついさっきまで思っていなかったが。
「この乱雑に切られた三つ編みが、ある人に対しては確固たる証拠になるんです」
「何の? 何の証拠ニ?」
「私が、人質になっている証拠です」
◇
今のアニタができること。それは騎士団にトスイの危険を知らせることだ。間違っても単身で敵の本拠地まで乗り込んで助けに行くことじゃない。それはアニタにとっては自殺行為で、トスイを見捨てたも同然だった。
しかし、だからといってただ騎士団に知らせるだけでは駄目だ。説得するのに手間取って、時間切れになる可能性がある。
そこでもう一つ。今のアニタにしかできないこと。今のアニタが持っている切り札と言い換えてもいい。
それは伯父がこの街に居るのを偶然知っていることである。しかも伯父はそこそこ偉い地位に就いている騎士ときた。これを利用しない手はない。
しかし、未来人であるアニタが直接会って協力を仰ぐのは無理だ。そこで彼女が取った選択は、自分を人質に仕立て上げることだった。
先ほどアニタが書いた脅迫文には、トスイが書いた詳細な地図と場所も一緒に記されている。それにアニタのトレードマークである三つ編みを加えることで、姪のアニタがその場所に拉致されたと伯父に錯覚させる。そして実際にはトスイがいるであろうその場所へ伯父たちに突撃してもらうのが狙いだ。
人質になったという情報は偽物だが、その証拠となる脅迫文の筆跡も、無惨に切り落とされた髪の毛も本物である。誤解させるには充分のはずだ。
唯一の懸念点は、王都まで行って、五年前のアニタ――つまりこの時代を生きているアニタの安否を直接確認をされることである。
だが、徒歩で十日はかかる王都に今からわざわざ真実を確かめに行く可能性は極めて低い。真偽はともかく、これだけ証拠が揃って人命がかかっている以上、伯父なら早急に助けに行く選択を間違いなく取る。
「それで店長には、今から言う宿に泊まっている騎士に、この手紙と私の髪を届けて欲しいんです」
「アイヤー……、髪は女の命ヨ」
アニタから受け取った三つ編みを、店長は気の毒そうに見つめている。確かに髪は女の命だし、気を遣ってくれるのは嬉しい。だがその状態で伯父に会われては困る。
「店長、私の髪はもっと気味悪そうに持って下さい。貴方は偶然宿の近くを歩いていて、いきなり見ず知らずの男にその手紙と髪を渡すよう指示された、という設定でお願いします」
多少無理のある設定だとは思うが、人質になっているはずのアニタが届けるわけにもいかない。ここは第三者である店長頼みだ。
余計な情報を知ってボロが出てもいけない。そのため、手紙の文面や届ける相手の騎士がアニタの伯父だということも伏せて、宿の場所だけ店長には伝えた。
「ソコなら宿の主人と知り合いだからよく知ってるヨ。今度腰の痛みに効く薬草分けてもらう約束してるネ」
「本当ですか! では、腰を痛めて宿に薬草を分けてもらいに来たところで手紙と髪を受け取ったということにしましょう」
「分かったヨ」
実際に今日の昼に腰を痛めたのは事実だから、宿に向かう口実にも丁度いい。嘘の真実味が増す。
「じゃあ早速行ってくるネ」
「はい。あっ、あと出来れば渡してきた男の特徴を聞かれた時はこう言って欲しいんです」
「なんて言うノ?」
「その男は黒い蛇の刺青をしてた、って」
それから、店長が宿まで手紙と髪を届けに行った後。
とりあえず今は店の奥で大人しく待機だ。なにせアニタは現在人質になっている設定なのだ。誰かに姿を見られるわけには行かなかった。
「ふぁ……」
欠伸を噛み殺しながら先程のことを思い出す。
黒い蛇の刺青のことを店長に言うよう指示したのは、アニタの完全なる勘だ。伯父たち王都の騎士が、はるばるこの街に来た理由は分からない。けれどもし、伯父の方でも黒い蛇の刺青集団を追っていたとしたら、より迅速に事が進むと踏んだのだ。
「ふぁーあ……」
また欠伸だ。さっきまで頭をフル回転させていたから、少し気が緩んでしまったのだろうか。それにさっきから異様に瞼が重く感じる。
「……えっ⁉︎」
いや待て、ちょっと待て。おかしい。おかしい!
眠気を感じているのだ。たった今アニタは欠伸を二つも噛み殺し、無意識に目を擦ってしまっていた。さっきまでちっとも眠くなかったし、今までも睡眠欲求は全く無かったはずなのに。
まさか、本当に今朝トスイが言った通りなのか。これが?この眠気が?今眠ったら、アニタは五年後の未来に帰ってしまうのか?
「待って! まだ、まだ帰りたくない!」
誰もいない部屋でひとり、虚空に向かって訴える。
まだトスイの無事を確認していない。店長だって帰ってきていない。伯父が動いたのかも分からない。とにかく今じゃない、今じゃないのだ。
それなのに、容赦なく睡魔はアニタを襲ってくる。眠りたくないのに、身体が言うことを聞かなくて、段々と立っていられなくなる。思考が上手くまとまらない。
「お願い……まって、まって……!」
まだやる事があったはずなのに。もうそれが思い出せない。そうだ、雇い先も見つけたのだ。だが結局一度も働いていない。いや、違う。他にもあったはずだ。もっと大事な何かが。髪まで切って助けようとした。髪、髪?なぜ髪を切ったのだろう。今まで長さはほとんど変えなかったのに。いや、いや。違う。違う、そうじゃない。トスイだ。トスイの無事を見届けなければ。でも彼とは未来で接点が無い。彼はこの時代で死んだから?
(……違う、違う。そんなの認めない……)
そう言おうとしたのに、喉の奥が詰まって上手く声が出ない。夢の中でずっと藻搔いているような感覚だ。
アニタは半ば倒れかかるように、近くにあった机を支えにして立ち上がろうとする。でももう足に力が入らない。
(なにか……なにかしなきゃ……)
助けを求めるように、机上に伸ばした利き手の先に棒のような感触が伝わる。これはペンだろうか?もう分からない。目が開けられない。
(……でも、でも……もしこれがペンなら……)
ペンらしきものを握った手が、机上をふらふらと彷徨う。そして或る物を見つけると、アニタは懸命に手を動かした。
(……王国暦、……325年……の月、……4日……)
ふいにペンを取り落とす。だが、アニタがそれに気がつくことはなく。
ただ静かに、眠りに落ちていった。