第十三話
「もし今夜眠れなかったら、俺の部屋に来て」
この言葉は一体どういう事だ。意味が分からない。分からなすぎて、気がついたらアニタは今夜泊まる自分の部屋でひとり突っ立っていた。部屋まで案内してくれた店長が途中で何か言っていた気がするが、それもよく覚えていない。トスイともあの会話の後すぐに別れてしまったから、掘り下げて聞く事は叶わなかった。というかアニタが思考停止してしまってその機会を逃してしまった。
落ち着け。落ち着け。あの一挙一動に含みを持たせがちな面倒くさい男のことだから、字面通りに受け取るだけでは駄目だ。ちゃんと考えていけば答えに辿り着く。
断じて夜の逢引なぞに誘われた訳じゃない。直前まであんなにしょうもない言い合いをしていたのだ。あのトスイが急にそんなことをしでかす筈がない。
(いやでも昨日のトスイさん、私を散々罵倒した直後に肩を抱き寄せてきたな……)
思い出すのは昨夜の野宿での出来事だ。確かにあの男は言動と行動が全く一致しないきらいがある。口では腹の立つ台詞をポンポン言ってくるくせに、アニタに触れる手つきはとても優しくて非常に困惑した。
そういえば、出会った頃にトスイに服をひん剥かれたこともある。親の仇の手先と間違われて、密書や武器を持っていないか寝ている間に調べられた。今思えば、所持品検査で服を全部脱がす必要はあるのだろうか。下着姿でも充分なのでは。
やはりトスイは変態最低男で、あの言葉もそういう含みを持たせたものなのか?そんな下世話な感じで片付けていいものなのか?
(いやいや、まだ考えなきゃいけないことはある)
トスイは「眠れなかったら」とも言っていた。それで思い出すのは自分と睡眠の関係だ。彼はアニタが眠くなった時が未来へ帰る合図なのではと推測していた。
(……とりあえず、一旦横になってみる?)
そこでやっとアニタは扉の前から移動した。部屋の奥に向かい、ベッドに横になってみる。シーツからは日向のいい匂いがした。きちんと洗濯されているのだろう。なんだか心地よい気分になって、アニタは目を閉じる。……が、眠れない。全く眠くない。
眠れないものは仕方がないので、そのままの状態で他のことを考えてみる。
(そういえばトスイさん、あの変な刺青した男の人とどうなったんだろ)
トスイはそのことについて何も言わなかったが、あのあと無事に話せたのだろうか。店長が犬ぞりの刑に処したせいで、だいぶお怒りだったはずだが揉めずに済んだのだろうか。
(あ、でも、店長があの男の人の上着をはだけさせたおかげで二の腕の刺青が見えたんだよね)
そしてその刺青を見てトスイは男が知り合いだと気づけた。決して目立つようなデザインでは無かったから、通常だと服に隠れて見えなかっただろう。
(…………ん?)
例えば、例えばの話だ。刺青を胸元やお尻などの下着姿でも見え難い箇所に入れたとしたらどうだろう。そういう場合は、きっと服を全部脱がす必要がある。ちょうどトスイがアニタにしたように。
一番最初、彼はアニタを親の仇の隠密だと思っていた。そのあと服を全部脱がして調べて、密書と武器を持っていなかったから違うと分かった。……果たして本当にそうなのか?
あの時は分からなかったが、今のアニタはトスイの用心深くて目敏いあの性格を知っている。それを踏まえて改めて振り返ってみると、そんな性格の男が所持品の有無だけでシロだとあっさり認めるのにも違和感がある。所持品よりも、もっと決定的な目印があったのではないだろうか。
例えば、輪っかになった黒い蛇の刺青とか。
(……いや、いやでも、そんな偶然――)
「――三つ編みムスメ!晩飯できたつってんだヨ!」
「ぎゃあああああ!」
「声でかいヨ」
突然の店長の乱入にアニタの肩がこれでもかと飛び上がる。そのまま飛び起きた拍子にバランスを崩してベッドから転げ落ちた。デジャヴである。
床に思い切り体を打ちつけて、痛みに呻くアニタに店長が近づいてきた。顔の前に一対の脚が並ぶ。
「アイヤー……めちゃ痛そうだヨ。ダイジョブカ?」
「な、なんとか……、店長は何故ここに……?」
「オマエラ、晩飯出来たテ何回言っても降りてこないカラ呼びに来たヨ。部屋に入る前に言ったでショ」
「すみません……」
どうやら部屋に来る途中で店長が言っていたのは夕飯の事のようだ。申し訳ないことをしてしまった。ひとまず立ち上がらなければ。
腕立てよろしく床に両手をついたところで、アニタはある事に気づいた。
「…………」
「三つ編みムスメ? 起き上がらないのカ?」
「……店長、他人が右足首にしてる刺青を見れる状況って、どんなだと思いますか?」
「右足首? ソウネー、普通に本人に見せてもらうんじゃないノ」
「そうですよね。私もそう思ってました」
「他に何かあるのカ?」
「……あります。例えばこんな風に、相手が立ったままで、自分が地面に伏せている体勢なら可能です」
ちょうど今の店長とアニタの状態だ。アニタが床に伏せて、その顔の前に店長の脚が来て、合わせ襟の隙間から両足首が見えている。もちろん肌に刺青は無い。
それを見て、アニタは過去にあの男と交わした会話を記憶の中から引っ張り出していた。
『子供の頃さァ、両親が出先で泊まってた宿で殺されて、そのまま宿ごと燃やされたんだよね』
『トスイさんもその場に居たんですか』
『居たよ。父親にベッドの下に隠れさせられた。そのまま宿が燃えきる前に、運良く使用人が見つけてくれて助かったけど』
『……昔さァ、同じ刺青を右足首にしてる人間を見たことがあるんだよね』
『右足首?』
トスイが昔、右足首にある刺青を見たのは両親が宿で殺された時ではないのか?父親に隠れされたベッドの下から、犯人の右足首に彫られた刺青を見たのではないのか?そしてその刺青こそ、あの黒い蛇の刺青ではないのか?
急速に思考の渦に囚われていくアニタに、心配そうな声が上からかかる。
「……三つ編みムスメ? ホントにダイジョブカ? 二の腕から血が出てるヨ」
「え?」
「左見てみナ。怪我したのカ?」
左側の二の腕など、今まで痛くも何ともなかった。なのに店長の言う通り、二の腕には血がついていて少し湿っている。どうしてもっと早く気がつかなかったのだろう。
「……これは、私の血じゃないです」
左側の二の腕といえば先程トスイに耳元で囁かれた際、その身体と少し接していた場所だ。
だから、これはトスイの血だ。
その瞬間、全身の血の気がサッと引いた。どうして気がつかなかったのだろう。あの男の分厚い外套と黒い衣服にしてやられた。ぞわりと嫌な予感に襲われて、アニタは急いで起き上がる。自室の扉を抜けて、隣にあるトスイの部屋へと駆け出した。
「トスイさん! 居ますかトスイさん⁉︎」
部屋の扉をノックする。しかし反応はない。ノブに手をかけてみると、怖いくらい簡単に扉が開いた。
「入りますよ!」
扉を開けた先、部屋には誰の姿も無かった。
奥の壁に備え付けられた窓が開いていて、夜の冷たい風がアニタの頬を無情に撫でていく。
「アイヤー! 窓から外に出たのカ? ここ二階ヨ」
追いついて来た店長が後ろで声をあげている。アニタを抱えたまま三階の部屋から飛び降りて無傷で生還した男だ。二階の窓から外に出たと言われても、今更驚きはしなかった。
「机の上に何かあるヨ」
「これは……紙束?」
丁寧に紐で綴られたそれを、アニタは近づいて手に取った。紙束の一枚目には、綺麗な字で『物覚えの悪い誰かさんのお望み通り、紙に変身してあげました』と書かれている。
その一文の下からは、各街の簡易的な地図に、地域ごとの宿の情報、安全な道の行き方などが記され、分かりやすくまとめてある。
「この紙束って、王都まで行く術を……」
まとめたものだ。わざわざ高価な紙を買って、トスイの持つ知識や技術を文字に起こして分かりやすくまとめてくれている。一枚、また一枚と紙を捲るアニタの手はいつの間にか震えていた。
(……ちくしょう……)
あの男はとんでもない嘘つきだ。やっぱり言動と行動が一致してない。口ではあんなに底意地の悪いことを言ってきたくせに、こんなに丁寧で思いやりに溢れたものをくれるとはどういうことだ。どうして直接会って渡してくれないのか。こんな置き土産みたいな真似をされて、アニタが素直に受け取れるとでも思ったのか。ちっとも心配しないとでも思ったか。
そうだとしたら大間違いだ。アニタはさっきから怖くて不安で堪らない。鼓動が恐ろしいほどに早まっている。誰かを心配するのが、こんな心臓に悪いものだとは思わなかった。
十中八九、トスイは刺青男の仲間のもとへ向かっている。しかも傷を負った状態で。その目的は何かハッキリとは分からない。王都にいるはずの親の仇が見つかったのか、それとも単に仲間から情報を集めるためか。
別に何ともないならそれでいい。こんな意味深に出かけておいて、案外すぐにひょっこり戻ってきてもいい。仇討ちだって勝手にしたらいい。
でも死ぬのだけは駄目だ。五年後の未来で接点が無いとは言ったが、こんな形は許さない。死に別れなんて冗談じゃない。こんなの未来に帰ってから一生引きずること間違いなしじゃないか。
「……貴方のこと、何が何でも助けてやりますから」
今この場に居ない男に向かってそう呟く。こんなところでトラウマ植え付けられてたまるか。そのためにはどうすればいいか。アニタは必死に頭を巡らせて考えた。
気にかかるのは、トスイが「もし今夜眠れなかったら、俺の部屋に来て」とアニタに伝えた理由だ。もし彼がまたこの部屋に無事戻ってくるつもりなら、そんなこと言う必要が無いはずだ。アニタが眠れないことはトスイも知っているし、部屋にいない事がバレたら騒ぎになるのは目に見えているのだから。
わざわざ時間差でバラすような真似をしたということは、トスイはここに戻ってこれない可能性の方が高いと考えた、あるいは戻ってくるつもりがないことを示しているのではないか。
だとしたら、アニタはどう行動するのが正解なのか。あの男は一体自分に何を求めていたのか。考えろ。考えろ。
(……私に伝えることで、保険をかけた?)
その結論に行き着いたアニタは、まとめてある紙束を勢いよく捲くっていく。あの用心深くて目敏い男のことだから、これにも何か仕込んではいないだろうか。
「――あった!」
その考えはどうやら間違っていなかったようで、最後の一枚にソレはあった。どこかの場所の名前とその地図が描いてあるレイアウトは他の紙と同じだが、その下に『この場所を騎士団に知らせて』と書かれている。
「店長、この場所分かりますか」
「これは……街の中心から大分外れた所だネ。賭博場とか色街の近く、ガラ悪いヨ」
「今から騎士団に駆け込んだとして、すぐに動いてこの場所に行ってくれると思いますか」
「ウーム、すぐは難しいかもネ」
店長が難しい顔をして唸る。やはり厳しいか。
騎士団も暇じゃない。いきなり「仲間が危険な目に遭ってるかもしれないから、この場所に今すぐ向かってくれ!」と伝えるだけじゃきっと駄目だ。まずは状況をきちんと説明して、納得してもらう必要がある。だが説得するのに手間取って、トスイの万が一のことがあったら元も子もない。
どうすればいい。今のアニタにできることは何だ。今のアニタにしかできないことは何だ。考えろ。考えろ。
「ナンカ、すぐに動かざるを得ない証拠でもアレばいいんだけどネ……」
「証拠……証拠があればいいんですか?」
「あるノ?」
「騎士団に対しては無いですけど、別の人に対しては証拠を作れます」
ひとつあった。今のアニタにしかできないことが。
「店長、ナイフとかって用意できますか?」