北風と太陽
〈1〉
――どちらがあの男の命を剥奪できるか。
北風は太陽に、そのような勝負を申し込んだ。脱衣の勝負では一本取られたが、このままでは名に恥じると激情しているのである。太陽は、快く引き受けた。人間の男を滅する術など、千の数ぐらいに持ち合わせている。心を痛める筈もなかった。
〈2〉
見渡す限りの草原は、風に靡いて波立っており、まるで緑色の海原のようだった。そこを行くは、髪を短く切り揃え、髭は不精に汚らしく生やし、ボロ切れの如き衣服を纏う中年の男である。旅をしているのだろうか。背負うリュック内に物の気配はなく、寂しげに潰れていた。
まずは、北風が立った。
北風は思い切り息を吸引し、男目掛けて噴出する。男は突風に驚愕する暇もなく、瞬く間に足を浮かせ宙を舞い、背中から大木へ激突した。余りの衝撃に声さえ詰まり、肺の空気が全て排出される。そして硬く瞑目しつつ項垂れ、弱々しく呻いた。唇の隙から見えた吐瀉物も、我慢できる筈はなく、堤防を破壊して緑の海へ流される。
それでも、まだリュックによって痛みが軽減されたのだろうか、男はよろめきつつ立ち上がった。突風を不運とも思わず、機械的に歩き出す。時折、昆虫の体液のような、見るに耐えない暗緑の液を口から垂らしていた。
次は、太陽の番である。
太陽は全身に力を込めると、熱気と射光を熾烈に発した。男は急激に高まる気温と日射に困惑する余裕もなく、まず膝を屈し、沸き上がる体温に耐え切れず服を脱ぎ散らかしリュックを放り、なんとか木陰まで辿り着いた。しかしその槍のような光は、いとも簡単に葉を突き抜ける。
男の頭は砂漠と化し、水分を放出し続ける顔面は骨に和紙を敷いたかの如く容姿となった。沸騰しそうな血液が猛烈に痒く、男は狂ったように腕へ爪を立てる。意識は、ほぼ消失していた。目は瞳孔を失くし、白しか見せず、咽を這い上がる奇声さえもない。男は、涙を流せなかった。
今回の勝負も、太陽が凱をあげる風に見えた。しかし、北風が太陽を止める。自分は一つの風しか浴びせなかったのに、お前は長時間痛め付けては狡いぞ――と。渋々、太陽は攻撃を止めた。
男は、死してこそいなかったものの、その肉体に生気は覚えず、光にやられた草花に打ち伏す姿は、まさに水死体のようだった。ただ、それと異なる点として、彼の身体には一切水分がなく、異様に萎んでいた。
緑の海へ浮かぶ男は、投げた筈のリュックだけは手放さなかった。
次は、北風の番である。
〈3〉
既に満身創痍である男へ、北風は先程より強い風を吹き付けた。風声が轟き、男を軽々と攫う。強烈な風圧はそのまま男を巻き上げ、遥か遠方まで運んでしまった。しまった、と北風は思わず呟く。また大木へぶつけようとしたのだが、計算違いで当たらなかったのだ。
男は町まで飛ばされていた。追い付いた北風と太陽が確認すると、男は死んでいた。
男はリュックを離さなかった。何も入っていないと思われたその中には、一つの小箱が入っていた。
ある女が寄ってきて、見る影はないどころか、人間と視認していいかも分からぬような男を見ると、ハッとしてリュックから箱を取り出した。その小さな箱の中には、小さな宝石が埋め込まれた、小さな指輪が入っていた。
男の死骸へ頬擦りをして泣きじゃくる女を尻目に、北風は太陽に言った。
「今回は、俺の勝ちだな」