シュレディンガーの箱は開かない
──雨が、降っていた。
雨は僕の心に優しく沁みるような音を鳴らしながらも、畦道をたったの独りで歩く僕の身体に容赦なく降り注いでいる。
そういえば、朝のニュース番組で気象予報士が「夕方はにわか雨が降る」と零していたなと僕は自嘲気味に笑声を漏らす。
「仕方ない、少し雨宿りでもするか」
お誂え向きに屋根付きのバス停がすぐ先にはある。僕は進路調査表の入った通学鞄で自分の頭を庇うようにして、おろしたての靴が泥まみれになるのも厭わずに、バス停までの道程を一気に駆けた。
強くなった雨足に慌てて屋根の下に入ると、どうやら先客が居たらしい。背丈や顔立ち、格好からして10歳ほどであろう黒髪の少女は僕の姿を見るや否や首をこてんと傾げる。
「お兄ちゃんは誰……?」
「えっと、僕は近所に住んでる昇太っていうんだ。君の名前は?」
ショウタ、と僕の名前を口の中で何度も転がしている様子の少女はゆっくりと口を開いてその音を紡ぐ。
「カエデはね、一式 カエデっていうの」
梅雨にあたる今とは少しずれているが、秋に色付く木々の様な、彩りある名前だと僕は思った。
名乗っている少女自身も、自分の名前が何処か誇らしげだ。身につけている制服からしてこの辺りの小学校に通っているのだろうし、恐らくは彼女も傘を忘れた雨宿り仲間だろう。
「ねえ、この雨が止むまでお兄ちゃんとお喋りしてくれないかな」
「うん、いいよ! カエデも、ずっと待ってたんだ」
意外にも快く頷く少女。
その色よい返事を皮切りに、僕は優しい雨が引き合わせてくれたカエデという名の雨宿り仲間と少しだけ時間を共にする事にしたのだった。
雨が止んで、バス停の傍らにある誘蛾灯が光るまで、カエデとは色々な事を話した。
話したといっても、必然的に年上である僕が聞き手に回ることが多かったけれど。
ケーキ屋さんを夢見ていたけど、今は都会でファッションデザイナーになりたいのだという夢の話に、同じクラスの男の子に好きな子がいるのだという年頃の女の子特有の可愛らしい話。その総てに、高校生になった僕が失っていた輝きや熱意がありありと感じられて、少し目頭が熱くなったのはここだけの話だ。
一頻り語り終えた後に、カエデはこちらに幼いながらも美しいかんばせを向ける。
「ショウタお兄ちゃんは、何かやりたい事ないの?」
真っ直ぐな黒真珠の様な双眸が、逸らすことなくこちらを見つめてくる。
なんとなく、ここで彼女の問いを無碍にするのは憚られたけれど、僕はこの問いには答えたくなかった。その理由は、鞄の中でぐっしょりになっているかもしれない白紙の進路調査表がよく物語っている。
「僕のやりたいこと……」
「うん、お兄ちゃんの夢! カエデは聞きたいな」
駄目かな、とこちらの顔を覗き込むようにして問うてくるカエデの瞳は純粋な興味を孕んでいるものだ。
きっと、小学生と高校生が将来の夢をテーマに語るならば、高校生は未来ある小学生に夢と希望を持たせる話をするべきなのだろう。と一度、小学生時代の夢の話を語ろうとして、言葉をぐっと飲み込んだ。
「僕は、今やりたいことがないんだ。これからどうしようかなって迷子みたいになってる」
「そっかぁ、迷子かー……うーん」
素直に迷子だと告げると、カエデは悩ましいと言ったふうに眉間に似合わない皺を寄せるが直ぐに笑顔になった。
「じゃあ──お兄ちゃんは夢を探すことが夢だよね!」
「夢を探すことが夢……」
なんて、ポジティブな解釈というか……。あまりに毒気のない笑顔で言うから、可笑しくて仕方がなかった。物は言いようとはよく言ったものだと、僕は腹を抱えて笑った。
「カエデ、何か変なこと言った?」
不安げに見つめてくるカエデに僕は頭を振る。
「いや、そういうわけじゃないんだけど。うん、ありがとう。それもいいかもしれないね」
──なんとなく。たった一時の雨宿り仲間に救われたような気がして、自然と口元が綻ぶ。
「ありがとう、カエデちゃん」
その時、エンジンの稼働音が聴覚を揺さぶって、視界をバスの白い光が覆い尽くした。
「あ、もうお迎え来ちゃったみたい!」
カエデは、慌てて立ち上がるとバスに乗り込むべく入口に足をかける。
「さよなら! ショウタお兄ちゃん!」
「うん、またいつかね。カエデちゃん」
僕とカエデのやり取りを見守り終えたバスはその厚い扉を閉めて、その巨体を前へと進ませる。
視界でチリチリと音を立てていた誘蛾灯はバスの発進と共に、静かにその灯火を揺らしてからプツリと消えた。
その翌朝、ニュースを見ていた僕の耳に到底信じられない情報が入ってきた。
僕が目にしたニュースは、ここ数年の間、行方不明になっていた小学生の一式 楓という少女が変わり果てた姿となっていたものの漸く家族の元へと帰ることが出来たというものだった。
その少女の名前は──奇しくも、一時の雨宿り仲間だった少女と全く同じ名前の女の子だった。
「ショウタ、突然固まってどうしたの?」
台所で洗い物をする母さんの言葉は右から左へ風のように流れた。偶然なのか、それとも僕が出会ったカエデが彼女だったのか。
──いいや、変に勘ぐるのはよそう。
あのカエデが何であれ、僕に夢を与えるような明るい言葉をくれたのが彼女であるということに違いはないのだから。
「ううん、なんでもないよ母さん」
「そう? 朝ごはん、早く食べないと学校遅刻しちゃうわよ」
「はいはい、わかってる──」
僕は、パンの最後のひと口を珈琲で流し込んでから、進路調査表の進学希望欄に筆を滑らせた。
シュレディンガーの箱の中の存在は生きているのか、はたまた死んでいるのか。それは分からないし、僕は箱の中身を知りたいとも思わない。
だけれど、箱の中身は開けられる前に僕に未来への指標をくれたんだ。中身のわからない一式カエデという少女に胸中で感謝の言葉を述べて、僕は昨日の雨が引き合わせてくれた彼女とのやり取りから考えていたことを口にする。
「ねぇ、母さん。僕、進学してやりたいこと見つけたくてさ──」
視界の端で紅に染まった葉がひらひらと過っているような不思議な心地になりつつ言った言葉には、きっと夢を語るカエデに負けないくらいの熱がこもっていた。
絵・榛葉