眠りの鉢
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんにとっての、天国な時間っていつかしら?
寝ている時? 食事している時? それとも執筆している時? 自分の感じる天国の時間のために、私たちは生きている。いつも感じられる環境にいられるのなら、それはとても素敵なことだと思うわ。
でも、誰もが同時に天国を味わうことはできない。はたでは、よそでは誰かの負担や苦しみがあって、それらが足元から天国を支えている。まるでギリシャ神話に出てくる、アトラスみたいにね。
私も、自分なりの天国を感じながら、ふと地獄がすぐそばにあるんじゃないかと思った体験があるの。そのときのこと、聞いてみない?
小学校中学年ごろの、夏休みのこと。
学校の宿題を一気に終わらせた私は、かねてよりの希望だった、惰眠を貪ることに没頭したわ。
その年はえらく厚くってね。部屋にエアコンも扇風機もなく、うちわと窓からの風に頼るしかなかった私は、身体を動かすのが面倒で仕方なかった。
掛けるものなしの布団の上。汗を拭くタオルを顔の脇へ置き、私はぐで〜と横たわる。
南と東に向いている窓は網戸一枚を隔てるものの、全開状態だった。夕方になって日がほどよく傾くころ、この二つの窓から吹き入ってくる風を、私はとても気に入っていたの。
十字砲火改め、十字砲風を浴びつつ、チアパックのゼリーやアイスをしゃぶる。それが私にとっての、夏の天国だったの。
そしてお盆も近づいてきたある日。
私は親が取り込んできたばかりの布団へ寝転び、いつも通りにパックのアイスを口にくわえていた。
染みついた汗を拭い去り、陽のぬくもりを目いっぱい取り込んだ布団は、極上の柔らかさ。身体全体がぽやぽや軽くなった気がして、ちょっと眠たくなってくる。
うちの兄貴はその心地よさを「一番乗りの乗っ取り欲」だと話してた。自分が最初に手をつけたんだから、それを誰にも渡すまいと、身体がひとりじめ態勢に入ってしまうんだってね。
あながち間違いじゃないかもなあと、ぼんやり考えながら、私はアイスをちまちますする。もうほとんど吸い尽くしちゃったみたいで、出が悪い。私が残りを吸いたてるのに合わせ、パックはみるみる小さくなっていった。
はっと気がついたときには、もう遅かったわ。
時計は最後に見てから、20分くらい時間が飛んでいる。それよりまずいのは、私の口元が「自由」だってこと。
ぱっと脇を見る。歯と唇から解放されたチアパックは、布団横のカーペットで寝転がっていた。
私の追及をかわし、そこの部分に残っていた、やわらかいラクトアイス。それらはいまやジュースとなって吸い口から漏れている。バニラの香りが鼻をつき、灰色のカーペットの一部に浮かんだ白い池は、季節外れの雪原のようにさえ思えたわ。
――枕元を食べ物で汚しちゃいけない。
前にお母さんが話していた言いつけが、脳裏をよぎったわ。
一緒に呪いたくなる。「自分に限ってそんなことはしない」とたかをくくっていた、数十分前までの自分をね。
幸い、お母さんはまだ気づいていない。夕飯の買い出しで、外へ出かけているはずだった。
私はただちに、隠滅をはかる。ティッシュできれいにアイスを拭き取り、消臭スプレーを現場に吹き付けた。それでも時間を置くと、かすかにエッセンスの匂いが戻ってきてしまうし、結局はごまかすために部屋中をスプレーするはめになったわ。
その日、お母さんが私の部屋へ来ることはなかった。でも明日以降、少なくともパジャマを洗ったり、布団を干し直したりするときは、絶対に入ってくる。
そこまでもそこからも、抜かることがあっちゃいけない。兜の緒を締めなおす心地で臨む私だけど、事態はそんなもので収まらなかったのよ。
カーペットを汚してしまった翌日。反省した私は、台所でお菓子を食べるようにしていたわ。けれど、昨日寝入ってしまった時間が近づくと、妙に眠気が襲ってくる。
――寝る時には、ちゃんと布団で眠りなさい。
これもまた、お母さんからの言葉。前に台所でうたた寝してたら、どやされた記憶がある。
部屋へ戻って布団を敷く私。昨日よりもっと窓よりに。現場から離れた地点を選ぶけど、くんくんと匂いを嗅ぐのは欠かさない。だいぶ薄まったけど、ほのかなバニラの残り香に、また存分にスプレーをかけてやったわ。
また布団の上へ横たわる私は、再びうとうと。
夢なのか。まだ起きているのか。判別つかない境目で、小さな歌声が耳に入ってきたわ。
――天国だ。天国だ。ここは僕らの天国道。もっとみんなに伝えよう。地べたをなめる僕らの罪の、ほんの少しの安らぎに。
確か、そんな意味の言葉が聞こえたの。
誰か外で歌ってるのかなあ、とのんきに構えていた私だけど、不意に身体が寝返りを打つ。ダン、と腕がカーペットに叩きつけられる音と痛みに、ぱっと私は目を開いちゃった。
身体は布団を外れている。そして伸び切った左腕が、カーペットをきれいに横断していたの。ちょうど、あのアイスをこぼしたところも含めてね。
腕をあげかけて、私は「現場」を押しつぶした手首のあたりに、くすぐったさを覚える。「なに?」と目を向けると、腕を回り込みつつ、羽アリが一匹這い上ってきたのよ。
嫌な予感は現実に。私が腕をのけると、現場はすでに羽アリたちの見本市になっていた。動くもの、動かないもの。合わせて30匹ほどが、わさわさとカーペットの表面にあふれている。
ぞぞぞっと、腕にも背中にも鳥肌が立つのを感じたわ。
ティッシュに飛びつき、すぐに羽アリを取り去る私。消臭と一緒に殺虫スプレーもまき散らして、痕跡を完全に断たんとしたわ。
その日のお風呂は、いつもより長め。もちろん、図らずもアリたちに鉄槌を下しちゃった手を、清めるためだった。
私はますます部屋の掃除に力を入れた。親に怪しまれたくない一心で、例の現場と関わりのないところにまで、手を広げたの。
これまで無精ものだった娘が、いきなり清掃に目覚めたことはだいぶ訝しがられたわね。女子力の目覚めと適当に言い訳しつつ、私は必死だった。
でも逃げきれない。誰も私の部屋にいないときに限って、私は耐え難い眠気に襲われる。そして寝返りを打ち、現場とそこに集うアリたちを押しつぶしてしまうの。
怒られるのを覚悟で、自分の部屋じゃなく、居間やトイレで無理やり眠ってやり過ごそうとしたこともある。
けれど無駄だった。目が覚める時、私は必ず自分の部屋にいた。横になり、腕を伸ばして、あの現場と羽アリたちを下敷きにしている。
布団であらかじめ隠すことも考えたけど、すぐ却下。めくったときに、アリたちの死骸の山ができているなんて、考えただけでもぞっとする。
家から離れれば、どうにかなるんじゃないかと思いもした。でも、理由のいえない外泊の許しなどもらえるはずがなく。夜には、絶対に家の中へいなくちゃいけない。
カーペットの香りは、もうほんのちょこっとだけ。かなり意識しなくちゃ、分からないレベルになっている。もちろん表面なんか、他のカーペットと遜色ない仕上がり。アリを潰してしまった痕だって、すっかり消し去っていたわ。
――なのにどうして、こんなにも気を払い続けなきゃいけないんだろう?
自分を呪いたくなってくる。楽しみだった午睡は、もう苦痛になっていた。
もうカーペットそのものを換えてもらう? でも、その理由をどうやって引っ張り出せばいい? 怒られるの覚悟で、今度はわざと、何かをこぼせばいいの?
考えがまとまらないうちに、また就寝の時間。足がふらつく眠気が襲ってきた。
左腕には、自分でテーピングをしている。肌で接するなんて耐えがたいし、長袖じゃ服が汚れちゃうから。すぐにはがせるものの存在が、ありがたかった。
――もう、来るならとっとと来なさい。
明かりを消して横になり、私は勝手な寝返りを待ち受ける。
重くなるまぶたの願いのままに、閉じた私のまなこの裏で、久しく聞かなかった歌声が聞こえてくる。
――地獄だ、地獄だ。ここは彼らの地獄道。もっとみんなを連れてこよう。染み込み続けた彼らの命を、この世につながる穴として。
また私の身体が動く。勝手に振りかぶった左腕が、抗うひまなく、勢いよく振り下ろされる。
ダン、じゃない。ガサリ。
目が開けられた。すぐ腕を見やった私は、自分の手首が押しつぶしたのが、アリじゃないことを確かめる。
髪の毛だった。それも一本や二本じゃなくて、芝のように広がり、盛り上がっている。あのアイスの垂れた部分だけにはびこるそれは、誰かの頭頂部にも思えたわ。
ひと呼吸遅れて臭ってくるのは、あの甘いアイスの香りじゃなかった。死に瀕したカメムシが、あらん限りにばら撒く臭いによく似ていた。
そして、私の手首の下では「ガサ……ガサ……」とざわつく音が止まらない。
ほんのわずか。けれど確実に。私の腕を持ち上げて、床から抜け出ようとする、何かがあったのよ。
そこからはもう夢中だった。
私は部屋のペン立てから、カッターを取り出して刃を突き立てたわ。髪の毛じゃなく、その周りのカーペットの生地へ。
力に任せ、刃を滑らせる私。ほどなく髪の毛の生えた部分は、完全にカーペットから切り離された。その下から現れた床板には、髪も「その下」も存在しなかったの。
なおもざわつくカーペット片を握り、私は足音を忍ばせながらチャッカマンを手に。裏庭で髪の毛ごと、そのカーペットを焼き尽くしたの。
炎に包まれても、髪の毛は逃げたり叫んだりせず、そのまま灰への道を辿ったわ。
部屋のカーペットを取り換えてもらうと、もう髪の毛や羽アリが湧くことはなくなったの。
ひょっとしたら、あのアイスをこぼした場所。羽アリたちのエサ場である以上に、私の手を借りて彼らの命をたくさん奪う、何者かの策略に使われたんじゃないかと思うの。
無数のアリを贄として求められる、あの髪の主を呼び出すためのね。