堂島朝子/堂島夜子
紫内庁本庁舎喫煙室。
水岡彩が一人で煙草を吸っている。
そこに麻木義雄が入ってくる。
「お疲れ様です。」
「あー、麻木か。」
「あれ?」
「どうした。」
「火が……オイル切れちゃったかな?」
「使うか?」
「あ、すみません。ありがとうございます。」
「そういえばさ、お前、いつからだっけ。」
「何がです?」
「それ、煙草。吸い始めたの。」
「え?」
「ここ入った時には吸ってなかっただろ?」
「ああ、そうですね。いつからだったかな……たぶん、ここ入ってすぐだったと思います。よく覚えてないですけど。」
「そっか。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「で、堂島姉妹は? 終わったか?」
「いえ、まだです。」
「珍しいな、あいつらにしちゃ。」
「相手が相手ですからね。」
「つったってたかがデウス・ダイモニカスが一鬼だろ?」
「そういう言い方は良くないと思いますけど。」
「ははは、突っかかんなって。」
「何度も言ってるんですけど、水岡さんはもう少し……」
「分かった分かった、もう少し気を遣うよ。」
しばらくの沈黙。
麻木義雄が口を開く。
「あの。」
「何だよ。」
「ずっと前から聞きたかったことがあるんですけど。」
「聞きたかったこと?」
「朝子さんと夜子さん……あのお二人、どうして……」
「どうして?」
「なんて言えばいいのかな、ちょっと表現しにくいんですけど、あのお二人って……すごい……複雑な関係じゃないですか。仕事中は、二人ともぎりぎりのところで耐えてるみたいですけど。普段は……なんであんなに……」
「憎みあってるのか?」
「……はい。」
「へえ、そうか。」
「……普通の姉妹って、確かに仲が悪い姉妹もいますけど、あんな感じじゃないじゃないですか。なんていうか、結局のところ血が繋がってるって感じで。でも、あの二人は……そういうんじゃなくって……お互いの体の中に、血の代わりに、液体の磁石が流れてるみたいじゃないですか。朝子さんが陽極で、夜子さんが陰極で。私、いままで、ああいう関係性で結ばれてる二人の人間を見たことがなくて……それで……」
「なるほどね。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「お前さ。」
「はい。」
「あいつらについて、どこまで知ってる?」
「どこまでって……一緒に仕事するのに必要なことは知ってます。大体の性格とか、好きな食べ物と嫌いな食べ物とか、それにもちろん荒霊の能力もですけど……」
「あいつらが双子だってことは知ってるか?」
「ええ、もちろん知ってます。」
「じゃあ、結合双生児だったってことは?」
「え?」
「あいつら、な。結合双生児だったんだよ。まあ、こういう場合に「だった」って過去形使っていいのかは分かんないけど……ああ、知ってるか? 結合双生児って。あたしも詳しく知ってるわけじゃないんだけどな。受精卵が分裂する時になんかがあって、体の一部がくっついたまま生まれてきちまった双子のことだ。だいたい十万回の出産に一回くらいの割合で起こるらしいんだが、とにかくあいつらはそういう風に生まれてきたんだ。」
「それは……」
「知らなかったか?」
「はい……」
「だろうな。それで、生まれてくる双子の組ごとに……なんか組ごとにって言い方おかしいな。とにかく、生まれてくる双子の組ごとにくっついてる場所は違ってくるらしいんだが、あいつらの場合は腰から下と、それに右足と左足が骨盤からくっついて、ほとんど一本の足みたいになっちまってたんだそうだ。い、ち、お、う、は、朝子の方が先に出てきたからあいつが姉ってことになってるんだけどな。でも、あいつらは、一緒に母親の体から出てきた。そして、その後も、ずっと一緒に生きてきた。
「そりゃそうだよな、体が繋がってんだから。文字通り一心同体ってやつだ。笑う時も、泣く時も、怒る時も、何か食う時も、クソをひり出すときだって一緒だった。朝子にとっては隣に夜子がいることが当たり前だったし、夜子にとっては朝子が隣にいることが当然だった。というか、「隣にいることが当たり前」だとか「隣にいることが当然」っていう考えもなかっただろうな。朝子は夜子だったし夜子は朝子だった、別の人間じゃなかったんだ、あの二人は。同一人物だった、同じ人間だった、二人の人間じゃなくて一人の人間だったんだ。三歳に、なるまでは。
「全てが狂い始めたのは三歳の時だったんだろう。まあ、あくまであたしの推測だけどな。とにかく、あいつらが三歳の時に何が起こったかというと、夜子が風邪をひいたんだ。それは、本当だったら、大したことじゃなかったはずだった。ただの風邪だ、どうってことない、一度も風邪ひかないで大人になる奴なんていないだろ? だが、あいつらにとっちゃ違った。
「夜子の風邪は、急速に悪化した。ただの風邪だったものが、すぐに肺炎になった。あたしは医者じゃないからよく分からないんだけどな、朝子と夜子のくっついている部分が悪かったらしい。免疫機関だとか循環器系だとかが、巡りが悪かったのかそれとも良すぎたのか。そのせいで、夜子の体は可及的速やかに風邪のドミトルに侵されちまったってわけだ。
「それに、あいつら二人にとってはこっちの方が重要だったと思うんだが……二人のうち、朝子の方は、風邪をひかなかったんだ。風邪をひいたのは、夜子だけだった。朝子も夜子も随分と混乱したはずだ。同一人物だったはずなのに。同じ人間だったはずなのに。それなのに、一人が苦しんで、もう一人はそれをただ見ていることしかできない。恐らく、この時に、初めて、この二人の間に小さな罅が入った。
「まあ、それはともかくとして。何日もしないうちに夜子は危篤状態に陥った。高熱を発して、呼吸困難に陥った。夜子を救うには、方法は一つしかなかった。二人の体をちょん切っちまうことだ。そうして、免疫機関だとか循環器系だとかの巡りを、よくするんだか悪くするんだか、とにかくまともな状態にすることだ。こんなに弱っている状態で、そんな大掛かりな手術をするのは、明らかに危険だったが。それでも、あいつらの両親は夜子を救う賭けをすることに決めた。
「ただ、そこで……一つだけ問題が持ち上がった。なに、大した問題じゃない。三本目の足、つまり朝子と夜子が共有してる足を、朝子と夜子のどっちのもんにするかってことだ。医者は、どっちのものにするにしても手術の成功率は変わらないといったそうだ。両親は、自分たちでは決められなかった。だから、本人達に、朝子と夜子に聞くことにした。
「よく考えたら凄まじい親だよな。三歳だぜ? 三歳。たった三歳の娘、それも一人は瀕死の状態で。「これから二人の体を切断するけどこの足はどっちのものにしますか」って聞こうと思うか? 普通。それに、朝子と夜子だって、理解できるわけがないだろ。あたし達で言や「上半身と下半身を切断するけど背骨はどっちのものにしますか」って聞かれるのと同じようなもんじゃないか? コイントスかなんかで決めるんじゃだめだったのかよって感じだが、とにかく、その質問に夜子は答えなかった。答えられなかったんだ、昏睡状態に陥っていたから。そして、朝子はこう答えた。夜子のものにして。これで決まった。その足は、夜子のものだ。」
「だから……」
「あん?」
「だから、朝子さんは……」
「そう、だから右足が義足なんだよ。それにどうでもいいことかもしれないが、骨盤の一部も人工骨だ。言ったよな、骨盤から繋がってたって。足を譲り渡す時に、骨盤の繋がってる部分もおまけとしてくれてやったんだそうだ。
「まあ、それはそれとして。二人の手術は成功した。特にミスもなく、無事に二人の体は分かたれた……少なくとも、肉体的には。だが、精神的にはどうだったんだろうな? あたしは別に結合双生児として生まれてきたわけじゃないし、もちろん自分の半身を失ったことだってないし、だから想像するしかないんだが。どんな感覚なんだろうな。今までずっと一つの肉体として生きてきた二人の人間が、これから二つの肉体として生きていかなきゃいけないって感覚は。孤独? 喪失感? それとも、何かの感覚さえ抱けないのかもしれないな。人間が死んだ時に、たぶん、何の感覚も抱けないのと同じように。」
しばらくの沈黙。
麻木義雄が口を開く。
「それで……」
「は?」
「それで、それから、お二人は……」
「ああ……ちょうど、三歳だったからな。幼稚園に入ったんだ。二人だけの世界が真っ二つに切り裂かれた上に、今まで見たこともないような他者の怒涛に投げ込まれてぐちゃぐちゃにされたってことさ。あたしだったら狂うだろうね。ただ、二人はうまくやってたらしいぜ。そういう状況に陥った、たった三歳の子供達がうまくやれる限りでな。
「ただし、その頃から……それまでは、朝子と夜子は、なんていえばいいのかな、「まるで双子みたいに」そっくりだったそうだ。何をするにも同じ環境の中にいたし、それに形相子も同じものだったんだから、まあそりゃそうだろうが。だが、その頃から。互いが互いだけの体を持つようになって、それから幼稚園に入園した頃から。次第に朝子と夜子は、朝子と夜子になっていったらしい。あたしの言いたいことは分かるよな? 二人とも、今のああいう性格になってったってことだよ。
「特に、夜子はどんどん夜子になっていった。どんどん子供らしいところ、キラキラしたところを失っていって。暗く、鬱屈して、卑屈な人間になっていったってことだ。おいおーい、そんな顔してあたしのこと見るなよ。あいつが自分で言ってることだろ? 自分は暗くて鬱屈してて卑屈な人間だって。あたし自身の意見としては……まあ、確かに全くその通りだと思うけどな。とにかく、それはそれとして、夜子がそういう性格になっていったのには、ちゃんとした理由があったんだと思う。あくまであたしの推測に過ぎないが、その理由は主に二つだ。
「まず一つ目は、自分が何にも知らないうちに、いつの間にか朝子から引き裂かれていたってことだ。言ったと思うが、両親が朝子と夜子の分離手術を決定した時に、夜子は昏睡状態に陥っていた。朝子の方は、三歳の頭でどこまで理解してたかってことはともかくとして、ともかくも両親から話を聞かされてはいたし、その手術に同意してもいた。夜子の命を救うためにはそれしか方法がないって言われていたからな、自分の意志でその手術に同意していた。けれど夜子は違う、全然違う。何も説明を聞かされず、しかもその手術を行うことに同意していなかった。当然だよな? 昏睡してたんだから。それで、目が覚めたら、自分の体が二つになっていた。一人の人間だったはずの自分という存在が、自分と、それに朝子っていう、二人の人間になっていた。夜子は……あくまで推測だが、死んだ方がましだったろうな。こんなことになるくらいなら。そのまま死んでた方がずっと幸せだったろう。死んでれば少なくとも、「堂島夜子」にならなくて済んだんだから。
「そして二つ目は……こっちがより重要な理由だが、それはつまり罪悪感だ。自分という存在を、朝子と夜子の二人の人間に引き裂いてしまったという罪悪感。自分が風邪を引いたせいで、その出来事が起こった。自分が風邪を引いたせいで、分離手術が行われた。夜子は、朝子に対して、償いきれないほどの罪を背負ったってことだ、もちろんそれは主観的な罪だが、まあ大抵の罪ってやつは主観的なもんだろ? 朝子がそんなこと気にするわけがない、なんせああいうやつだからな、夜子の命が助かればそれで何もかもAKだったはずだ。でも、これは夜子の問題だ。夜子がどう思うかという問題。そして夜子はこう思ったはずだ、ごめんなさい、朝子。そしてこの言葉はあいつの心臓に刻まれて、あいつの心臓はとくんとくんと鼓動を打つごとにその言葉を叫んだ。
「夜子は、だから、朝子を憎んだ。一つ目の理由から朝子を憎み、二つ目の理由からより深く朝子を憎んだ。一般的な人間が一番強く憎しみを抱く相手は罪悪感を抱いている相手だからな。そういうもんだろ? 人間って。そして、夜子は自分の体についている左足を見るたびに、あるいは朝子の体についていない右足を見るたびに、その憎しみを深めていった。それは夜子にとっては具体的に可視化された罪の烙印だったからだ。自分は……朝子から、足さえ奪ってしまった。実際のところは奪ったわけじゃなく与えられたわけだが、さっきも言った通りこれは夜子の問題だしな。
「だが……悲劇的なことに、朝子の意見は全く違った。朝子は全く気にしていなかった、全く、全然、ひとかけらも気にしていなかった。夜子のことを憎んでなんかいなかった、むしろ愛していた。一般的な人間が一番強く愛を抱く相手は自分だろ? そして、朝子にとって夜子は自分だった。分離されてはいたが、自分は自分だ。だから、朝子は愛した。この世界に生きている、あるいはあの世界で死んでいる、他の誰よりも夜子を愛した。朝子は夜子を赦免していた、その罪が存在していることさえ知らないままに行われる赦免、それゆえに何よりも完全な赦免だ。分離手術についても、足を失ったことについても。実は、そんなことは朝子にとってどうでもいいことだったんだ。確かに体は二つになった。けれど、それがどうした? 驚くべきことに……相変わらず、朝子にとって朝子は夜子だったし、夜子は朝子だった。そんな風に考えるのは、あたしにはとても無理だがな。でも、朝子なら簡単にやってのけるだろう。あいつはそういうやつだから。
「それから、っていうのは幼稚園に入ってからっていうことだが、朝子はなにかれとなく夜子の世話を焼いた。どんどん夜子になっていく、どんどん自分の殻にこもっていく、夜子の世話を焼いた。夜子が何も喋らない時は代わりに朝子が喋ったし、夜子が何かを遠慮した時は朝子が代わりに要求したし、夜子が笑わない時は、まあそれはいつものことだったが、夜子の代わりにいつも隣で笑っていた。それに、重いものを持ってやり、自分の分の弁当を分けてやり、いじめられそうになった時には助けてやった。もっとも、夜子がいじめられてたのは幼稚園に入ってから本当に最初のころくらいだったらしいけどな。なんせ、あいつの隣には朝子がいたから。朝子の光のおかげで、というか朝子の光のせいで、夜子まで光って見えてたんだろうよ。そして、それは幼稚園から高校まで変わらなかった。いつも夜子の隣には朝子がいた。」
しばらくの沈黙。
麻木義雄が口を開く。
「でも……」
「あん?」
「でも、今では……今では、朝子さんも夜子さんを、その、憎んでいますよね。というか、朝子さんの方がより強く夜子さんを憎んでいる。少なくとも、私にはそう見えます。夜子さんの隣で笑っている朝子さんなんて、馬鹿にしたような笑い方は別ですけど、私は見たことがありません。」
「そうだな。」
「何かがあったんですか? 何かがあって……」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「それはあいつらが高校の時に起こった。高校二年の時だ。当時の朝子は……というか確か中学の時からだったと思ったが、陸上部に入っていた。しかも、言うまでもないことだと思うが、陸上部一の花形スターだった、あいつはあいつの通ってた高校で、間違いなく・ぶっちぎりで・ナンバーワンに足が速かった。あいつにとって義足だってのは障害でもなかった、まあなんたって朝子だからな。誰もあいつには追い付けなかった、どんな距離だろうが、ハードルがあろうがなかろうが、誰もあいつより早くは走れなかった。しかも、誰もがそれを当たり前のことだと思ってたんだ、今あたしの話を聞いているお前が当たり前だと思っているのと全く同じように。なんてったってあいつは特別な人間だからな。分かるだろ? あたしの言ってること。そして、それから……だから当然、朝子は全国高等学校統一体育競技会の代表選手に選ばれた。
「二百ダブルキュビトと百ダブルキュビトに出場することになっていた。そして、まず二百ダブルキュビトの競技から始まった。入場の音楽が鳴り響く。アナウンサーが朝子の名前を読み上げる。あいつはスタートラインにつく。観客席に向かって、最高の笑顔のままで、軽く手を挙げる。観客は叫び声をあげながら熱狂的にあいつのことを迎える……たった一人を除いて。もちろん、それは夜子だった。朝子が最高の笑顔を向けた、朝子が軽く手を挙げて見せた、その当の相手である夜子。
「朝子が参加する大会に夜子が応援に来るなんて、滅多にないことだった。というか、あたしの知ってる限りではその大会だけだったはずだ。何度も言うように、それにお前も重々承知しているように、夜子は朝子を憎んでいた。朝子が一番輝く瞬間、キラキラと笑顔を見せながら栄光を掴み取る瞬間なんて見たいわけがなかったんだろうな。自分が惨めな思いをするだけだ。だから何か特別な理由でもない限り応援に行くはずがなかった。そう、何か特別な理由でもない限り。
「もちろん、特別な理由があった。その時、夜子が観客席にいたのには。朝子はそんなこと疑いもせず、夜子が来てくれたこと、自分の応援に来てくれたことに有頂天になっていたと思う。だが、夜子は、実のところ、朝子の「応援」に来たわけじゃなかった……なあ、麻木。」
「え? あ、はい。」
「お前、夜子の荒霊は知ってるよな。」
「はい、もちろんです。」
「言ってみろよ。」
「三つの月のうちどれか一つの光を浴びるごとに、二つの願いを叶えられるようになるという能力です。ただしその願いはネガティブなもの、つまり自分もしくは他人に害を与えるという願いに限られます。」
「そうだ、その通りだ。」
「それが、一体……」
「夜子は、朝子を憎んでいた。めちゃくちゃにしたいと思っていた、絶望の淵に叩き落したいと思っていた、朝子という人間を破壊したいと思っていた。それってのはあたし達からすりゃほとんど八つ当たりみたいな祈りだが、それでも夜子にとっては純粋な祈りで、しかもあいつの唯一の祈りだったはずだ。そして、夜子は……高校二年の秋、全国高等学校統一体育競技会のその日に、その祈りを実現させることにした。
「さて、競技会の会場に話を戻そう。既に入場の音楽は止まっている。On your mark。朝子はぺこりと頭を一つ下げてスターティングブロックに足を乗せる。ひざまずくような前傾姿勢。Set。朝子は睨みつけるように前のめりになる。観客席の方から息を飲む音がする。そして、その次の瞬間、空を裂くような銃声とともに、朝子と夜子にとっての運命が始まる。
「完璧だった。傷一つない、語の意味そのものの、完璧なスタートダッシュだった。他の走者をはるか後ろに置き去りにして、朝子の体は飛び出した。二十ダブル、四十ダブル、六十ダブル、八十ダブル、百ダブル。追い付かせるどころか、ますます引き離しながら。朝子の体は軽やかに歌うように、爽やかに笑うように、その走路を駆け抜けていく。一方で、夜子は……夜子は、待っていた。それをなすべき時を、祈りを叶えるべき時を。百二十ダブル、百四十ダブル、百六十ダブル、百八十ダブル。そして、その時が来る。
「朝子が百九十ダブルの地点にまでたどり着いた時だ。ゴールは目前、観客の叫びは絶叫になっている。誰もが信じていた、疑う必要なんてなかったからだ。朝子はほかの選手達を五十ダブル近く引き離して、それでもその速度を落とすことがなかった。間違いない、よほどのことが起こらない限り、優勝は朝子のものだ。そして、もちろん、そのよほどのことが起こった。
「その瞬間に、夜子が願ったんだ。
「朝子の義足が、壊れるようにと。
「ガギンッという音がした。折れるはずがない強化樹脂が折れる音だ。朝子の体が、慣性の影響で、まるで巨人に放り投げられたかのように前の方に投げ出される。朝子の右足、つまり義足が、太陽の光を浴びながらくるくると吹っ飛んでいく。嘘みたいに観客席が静まり返った。目の前で何が起こってるのかわからなかったんだ。朝子の悲鳴が聞こえる。それから、朝子の体は、引きずるようにして走路に倒れ伏す。
「全てが夜子の祈りの通りになった。
「語の意味そのものの、完璧な実現。
「けれど、それは、決して夜子が祈りの通りではなかった。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「なあ。」
「はい。」
「お前、朝子の荒霊は知ってるよな。」
「はい。」
「言ってみろよ。」
「……三つの月のうちどれか一つの光を浴びるごとに、二つの願いを叶えられるようになるという能力です。ただしその願いはポジティブなもの、つまり自分もしくは他人に益を与えるという願いに限られます。」
「そうだ、その通りだ。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「言うまでもなく、夜子もそれを知っていた。明確に、はっきりと、しっかりと、知っていた。今お前が言った、朝子の能力について。だから、これもやはり言うまでもないことだが、夜子は気が付いていた、気が付いていないわけがなかった、朝子が「義足が折れたことをなかったことにする」可能性があるということについて。そりゃ、あいつの能力だって全能じゃないぜ? 例えば誰かを生き返らせるとか、誰かを殺すことはできないだろう。けれど、「義足が折れたことをなかったことにする」くらいのことならできないわけがない。
「夜子は……もちろん否定するだろうな。自分のしたことが、自分の祈りが、完全に失敗に終わるであろうことを気が付いていたなんて。それどころか、あいつはそれを望んでさえいたはずだ。朝子が能力を使って「義足が折れたことをなかったことにする」ことを。自分の卑劣で・悪辣で・浅はかでさえある妨害を、全くもってどうでもいいこととして退けて。朝子が、当たり前のように、一着でゴールするということを。確かに、確かに夜子は思っていた。朝子のことをめちゃくちゃにしたいと、朝子のことを絶望の淵に叩き落したいと、朝子という人間を破壊したいと。確かに夜子にとってそれは純粋な祈りで、しかもあいつの唯一の祈りだった。しかし、けれど、それでも……それ以上に、夜子は信じていた、絶対的な信仰として、信じていた。何があっても、どんなことがあっても、朝子は、間違いなく栄光を掴み取る人間であろうということを。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「結論から言って。
「朝子は能力を使わなかった。
「まあ、考えてみりゃ当然だよな。朝子がそんなことするはずがない。どこまでもどこまでもフェアで、どこまでもどこまでも能天気で、クソ腹立たしいほどにスポーツマンシップの塊みたいなやつが、純粋に速さを競うための競技の最中に、その速さとは全く関係のない能力を使おうと思うはずがない。あたし達みたいな人間とは違って、あいつは他人に勝つことが目的なんじゃない。自分自身の正しさに殉ずることが目的なんだから。だから……あいつは殉じたってわけだ。その、自分自身の正しさってやつに。
「ほとんど全くの静寂。息をすることさえはばかられるような。ただ駆けていく音だけが聞こえている。朝子以外の選手達が、朝子の横を駆けていく音だけが。たった数秒のうちに選手達は次々にゴールして、たった一人、朝子だけが走路に取り残される。見ている側はどうしていいか分からず、ただ見ていることしかできない。朝子は、倒れ伏しているままで、その右手を伸ばす。自分の少し先の土くれを引っ掻くように、強くその走路を掴む。自分の体を引きずって。這いずるみたいにして、というよりも実際に這いずって。少しずつ、少しずつ進んでいく。たぶん派手に転んだ時に、もう片方の足も痛めてしまったんだろう。立ち上がるどころか、体を起こすこともできない。ただ、這いずっていく。百九十六ダブル、百九十七ダブル、百九十八ダブル、百九十九ダブル……そして、ようやく朝子の体はゴールラインにたどり着く。
「その瞬間に、魔法が解けたみたいだった。小さなさざめきが速やかに観客席に広がっていって。あっという間に大きなざわめきになった。競技会のスタッフが慌てて朝子に駆け寄る。そして、当の朝子は……朝子は笑っていた。いつもの笑顔で。分かるだろ? あのムカつく笑顔だよ。はーっと一つ、すっきりとしたため息をついて。まるでおどけているみたいに、そのゴールラインのところでごろんと寝返りをうつ。何がおかしいのかけらけらと笑いながら、駆けつけてきた競技会のスタッフに掴まって。やっとその体を起こすことができた。それから、朝子がまずしたことは……観客席にいるはずの、夜子の姿を探すことだった。
「朝子だって馬鹿じゃない。いや、馬鹿か馬鹿じゃないかで言ったらそりゃ馬鹿なんだが、それでも、少なくとも、そのことに気が付かないほど馬鹿じゃなかった。義足が折れたのが、夜子の能力のせいであるということに。だから朝子は夜子の姿を探したんだ。夜子に向かって……こんなこと、どうってことないって伝えてやるために。朝子は、あろうことか心配していたんだ。夜子のことを。夜子が、今回の件を気に病むんじゃないかって。朝子は、絶対に、許せなかった。夜子が傷つくということが。自分が傷つくのはどうでもいい、けれど、夜子が傷つくのは耐えられなかった。どんな些細な傷であっても、夜子が傷ついていいはずなかった。だから、その時、朝子は夜子を探したんだ。何も、一つも、気にすることはないって伝えるために。自分にとっては、こんなこと、なんていうことのない出来事で。だから夜子は自分のしたことを悔いる必要はない、そのことで罪悪感を持つことなんてないって伝えるために。
「朝子は、すぐに夜子の姿を見つけた。
「朝子は、その方向に向かって笑いかけようとした。
「朝子は、その方向に向かって片手を振ろうとした。
「けれど、できなかった。
「何も、できなかった。
「夜子は……夜子は、このレースがスタートする前と同じところに座っていた。身動き一つできず、まるで凍り付いたように、じっと座っていた。じっと座って、じっと朝子のことを見ていた。その視線には憎しみはなく、怒りもなかった。夜子らしい感情、夜子が朝子に向けているべき感情は一つもなかった。夜子は、ただ……朝子は、その視線を、夜子の二つの目を、まともに見た。そして、気が付いた。自分の行動が、自分のしたことが、夜子という人間を、完全に、粉々に、砕いてしまったということに。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「そんなことをするべきじゃなかった。能力を使わないべきじゃなかった。能力を使って、義足が折れたことをなかったことにするべきだった。這いずるようにしてまでゴールするべきじゃなかった。義足が折れた時に棄権するべきだった。夜子の姿を探して笑顔を向けようとするべきじゃなかった。完全に無視するか、それか憎しみとともに唾を吐きかけようとするべきだった。自分のとった全ての行動が間違っていた、その全てが夜子を叩き壊した。朝子は、そう思った。そんなこと、今更思ったって無駄なのにな。それに、どうしようもないだろ。朝子は朝子らしく行動しただけだ、あいつがあいつである限り、これ以外の行動はとれなかったはずだ。それでも、朝子はそう思った。そして、残念ながら、それは全くの真実だった。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「それからだ。朝子が夜子の隣で、ああいう顔をするようになったのは。」
しばらくの沈黙。
水岡彩が口を開く。
「つまりその時に、二人は完全に別の人間になったってことだ。」
しばらくの沈黙。
無言のまま、水岡彩は煙草の煙を吐き出す。
無言のまま、麻木義雄は煙草の灰を落とす。
しばらくの沈黙。
それから、麻木義雄が口を開く。
「あ。」
「ん? どうした。」
「連絡です。」
「なんだって?」
「捕獲完了だそうです。」
「へー、やっぱ堂島姉妹は仕事が速いな。」
「それ、さっき言ってたことと反対じゃないですか。」
「ははは、お前って本当に細かいことばっか気にするよな。」
「水岡さんが気にしなさすぎなんですよ。」
「ま、世の中には色んな意見があるよな。さて、行くぞ。楽しい楽しい後始末の時間ってわけだ。」
水岡彩が立ち上がり、出口の方へと向かう。
麻木義雄が立ち上がり、そこで体を止める。
水岡彩の後ろ姿に向かって問いかける。
「……水岡さん。」
「あんだよ。」
「その……なんで、知ってるんですか?」
「何を。」
「朝子さんと夜子さんのこと、そんなに詳しく……」
「ああ、あいつらのチェックしたの、あたしだったんだよ。」
「チェック?」
「奇瑞のチェックだよ。あたしも昔は色々なことをしたもんだ。今となってはみんな悪い思い出だけどな。さ、どうでもいい無駄話の時間は終わりだ。さっさと行って、さっさと終わらせるぞ。」
「あ……はい、分かりました。」
水岡彩が部屋を後にする。
麻木義雄が部屋を後にする。
紫内庁本庁舎喫煙室には、もう誰もいない。