静かなる将軍
刑場では、場内へ乗り付けた御籠の中から、時の征夷大将軍《徳川吉宗》が姿を現した。
肩衣半袴姿で地面へ平伏す吉兼のもとに、幕臣の1人が近寄り声を掛けた。
「公方様に於かれましては、此度の催事、“誠に好ましき故、良きに計らえ”とのことに御座る、ぬかりなきよう、励め」
それだけ言うとその幕臣は、踵を返した。
「有難き幸せに存じまする……」
吉兼は顔を伏せたまま、吉宗の居るであろう方角へ頭を向け、また深々と頭を下げた。
将軍吉宗は、幕臣たちに付き添われながら、ひな壇を最上階まで上り、
トルコ絨毯の敷かれた中央部へ鎮座した。
「皆の者、公方様 は、“くるしゅうない”と仰せであらせられる、一同、面を上げぃ」牢屋奉行が代表し号令を掛けた。
幕臣一同と吉宗の着席を以って、場内の全員が面を上げた。
「何やら雲行きが怪しいのう……」と吉定が吉兼へ語りかけた。
空一面が黒雲に覆われ、辺りは既に薄暗くなっていた。
「本日は、かの不知火小僧、稀代の稀なる、有名無比なる、大泥棒の獄門刑をお目にかけ申しますると公方様へ、お伝え願いたい」
との伝言を、牢屋奉行が側用人へ聞かせた。
側用人はそれを隣の側用人へ伝言し、その隣の側用人が壇上の将軍吉宗へ耳打ちした。
将軍吉宗は、少々考え込んでから、
「ごにょ…、ごにょ…」と小声で呟いた。
それからまた側用人たちを介しての伝言が、牢屋奉行の耳元へ届けられた。
「“しらぬ”などと申す泥棒は知らぬが、
“雲行きが怪しいゆえ、しばし執行を待たれよ”とのこと……」
と言う側用人を、牢屋奉行は二度見て、
「は、今何と……」と、目を丸くした。
すると側用人は声の音量を上げ、
「“しらぬ”などと申す泥棒は知らぬが、“雲行きが怪しいゆえ、しばし執行を待たれよ”とのこと……」
牢屋奉行は、首を傾げた。
「公方様は、何を仰られておられるのか……」
すると側用人はさらに声量を上げ、
「“しらぬ”などと申す……泥棒は……」
牢屋奉行は、耳を塞いだ。
間もなく吉兼のもとにも将軍吉宗の伝令が下った。
吉兼はそれを了解し、しばし天を仰ぎ見た。
何やら刑場の外が騒がしく思えた。
「忠兵衛、申し訳ないが外の様子を見て来てはくれまいか」
と吉兼はなるべく周りに気付かれぬよう、振る舞った。
「御意」
忠兵衛はそう言うが早いか、門弟を1人従えて、塀伝いに刑場勝手口へと急いだ。
忠兵衛と門弟が勝手口から顔を出すと、
《首切り坂》の坂下が、何やら人混みで埋め尽くされていた。
白頭巾の手代衆が、《火車剣》を投げている先には、得体の知れない化け物がウヨウヨと蠢いていた。
その白装束の一団に混ざり、サナが《獅子王》で果敢に応戦している。
「こりゃ、偉いことだ……この分じゃ、こちらへ来るぞ、すぐ吉兼様へお伝えしろ」
忠兵衛は、門弟を吉兼のもとへ走らせ、自分は《首切り坂》の往来へと出ていった。
「何、化け物が、こちらへ向かっておるとな……」
息を切らして駆け寄って来た門弟より知らせを受け、吉兼は吉定の方をチラリと見遣った。
「行くのじゃな……」
と吉定の口が動いた。
そして、吉兼は将軍吉宗が座すひな壇へと向き直った。
将軍吉宗が、吉兼の視線に気づき目を留めると、
吉兼は、ただ深々と一礼した。
吉宗はそれで何かを察したように、ただ頷いた。
吉兼は門弟たちを引き連れ、刑場の勝手口へと急いだ。
「これは、何としたことじゃ、公方様の御前であるぞ無礼な……」
御腰物奉行所の同心たちが、吉定たちに詰め寄った。
「これには深い訳が御座ってな、小生がご説明いたすゆえ……」
吉定と、志村三太夫が、その場を取り繕ったが、
数名の組頭や同心は、吉兼らの後を追った。
ひな壇から御腰物奉行自身が、ひな壇から駆け下りて来て、吉定へ詰め寄る、組頭や与力、同心に割って入った。
「やめよ、やめよ、公方様がご覧になっておられて、吉兼が席をはずすこと、許したと仰っておられる故、事を荒立ててはならぬ」
奉行直々に、公方様の伝言を伝えられたのでは立場はなく、
奉行所役人たちは揃って、スゴスゴと引き下がった。
一方、《首切り坂》坂下では、サナが《獅子王》によって、魔物を封じていた。
しかし、魔物は既に、肉塊だけではなく路傍の石や泥からも生成され、一向に減る気配がない。
「サナ、実体を斬るだけでは不充分だ、
恐らく魔物本体は、この化け物どもを何処かから操っているに違いない」
白頭巾の手代頭が、サナへ語りかけた。
「……ん、だども、したからって……どうすんだ」
サナは怪物の攻撃をかわしながら、言い返した。
「《獅子王》を旦那様へ届けるのだ、ここは我らが食い止める」
手代頭の言葉を受けて、サナは小さく頷いた。
サナは振り返ると《首切り坂》坂上の刑場の門が微かに見えた。
《首切り坂》は行く手を阻むように曲がりくねっていた。
坂上まではまだ2町(約220m)と少しあった。
人体の各部肉塊からなる怪物は、更に、
怪物同士が合体を始め、更に巨大な個体へと進化して行った。
もはやそれは、人の形を取らず、
足長蜘蛛のように全脚で大地を掻き進んだ。
澤田家屋敷では坂下へ逃げ込んで来る群衆たちを収容しきれなくなりつつあった。サキは女中頭のお紫乃を呼び、結界を広域に張り巡らすよう指示し、自分は化け物を食い止めるため出陣すると告げた。
そして、土蔵地下の禁忌刀庫より、《魔剣》と異名を取る太刀を2口持ち出した。
彼女は袴にはき変え馬に跨り《首切り坂》を坂上へと向かった。
彼女に従って、
薙刀女中の双子姉妹がその後を追った。
しばらく行くと、
蜘蛛型の化け物と闘う、辻番連中と行き当たった。
「この先にはまだ、この蜘蛛みたいなのが何匹かおりやす、これ以上進むのは危険ですぜ」
紋次が駆け寄り馬上のサキへ叫んだ。
「だが行かねばならん、我が夫が、再び幽体となり阿修羅を討つあいだ、この化け物どもは、なんとか我らの手で食い止めねばならん、公方様をお守りするのだ、紋次殿やれるか……」
サキは馬上より紋次へ《護符》の紙束を差し出した。
「お咲さんに頂いた《護符》は効果てきめんでさ、化け物の脚を止めるぐらいは我々にも出来ます」
《護符》を受け取ると紋次は、部下たちのもとへ走って行った。
「お咲さんをお通ししろ」との紋次の号令で、ただ怪物を追いかけていただけの辻番メンバーたちも、怪物の脚へ取り付き、ザクザクと槍で突き始めた。
紋次は血みどろになった怪物の脚へ《護符》を投げつけた。
例により《護符》は悪しき怪物の脚へ吸い付くように貼りついた。
そこへ駆けつけた薙刀女中姉妹が、バッタバッタと静止した脚を切り落とした。
「鬼砂で鍛えた、鬼切りの薙刀じゃ、覚悟せい化け物」
薙刀女中姉妹は声を揃えた。
サキは、馬上で刀を抜いた。
「《童子切安綱》よ魔物を打ち払え」
《童子切安綱》とは大原安綱が鍛えた天下五剣に数えられる名刀である。古くは安綱が坂上田村麻呂へ奉じたとされ、平安期に猛威を奮った《酒呑童子》なる鬼を成敗した刀と伝えられている。
鬼の血を吸い魔力を帯びたとされ、祟りを恐れた福井松平家より澤田家へ預けられていた。
サキの、行く手を阻む怪物の腕の中から、罪人の半分潰れたの顔が浮き出て、食いかかってきた。
サキはたじろぐ事なく、《童子切安綱》でその顔を一刀両断した。
「道を開けよ化け物」
酒呑童子の魔力を帯びたその太刀は、サキの心に不思議な高揚感をもたらした。
少し進んだ路肩に、白頭巾の手代が1人深手を負って倒れていた。
サキは馬を止め、手代へ近づいた。
「お咲様、申し訳御座いません、化け物に腕を食いちぎられてしまいました、もう助かり申さん、」
と手代は虫の息で言った。
「どれ、傷を見せなされ」とサキ。
「なりません、お咲様、直に肌へ触れては、穢れが憑ります……」
手代は手当てをしようとするサキを止めた。
「お前たちは穢れてなどおらぬ、癩は感染らぬ、不自由な体で良く闘ってくれました感謝します」
サキは自分の着物の袖口を裂き、
その布で手代の左腕の残った上腕部を包み端をキツく縛った。
「私の方こそ、澤田家の方々は我ら癩の者に生きる意味をお与え下さった、ご恩返しできず無念でありまする……」
手代は白の手袋を履いた手で、何度も涙を拭った。
「恩を申すならば、生き延びなさい、誰より長く生きて後の世に光を灯すのです」
サキは森の木陰まで、手代を運び再び馬へ跨り再び走り出した。
先頭を走る怪物は、白頭巾の手代衆を尽くなぎ倒し、《首切り坂》を必死に登るサナへと迫っていた。
「来んなっつーの、この化け物」
サナは振り返り《獅子王》で応戦した。
蜘蛛状の化け物の腕とも脚ともつかない突起は、斬っても斬っても次から次へと生えて来た。
「あーん、キリがねーや……」
1人苦戦を強いられるサナの背後から忠兵衛が走り込んで来た。
「サナ、早く先生へ《獅子王》を持って行け」
忠兵衛は怪物へ《火車剣》をぶつけながら、愛刀《和泉守兼重》で斬り付けたが、《兼重》に魔力はなく、斬り落とされた怪物の肉片は、小型の個体へ変化し、忠兵衛へ取り付いた。
「おのれ……化け物」
その巨大な肉蜘蛛の胴体を斬り割いて、サキが馬で乗り込んで来た。
サキはもう1口腰に携えて来た《鬼丸国綱》を忠兵衛へ投げて渡した。
「奥方様、この刀は……」
忠兵衛はそう言いながら、とりあえずその刀を抜いた。
「《鬼丸国綱》、北条時頼が鬼を斬った魔剣じゃ」
と言ったサキは一旦その場を通り過ぎて、サナのもとへ向かった。
「サナ、この馬へ乗れ旦那様へ《獅子王》を届けるのじゃ……」
サキは、馬から降りて、サナを馬上へ誘った。
「馬っつったって、オラ畑耕すぐれぇしか、扱ったことねぇずら……」
と、鞍へ跨ったサナは、あれこれ喚いたが、サキは構わずすぐ馬の尻を叩いた。
「手綱を離さなかったら大丈夫じゃ」
そのサキの声が、サナの耳に届いたか定かではないが、サナは手綱を必死で握りしめた。
馬は嘶き《首切り坂》を坂上へ向かい爆走した。
「止めてけれ、止めてけれ……」
と叫ぶサナの声が、《首切り坂》をひた走る吉兼たちの耳へも届いた。
「サナ、手綱を引け……目一杯引け……引け……」門弟たちが口々に叫んだ。
「引いてっけど、止まんねーんだよ」
サナは手綱を握ってはいるが、ほぼ体が浮き上がり、手綱を引いても力が馬へ伝わらない状態にあった。
吉兼は意を決して、馬の前へ出た。
馬は吉兼の気迫に押され、前脚を大きく上げ嘶いた。
「いまだ、手綱を引け……」と叫ぶ吉兼。
サナは力一杯に手綱を引いた。
しかし、それだけでは足りず、門弟たちが周りから手綱を握りやっと馬は落ち着いた。
すっかり腰の抜けたサナは、門弟たちに手伝ってもらいやっと馬を降りた。
「……ほれ、旦那さん《獅子王》だす」
ヨレヨレのサナは、吉兼へ《獅子王》
を手渡した。
そうして安心したのも束の間、《獅子王》は金色に光り輝き消えてしまった。
「あ、そうだった、」とサナが思い出した矢先、吉兼の魂が抜け、その場へ倒れ込んでしまった。
「いちいち面倒くせーな、旦那さんば、安全なところさ、運ばねぇば……」
サナと門弟たちは、手分けして馬と吉兼を、刑場の敷地内まで運ぶ事にした。
つづく