首切り坂の決闘 2
薙刀女中二人は、少しずつ雨戸を開いていった。
夜空には更に濃く、紫がかった黒雲が蔓延り、最後のひとつの星の輝きまでも奪った。
そして、その中では絶えず稲光が瞬いていた。
開いた雨戸と雨戸との隙間に、吉兼の姿が見えた。
「どうじゃ、おサナ……」
と弓蔓を一杯に引いたサキはささやいた。
「気持ち一寸、左さ……」
とサナ。
サキは一寸左へ弓を動かす。
「どうじゃ」
とサキ。
「そこだす……いつでも……」
とサナ。
偽吉兼は、サキの部屋のほうを向いた。
また稲光りが瞬き、その瞳は赤く光るのがわかった。
「お咲……そこにおったのか……、隠れても私には、分かるぞ白檀の薫りじゃ、お咲や」
魔物は、吉兼の声で言った。
優しい夫の声に、
サキの手もとが震え、
その目は涙で霞んだ。
「奥方様、惑わされちゃなんねぇだ……よく見るんだす……ありゃ旦那さんじゃね」
と耳元で囁くサナ。
「雨戸をもっと開きやれ……」とサキが呟くと、薙刀女中二人は雨戸を開け放った。
「奥方様」とサナ。
サキはそれを合図に光の矢を放った。
矢は真っ直ぐ、偽吉兼の左肩を射抜いた。
偽吉兼の動きが止まった。
サキはすぐさま二矢目を射掛けた。
ニ矢目は額を貫通、三矢目を弓蔓へかけたところで、偽吉兼は再び動き始めた。
「効かなぇよ……奥方様」とサナは絶望の色を隠しきれない。
偽吉兼は庭の結界を踏み越えて、遂に屋敷内へ足を踏み入れた。
「お咲、夫が帰ってきたのだぞ、何故、我に抗うのじゃ」
と囁く、偽吉兼の体は家内のさらなる暗闇に触れ、
人体からはみ出した残り四本の腕が影となり浮かび出た。
サキが三度矢を放ち、
「魑魅魍魎を纏いし、阿修羅よ、名を名乗れ」
と、サキが叫ぶと、戸の影より女中らが薙刀を魔物へ差し向けた。
「名乗れ……阿修羅……」
女中たちも声を揃える。
「阿修羅とは異な事を申すのう、お咲……、主人に向かって」
そう言って魔物は、行く手を阻む薙刀に触れた。
女中たちの薙刀は、青き炎を上げて燃え盛った。
阿修羅の肩から生えた腕が、燃え盛っる薙刀ごと女中たちを持ち上げ、外へ放り投げた。
「貴様は、主人ではない、阿修羅じゃ……名を名乗れ……」
と叫ぶサキを、阿修羅は嘲笑った。
「名乗れ……」サキは一貫してそう叫び、弓を持ち上げ、阿修羅の鳩尾を突いた。
阿修羅は動ずること無く、源頼次が鵺を射たという弓を容易くへし折った。
「サナ、《護符》を」
サキが言い放つと、サナは文机の上の《護符》を阿修羅へ放った。
《護符》は吸い寄せられるように、阿修羅の身に悉く貼りついた。
阿修羅は両手に青白い鬼火を焚くが、
体中に張り付いた《護符》火は灯らなかった。
それでも阿修羅は歩みを止める事なく、鬼火を灯したその手で、サキの着物の両襟を取り、持ち上げた。
サキの体は青い炎に包まれた。
サナは咄嵯に香炉を手に取り、白檀の灰を阿修羅へ投げつけた。
「なにするだー、奥様を離せー、」
サナは叫びながら手当り次第に投げつけた。
阿修羅は灰に少々目をやられたが、ひるむ事なく左側の2本の腕でサナの首根っこと体を掴み上げ、壁へ投げつけた。
「サナ……」サキの叫びも虚しく、壁に頭を打ったサナは、床へ落ち、伏したまま動かなくなった。
サキは青い炎に包まれながら、魂を焼かれぬよう祈り続けた。
阿修羅の背後の中庭では、白頭巾をかぶった手代衆9名が隊列を組み、吹き矢、火縄銃や長手槍を構えていた。
「いかんぞ、吉兼の体を傷つければ、魂の器がのうなる」
中庭の隅で、吉定が、手代衆たちへ呼びかけた。
「奥方様のお身体に鬼火が……」と手代。
「鬼火は恐れさえせねば、焼かれることはない……サキならば大丈夫じゃ……」
と吉定。
「御隠居様、吉兼様は、既にこの世にはおられませぬ、我らは、奥様のお命をお助けするのみ」
手代のひとりが、吉定を振り返り叫ぶ。
「志村、こりゃいかんともしがたき事態じゃぞ、敵は強大じゃ……吉兼を呼び戻すぞ……」
そう言って吉定は、再び数珠を取り経を唱え始めた。
それを見た志村三太夫は、マニ車を取り出し、回し始めた。
「ワシの狙いは、そもそも、咲お前じゃ、霊力と呪術に長けたお前に阿修羅の子を産ませる、抗わず付き従え、互いに悪い話ではあるまい……」
そう不敵に笑う阿修羅の顔へ、サキは唾を吐きかけた。
「このアマ……、」
阿修羅は声を荒げ、サキの着物の襟を開いた。
サキは両肩が露わとなったまま、目を閉じ手元で印を結び、切紙九字護身法の呪文を唱え続けた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前、、臨、兵、闘、者……」
すると、サキの体を包んでいた鬼火は吹き消え、阿修羅の体の至るところへ貼りついた《護符》の文字が光り始めた。
「熱い、熱い」
と喚きながら、阿修羅はサキから手を離し、部屋を出て、中庭へと降りた。
空かさず、白装束の手代衆が、阿修羅へ次々と吹き矢を放った。
体に吹き矢を受けた阿修羅は崩れ落ち、白砂の地面へと突っ伏した。
「ごく微量のトリカブトを塗った矢でありますゆえ、死には到らず、麻痺させ申した」
手代のひとりが、誇らしげに吉定へ報告した。
「うむ、でかした」
と吉定は褒めた。
が、しかし、突如、中庭に小型の竜巻が起こり、
そこいら中に貼られた《護符》を吹き剥がしてしまった。
「まだじゃ、奴は己の名を申しておらぬ、夫の体内から抜け出したのみ」
サキが室内から這い出して、叫んだ。
そして、《獅子王》を中庭へと放り投げた。
白装束の手代衆は竜巻に舞いあげられ、
屋敷の外まで吹き飛ばされてしまった。
《獅子王》も竜巻に舞い上がると、
闇の中で、眩く光り、その姿を消した。
その途端、竜巻は止んだ。
その間に、辻番連中は手分けして、屋敷の外まで飛ばされた手代たちの身柄を全員回収し、怪我人を家内へと運び入れていた。
「まだ次があるとよ、早く全員を屋敷の中へ入れろ……急げよ」
経を読んだまま動かなくなった御隠居を小脇に抱えながら、紋次が叫ぶ。
戻って来た澤田家門弟たちが、気を失ったままの忠兵衛や、マニ車を回し続ける志村三太夫を背負って、屋敷内へ急いだ。
一方、サキは部屋の中で、伏したままのサナを抱き起こしていた。
「サナ、サナ起きなさい、サナ……」
サナは「うん、うん……」と唸りながら、目を覚ました。
「死んだ、おっとーがいただ……」
とサナは、呟いてから咳込んだ。
体中が白檀の灰だらけである。
「サナ、お庭をご覧……」
サキとサナは、部屋の戸口まで這い出て、ともに庭を見渡した。
「《獅子王》が消えたのじゃ、何処にあるか見えるか……」
とサキが尋ねると、
「甲冑を身につけた、お侍さんが……持っておらっしゃる……」
と、サナは答えた。
「その、お侍とは誰じゃ……」
と、サキ。
サナは目を凝らした。
「体中が金色に光っとらしゃって、よう見えんです……化け物へ立ち向かっておられやす」
サナは、庭の白砂の上を見つめ続けた。
サキは、そんなサナの言葉を受けてすぐに立ち上がった。
ひっくり返った文机を元へ戻し、
床へ転がった硯と筆を執って、何やら呪文を唱えながら、黄紙に朱液で筆を走らせ始めた。
サナが目を凝らす視線の先では、阿修羅が不敵に笑みを浮かべていた。
「まさか、あの地獄の淵から戻って来ようとは……」
そう言う、阿修羅はもう既に、人の姿をしていなかった。
口は耳まで裂け、牙が溢れている。
髪は赤く炎のように燃えあがり、逆立っていた。
筋肉隆隆の身体には三対六本の太い腕。
腰巻を一枚回した下半身に生えた脚は、樹齢を帯びた大樹の如く、しっかりと大地を踏みつけていた。
相対する黄金の武者と言えば、阿修羅の3分の1にも満たない大きさで、その体には古式ゆかしい平安時代の源氏の鎧を身に纏っていた。
「思えば、最初に逢うた夜に、貴様を切り捨てておけば良かったのう……」
と黄金の武者。
「そうじゃ、しかしお前にそれは出来なんだ、うらなりの侍モドキ、魔物と人との区別もつかず“金子を弾むだ”だの、“欲しいだけくれてやる”だのと、ならば、そっくり“家”ごと頂こうではないかと言うのだ“奥方”も一緒にな、そちが望んだのだ、このように穢れた家など要らぬのであろう……」
と、阿修羅は笑った。
「……さにあらず、拙者が一族の穢れを断ち切る」
黄金の武者は《獅子王》を阿修羅へ差し向けた。
「抗うと申すのか、このワシに……」
阿修羅はそう言うと腕を3本まとめて振り下ろした。
書院造の離れ家では、辻番連中が中庭を見守っていた。
「どうだ、誰か何ぞ見えるか」
そう紋次が尋ねると、
辻番連中も澤田家門弟たちも皆一様に首を横に振った。
忠兵衛や、白頭巾の手代たちなど、手負いの者は皆、布団に寝かしつけられていた。
弟子のひとりが、眠ったままの忠兵衛たちを眺めて、また中庭の方を見た。
庭の白砂の上のには、体中にお札を貼られて、うつ伏せに倒れているこの屋敷の主人の姿があった。
その吉兼は何処からどう見ても異様な風態の死骸にしか見えない。
「あれ、先生のご遺体を拾いに行った方がよろしくありませんか……」
と、そう門弟が口走ると、
「ならん……」と、吉定が、経を止めて声を荒げた。
「かの者は、死んではおらぬ、阿修羅も然り、体の中とも外ともつかぬところで、相対しておる、今まさに闘っておるのじゃ……、」
と、それだけ言うと吉定はまた目を閉じたまま、
「なーむ、なーむ」と経を唱え始めた。
その横で志村三太夫は、延々とマニ車を回し続けていた。
「お頭、あの2人は、さっきから一体何をやってんすか……」と、辻番のひとりが、吉定たちを見ながら、紋次へ尋ねた。
「お前、そう言うことオイラに聞くんじゃねーよ」
と紋次は、その部下の頭を小突いた。
そに時、
何の前触れもなく、庭に面した土塀の一部が轟音と共に崩れ落ちた。
「奥様、見てくなんしょ、あったらでっけーバケモンば、あの金色のお侍さん、投げとばしやした……」
サキの部屋の中で、
サナが手を叩いて大喜びした。
「うん、じゃがな、おサナ、呼んでくれても、わたくしには阿修羅の影ぐらいしか見えぬのじゃ」
とサキが答えるが……、
「おお、奥様、あのお方は、お強いです……、ほらご覧くだせ……うわ、バケモンの腕ば斬り落としなすった……」
とサナは全く聞いていない。
「危うくなったら教えて下さい……」
とサキ。
黄金の武者は尋常ではない高さまで飛び上がると、阿修羅の振り上げた腕を斬り落とした。
「腕を振るしか能のない、木偶の坊であったか、拙者のとんだ見込み違いであったのう」
と黄金の武者は軽やかに着地し、《獅子王》を構えたまま、笑った。
「何を言うか、猪口才な……、幽体で魔物に勝とうなんぞ100万年早いわ……貴様は、その太刀を手放せば暗黒の世界へまた引きずり込まれるのだ」
そう言うと阿修羅の斬り落とされた腕が、斬り口から生え、元どおりになった。
「幽体では妖力の強き者が勝つ、人間のお前は、決してワシに勝てぬ」
そう豪語する阿修羅の、六本全ての手に青龍刀らしき剣が握られた。
「ほほう……」
6本の腕を巧みに操り、剣の舞に興ずる阿修羅を、黄金武者は興味深げに眺めた。
その青龍刀らしき剣は、次々と振り下ろされた。
黄金武者は高く飛び上がると、一振りずつ剣を交わした。
彼は剣の上をまるで階段のように駆け上がると、
阿修羅の分厚い肩の上まで登り詰めた。
「ひとつ尋ね忘れておったが、貴公の名は何と申す……」
黄金の武者は阿修羅の耳元へ詰め寄って《獅子王》を突き立てた。
「忌み名を知れば魔力を封じられる申すは、呪術者の迷信ぞ……」と阿修羅。
「迷信と申すならば、鬼も阿修羅も迷信じゃ……貴様らは人の心の中にこそおる」
と、黄金武者は《獅子王》を振り上げた。
「このワシも、己自身が生み出した幻覚と申すか、馬鹿な……」
阿修羅は高笑った。
「然にあれども、あらずとも、我、百鬼夜行を成敗するのみ……」
黄金武者の振り上げた《獅子王》は天よりのイナズマを受け赤く赫いた。
「天意は示された、名を名乗り魔界へ封じ召されるか、それとも永遠の死を望むか……そなたの辞世の句を聞いて進ぜよう」
黄金武者は《獅子王》を阿修羅の首へ突き立てた。
「さあ、申せ……」
「貴様に聞かせる名などない」
阿修羅はそう言って目を閉じた。
振り下ろされた《獅子王》は阿修羅の首を一刀のもとに斬って捨てた。
首は地上へ落下し、阿修羅の体は霞となって消えた。
「お侍さん、バケモンの首を斬り落としやした」
サナは喜び勇んで、サキの肩へ抱きついた。
「おサナ、これを阿修羅の首へ貼っておくれ、お前ならばきっと出来る」
サキは、朱液で書かれた《護符》をサナへ手渡した。
サナは庭へと降りたち、阿修羅の首へ恐る恐る近づいた。
「恐るるに、足らんぞサナ……」
黄金武者が阿修羅の首へ駆け上がり、
《獅子王》でザクザク頭を突き刺して、“ガハハハ”と得意気に大笑いした。
「どうじゃサナ、もうコヤツ、死んでおる」
「もしかして、旦那さんでやんすか」
サナは、阿修羅の頭の上の黄金武者へ叫んだ。
「さようじゃ、」
と黄金武者は“えっへん”と胸を張った。
「そったらとこで遊んでねぇで、さっさと体さ戻ってやんねぇば、奥様ずっと心配してらっしゃるんだよ……馬鹿たれ」
とサナは、黄金武者を怒鳴りつけた。
サナが阿修羅の額へ《護符》を貼り付けると、間もなく首は霞のようになって消えていった。
一方、人待ち顔のサキは突っ伏したままの吉兼の傍らで、佇んでいた。
黄金武者は、吉兼の体の前で何やらサキの顔を見つめていた。
「まだ、戻ろうか迷ってんだか」
とサナは黄金武者へ話掛けた。
「我が妻の困り果てた顔が、あまりに美しゅうてな、見惚れておるのだ、実体となってからでは、嫌がられるでな……」
と黄金武者はデレデレと顔を赤らめた。
「早ぇく戻れって……」とサナは呆れた。
空には、黒雲が去り、
夜が明けの兆しがあった。
澤田朔左衛門家屋敷向かいの、辻を隔ててた薬種問屋。
どう言う訳かこの店には、結界が施されてはいなかった。
その薬種問屋の地下倉庫には、各種薬の原料なる罪人の遺体の部位が、安置されていた。
地下の深い闇の中から風の音とも、
唸り声ともつかない低く薄気味の悪い音が響いていた。それは夜が明けようとも一向に鳴り止む気配はなかった。
つづく