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《獅子王》


その日の夕刻、吉兼は忠兵衛ら弟子たちを伴って花街へと出掛けて行った。


澤田朔左衛門吉兼の妻サキは、自室へサナを呼んだ。


「奥方様、サナでごぜぇます」


サナが部屋の障子を少し開けると、

サキは浴衣姿で正座し、何やら文机(ふみづくえ)の上で筆を走らせていた。


「おサナか、お入りなさい」


サナは、サキの言葉に従い部屋へ入ると、すぐにサキの前でひれ伏した。


「奥方様、後生でごぜぇます……」


サナは、伏したまま肩を震わせた。


「そなたは膳を運んだだけであろう、そなたが気に病むことはない……、(おもて)を上げよ」


サキの優しい言葉にも、サナの張り裂けそうな思いは収まらなかった。


サナが泣きぬれた顔を上げると、

サキの白い頬にも既に涙が伝っていた。

「わたくしも、主人の苦悩には気づいていながら、声をかけてやることもできなかった、それを悔いておる、そなたにも気苦労をかけたのう、誠、申し訳ないことをした、わたくしを許しておくれ」


サキは、サナの赤切れ跡だらけの華奢な手に、短冊状に折りたたんだ和紙を握らせた。


その和紙には、文字のようにも絵のようにも見えるものが描かれてあった。

サナには、まるで角の生えた鬼が笑っているように見えた。


「こりゃ、何でやすか」

サナは、短冊を何度か見返して、

サキの顔を見た。


「それは、護符じゃ」


サキがそう言うと、サナはまたその護符に目を落とした。


「主人の事情を知る、そなたにも災いが降りかかるやも知れぬ、それを懐へ忍ばせて置きなされ」


サキはそう言うと、再びサナの手を取り目を閉じて、小声で呪文のようなものを唱えた。


「おそらく、主人がこの屋敷へ迎えいれた“モノ”は、百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の類じゃ……、もう既にあの肉体は霊魂が入れ代わっておる」


サキがそう言うと、

サナは、少々腑に落ちない様子で言葉を返した。


「だども……、確かに旦那さんは、“あの男”と入れ代わった後も、蔵の二階さおられました、オラは言葉も交わしとりやす」

疑念に顔を歪めるサナとは裏腹に、サキはそのサナの言葉で合点がいった。


「そなたは以前、わたくしに《デンデラ野》での話をしてくれたな……」


「へぇ」


「そなたはそれと知らず、異形のモノを見聞きし、言葉を交わす力を身につけておる、そなたが蔵で逢うたと言う主人も、入れ代わったというその男も、そなたが見た者どもは、既にこの世の岸辺を彷徨う幽体じゃ、霊魂が入れ代わりはしたが、肉体はおそらく、元からひとつしかない」


サキの話は、サナには到底理解できるものではなかった。

吉兼が連れてきた吉兼に似たあの男も、

膳を運んで食べさせてやったあの吉兼自身も、そして《デンデラ野》で会ったあの祖父も、考えれば、考えるほど、サナは困惑した。


「奥方様のおん身は……幽体?」

と言いながら、サナはサキの腕をさすった。


「わたくしは、しかと此処におる」


サキはそう言うと、中腰になりサナを抱き寄せた。

「心の臓の音が聞こえるであろう、生きておる証拠じゃ」


サキは、サナの柔らかい髪に頬を埋めた。

「本当じゃ、とく、とくと鳴っとられます」

浴衣の布一枚隔てて、サキの柔らかい胸から鼓動が響いた。


「奥方様、きっと旦那さんはまだあの蔵の中の何処かさ居られるのではねぇんだべか、もう、元の体さ戻れねぇんだべか」

と、サナはサキの胸元を涙で濡らした。


「……入れ代わってしまった今となっては、もう手遅れであろうな……、もとはと言えば、主人が自ら望んだこと……御公儀のお役目とは言え、罪人たちへの惨たらしい仕打ちに心を痛めておられた、

日々募る行き場のない虚しさが、凶々(まがまが)しきモノを呼び込んだのだ」

そう語る、サキの瞳からは止め処もなく涙が溢れ出した。


「そごまで、旦那さんの辛さば分かってらしたんだら、旦那さんば思ってらしたんなら、なして……」


とサナが顔を上げると、サキは泣顔を見られまいと、サナの細い身体を更に強く抱きしめた。


「奥方様、旦那さんは臆病者ではねぇ、お優しいだけだ、それを奥方様がちゃんと分かってることを伝えてあげればいいんでねぇんだか、きっと旦那さんはもう一度、この世さ戻りてぇと思ってくださるんでねぇべか」


サナはサキの腕を離れ、サキの泣き濡れた瞳の奥を見つめた。


数分後、

サキは、サナを伴って蔵の中へと足を踏み入れた。


しかし、サキは直ぐに二階へは行かず、

一階の床を探り始めた。

「ここか……」と床の土埃を払い見当をつけると、

そこにあった棚の上に並んだ柳行李(やなぎごうり)を幾つか抜き始めた。

サナも、それに倣って行李を棚から降ろした。

二人は力を合わせ、行李の薄くなった棚を動かした。

サキが見当をつけた床には、朱印の押された護符が貼られてあった。

サキは、護符を剥がし床蓋を開いた。

床下には地下室へと続く階段が見えた。


「ここから先は、わたくししか入れぬ、サナはここで待っていなさい」


と言うと、サキは階段を下り、地下へと姿を消した。


しばらくして、サキは弓と刀を持って戻って来た。

サキが重そうに階段を上って来るのに見かねてサナは思わず手を出したが、

「触れてはならぬ」

と咎められてしまった。


二人はまた力を合わせて、その場を元へ戻した。


「これは、何でやすか」

とサナ尋ねると、サキはあまり話したくは無さそうに口籠った。


「言うなれば、神器じゃ……その昔、魔物を打ち滅ぼしたと伝わる弓と、その神通力を込めたと伝わる(つるぎ)


蔵の二階の納戸へは、サキが独りで上った。

納戸内は深い闇に包まれ、閑散としていた。

毅然とした足取りで板間を踏むサキの目に、吉兼の姿は幽体としても映らなかった。


「……旦那様、そこに居られるのでしたら、わたくしのお話をどうかお聞きください、わたくしは、一目あなた様にお会いした、その日からあなた様をずっとお慕い申しておりました、故に、あなた様

が苦しまれておられるお姿を真近に見て居られず、目を背けて参りました、この不甲斐ない、わたくしをどうかお許し下さい」


すると格子戸に一匹の蛍がとまった。

サキはすがるような目で、その脆弱な蛍の光を見つめた。


「これに有るは、高家旗本、土岐家よりお借り受けしておりました神器、源頼光公の弓、源頼政公の剣《獅子王》に御座います」

と言って、サキは弓と太刀を床へ並べた。

「あなた様の血肉を奪いしは百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の魔物、この弓は、かの源頼政公が魔物の(ぬえ)を成敗した折のもの、そしてこの《獅子王》は再び魔物が現れた折に、頼政公が都を御護りするため帝から貰賜された剣に御座います、これらは我が澤田家が江戸の丑寅(うしとら)の方角、鬼門を鎮守せしめしお役目を拝命した折、頼政公の末裔土岐家より拝借致しました、これを以って共に魔物を打ち払いましょう」


一縷の蛍光は、窓際へ座したきり動かなかった。

サキは膝間付いた。

「また再び、あなた様にお逢いできたならば、わたくしは神命を賭して、あなた様をお守り致します」


そう言ってサキは弓と太刀を拾い上げて、納戸を出て行った。


「奥方様どうでがした、旦那さん居られましたか……」


階段を下りて来たサキに、待ちわびたサナがまとわりついた。


「伝えるべきは伝えた……でも、旦那様は、わたくしをお許しくださるまい」


と言ってサキは、白金の鞘へ収まった《獅子王》を見つめた。





つづく

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